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「裸になってさらけ出すことなんだ」撮影で流血、異例の休業…“やめるつもりだった”薬師丸ひろ子(60)が俳優を続けてきた理由とは

文春オンライン / 2024年7月14日 6時0分

「裸になってさらけ出すことなんだ」撮影で流血、異例の休業…“やめるつもりだった”薬師丸ひろ子(60)が俳優を続けてきた理由とは

薬師丸ひろ子 ©時事通信社

 いまから40年前の1984年7月14日、薬師丸ひろ子主演の映画『メイン・テーマ』が公開された。この映画は、当時の角川書店(現・KADOKAWA)社長・角川春樹が設立した角川春樹事務所の製作による、いわゆる「角川映画」の一作であり、監督を森田芳光が務めた。森田はその前年に公開された『家族ゲーム』(松田優作主演)で話題をさらい、新進気鋭の映画監督として注目されていた。

「冒険にも似ていた」森田監督との出会い

 森田はこの数年後、週刊誌の対談で薬師丸と再会した際、『メイン・テーマ』のロケ中に彼女から呼ばれ、「私とカメラワークとどっちが大事なんですか」と言われたという話を明かすも、本人には《ウソだよ(笑い)》と否定されている(『週刊ポスト』1989年1月6・13日号)。彼女の発言の真偽はともかく、森田がカメラワークに凝っていたのは事実で、のちには「薬師丸の心情を僕が描かなかった」「歩き方ひとつにしても、全部ミリ単位で止めたり動かしたりしていたんですよ」などと反省しきりであったらしい。

 薬師丸自身は、森田が2011年に亡くなったあとで改めて振り返り、《森田さんとの出会いは、その言葉を信じ、ついていってみる冒険にも似ていました。(中略)森田さんの演出意図を当時は十分に飲み込めていなか[った]かも知れません。今だったらきっと監督の言う事をワクワクしながらすべて受け止められたと思いますし、そういうテイストの作品は大好きです》と語っている(ぴあMOOK『森田芳光祭』ぴあ、2013年。[ ]内は原文では欠落)。

主題歌もことごとくヒットした

 薬師丸は1981年の『セーラー服と機関銃』以来、映画に主演するたびに主題歌も歌い、ことごとくヒットした。『メイン・テーマ』でも、映画と同タイトルの主題歌(南佳孝作曲、松本隆作詞)を歌い、公開前の1984年5月にシングル盤としてリリースされている。その歌詞に「20年も生きて来たのにね」とあるとおり、薬師丸は映画公開の前月、6月9日に20歳の誕生日を迎えた。誕生日当日には自身初のコンサートを東京の渋谷公会堂で開催している。

デビュー作はオーディション前からヒロイン役に決まっていた

 薬師丸は中学2年生のとき、映画『野性の証明』(1978年)のヒロイン(主演の高倉健の娘役)を選ぶオーディションに合格し、角川春樹事務所では初の専属俳優としてデビューした。映画撮影前には、演技経験を積ませるとともに顔と名前を売るため、本名の「薬師丸博子」名義でテレビドラマ『敵か? 味方か 3対3』に出演している。

 じつは『野性の証明』のオーディション前から、角川春樹はヒロインは薬師丸で行くつもりでいたらしい。

 昨年、「文春オンライン」で配信された記事によれば、角川が薬師丸を知ったのは、銀座の高級クラブ「順子」のオーナーである順子ママから見せられた1枚の写真によってだった。それは、クラブのスタッフから、青山の中学校のそばを信じられないほどかわいい女の子が歩いていたとの情報を聞きつけ、ママが撮らせたものだった。

 角川は写真を見せられると、真顔になって「ママ、この写真、ちょっと貸してもらえないかな」と頼み込んだという(欠端大林「 薬師丸ひろ子(58)のデビューが決まった銀座・高級クラブの“伝説の夜” 角川春樹が真顔で『ママ、この写真、ちょっと貸してもらえないかな』と 」、2023年4月15日配信)。

『野性の証明』への出演でやめるつもりだった

 どうやらこの写真が『野性の証明』のオーディションに回されたらしい。薬師丸は芸能界入りのきっかけを《たまたま私の写真を撮った人がいて、その方が私の知らない間にオーディションに応募していたんです》と語っているが(中川右介『角川映画 1976-1986 日本を変えた10年』KADOKAWA、2014年)、順子ママの証言でそれが裏づけられたことになる。オーディションでは最終選考に9人が残ったが、角川が強く薬師丸を推して決まったといわれる。

 薬師丸自身は育ったのが東京・青山だけに、友達の父親がアイドルのディレクターだったり周囲にショービジネスに関わる人も、実際にスターを目にする機会も多く、自分が芸能界で務まるとはとうてい思えなかった。だが、『野性の証明』で彼女はみごとに人々に存在感を印象づけた。

 それでも本人は両親ともどもこれきりでやめるつもりで、オーディションの賞金100万円もすべて関係者へのお礼の品に変えていた。それがもう少し続けてみようと思ったのは、高校に入る直前、初の主演映画となる『翔んだカップル』(1980年)の監督の相米慎二と会い、《映画って思ってるような派手なことじゃないぞと思い始めたんですね。アイドルとかスターになるとかではなく、ものを創るところに吸い込まれていくような気がした》からだという(『週刊文春』2005年12月8日号)。

「裸になってさらけ出すことなんだ」相米監督に教わったこと

 相米とは『ねらわれた学園』(大林宣彦監督、1981年)を挟んで同年の『セーラー服と機関銃』で再び組んで、人気を不動のものとした。その指導は厳しく、罵声が飛ぶこともしょっちゅうであったが、とにかく根性でついていったという。それでも彼女は相米について《本当に自分の恩人だと思っています。演じるということは本当に裸になってさらけ出すことなんだということの、恐さと厳しさを教えてもらいました》とのちに語っている(『キネマ旬報』2005年11月上旬号)。

『セーラー服と機関銃』では、クライマックスで薬師丸が機関銃を連射しながら「カ・イ・カ・ン」とつぶやくシーンが語り草である。そこで彼女は、火薬で破裂させて飛び散ったガラス片で左頬から血が吹き出すも、ひるまず銃を撃ち続け、迫真の演技を見せた。

けがは本物だった。相米が「カット」をかけると、現場は大騒ぎに

 原作者の赤川次郎は映画公開時、相米と同席した鼎談で、《けがして血が出て、あれ本物でしょ、よくやったな、やめないで》と感心した。これに対して相米は、《どっかでああいう顔するのが分かったんだね、今度の撮影中に。(中略)あそこまでいったからいいんじゃないかと思いますね。偶然が強過ぎたからね。と言っても、ひろ子の中では偶然じゃないからね。けがするのも必然的、別にけがに動じた顔じゃないし》と語っている(『キネマ旬報』1981年12月下旬号)。

 もっとも、相米が「カット」をかけると、現場は大騒ぎとなった。周囲から「大丈夫か」と一斉に大声があがり、薬師丸は「だ、大丈夫です……」と答えたものの、すぐに病院に担ぎ込まれた。その後、彼女は撮影現場に戻ってきたものの、「痕が残るかもしれないってお医者さんに言われた」とベソをかいていたと、共演者の寺田農が証言している(『週刊現代』2015年3月28日号)。

高校と大学はけっして休まないと決めた

 撮影中以外の薬師丸はあくまで普通の少女だった。映画業界の挨拶は昼夜関係なく「おはようございます」だが、彼女は夜なら「こんばんは」と普通に挨拶をした。学校も、中学時代に『野性の証明』の撮影で50日以上休み、久々に授業に出たら何もわからなくてショックを受けた経験から、高校と大学はけっして休まないと決めた。そのため映画の撮影は春休みと夏休みに集中して行い、『セーラー服と機関銃』のあとは大学受験のため1年間休業する。それは当時の芸能界では異例のことであった。

 しかし、いまとくらべると芸能人がはるかに無防備だったこの時代、薬師丸の通う高校には心ないファンが潜り込んで盗難や落書きをしたり、マスコミが来てほかの生徒にいきなりマイクを突き出したりということもあったらしい。そのたびに彼女は自分のせいで周囲に迷惑をかけているとやるせなさを感じたが、友達や教師がかけてくれる優しい言葉に救われた。おかげで仕事を離れた1年間は充実していたという(『GORO』1983年3月10日号)。

 受験にも無事合格し、1983年4月に玉川大学に入学した。同時に芸能活動を再開するも、その2年後、薬師丸は大きな決断をすることになる――。

〈 “契約金は2億円”とも…「フリーになりたいんです」芸能事務所が争奪戦を繰り広げ、当時20歳の薬師丸ひろ子が下した“驚くべき決断” 〉へ続く

(近藤 正高)

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