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《有名な「あっ、そう」よりも…》義甥(95)が昭和100年を前に振り返る「昭和天皇の何とも云えない雰囲気」

文春オンライン / 2024年7月15日 6時0分

《有名な「あっ、そう」よりも…》義甥(95)が昭和100年を前に振り返る「昭和天皇の何とも云えない雰囲気」

昭和天皇とご一緒に(筆者提供)

来年2025年は、昭和100年にあたる。戦争から復興、経済成長と激動の昭和期を体現する人物が昭和天皇だ。旧皇族で義甥にあたる久邇邦昭氏(95)が、その思い出を自ら綴った。

◆◆◆

「昭和天皇様にお会いした最初」

 昭和天皇陛下は、私の義理の叔父様にあたる。父の妹が皇后様→皇太后様→香淳皇后様だからだ。

 昭和天皇様は私の懐かしい方、尊敬措く能わざる方、そして今でも私の心の中においで下さる方と思っている。

 昭和様を存じ上げていた方、話に聞いていたような人々はまずすべて浄土に行ってしまった。私が95歳になったのだから当然だ。だから昭和天皇様の思い出を書くのにも、何か確かめてみようというのは無理で、私の記憶に頼らざるを得ないが、何しろ天皇様のおかくれからもう随分の時が流れた。何か間違っていても御容赦願おう。

 私が昭和天皇様にお目もじしたのは昭和5(1930)年のこと、私は昭和4年3月の生まれだが、皇族は生後1年たつ頃、賢所(宮中三殿)に御用取扱(皇后様の女官長のような人、妃殿下につく)に抱かれて参拝する。その時天皇様にお目もじしたのか聞くすべがないが、もしお目もじしたのなら、これが昭和天皇様にお会いした最初だ。

 ここで一寸中断、私が何者かわからない方が大半だろうから、私の出自を簡単に書いておこう。日本の皇室では、遠く南北朝の頃から天皇の皇子(親王)の中から新たに宮家(親王家)を創設した例がみられ、伏見宮を最初として、桂宮、有栖川宮、閑院宮と作られて、幕末明治の頃にはこの四親王家が皇族として存在した。天皇家と四親王家の間ではお互いに皇子と王子をやり取りして大変に近い関係にあった。親王家から天皇家を継いだ最後は、閑院宮二代典仁親王の第六王子兼仁(ともひと)親王が後桃園天皇のあとをうけて即位された光格天皇だ。江戸時代後期のことである。

 王政復古となって天皇の名代として国内国外の諸行事に出たり、種々の活動の総裁として事にあたるため皇族を増やさなければならなくなり、法親王として諸門跡寺院の門跡となっておられた方々を還俗させることとなった。孝明天皇は青蓮院(しょうれんいん)門跡、天台座主になって居た尊融(そんゆう)法親王を還俗させて朝彦(あさひこ)親王とし、宮号を中川宮のち久邇宮とした。朝彦親王は伏見宮邦家親王の第四王子である。私は第四代曾孫、香淳皇后は父朝融(あさあきら)王の妹というわけだ。

 ついでに朝彦親王について略述しておこう。親王は孝明天皇の、日本は公武合体を堅持し、内戦などは以ての外だというお考えに共鳴し、ほとんど毎日参内しては陛下のお考えの完遂に努力した。そのため討幕派の公家や薩長ににらまれ、孝明天皇が急崩御された後、親王は広島に流された。

 孝明天皇御存命であれば、戊辰の乱もなく、幕府の能吏を交えて、雄藩連合の政体で開国の実をあげ、その後の歴史も変わっていたのではないか等と思いめぐらしたりするが、はてどうであったか。

帽子もくずれてもみくちゃになり……

 次にお目にかかったのは学齢に達してから。皇族の長男は毎年1月3日朝、一人一人、両陛下、皇太后陛下の前で御挨拶(お辞儀)をすることになっていた。

 私は昭和4(1929)年の生れだから、昭和6年の満洲事変、7年の五・一五事件、11年の二・二六事件、12年開始の日中戦争(当時は日支事変といった。宣戦布告なしで始めたからと了解する)、16年からの太平洋戦争、敗戦の20年までの15年戦争ともいわれる戦争の時代が、丁度私の青少年時代だ。だがこの間、あの平和主義、立憲君主制尊重主義、無私、国民第一主義の陛下はどんなにか悩み、嘆かれたことだろう。昭和20年8月15日、日本国疲弊、やっと陛下の終戦の宣告が通って足かけ5年の太平洋戦争は終りを遂げた。

 終戦の詔勅を私は広島県江田島の海軍兵学校で拝聴し、数日後あの惨状の中、広島市を通って帰京したのだった。

 終戦後は色々あったが、昭和22(1947)年にGHQの指令で皇籍離脱後、成年になってからは、1月1日の朝に成年の皇族旧皇族と共に参内し、両陛下、皇太后陛下に御挨拶申し上げた。このほか天皇陛下には、天皇誕生日(天長節から名称変更)、年末御挨拶、一同の会食など、年に数回お目にかかり、お話をする折もあった。

 陛下はお会いすると、「や、元気?」と一寸尻上りに仰る。「はい、元気にして居ります」と云うと、あの有名になった「あっ、そう」と仰るのだが、私にはあの「元気?」と仰る、何とも云えない雰囲気、にこやかなお顔が忘れられない。

 私どもが結婚した時、小宴を賜り、記念の銀のボンボニエールをいただいたのだが、皇后様が「お上(かみ)がこれに鴛鴦(おしどり)をきざむように、と仰せだった」と仰った。

 敗戦後、全国を車中泊をなさったりして、何度かに分けて廻られたが(米国施政権下の沖縄を除く。陛下は終生沖縄訪問が出来なかったことを悩まれていたとのことだ)、あのこよなく愛する国民に交(まじ)って、帽子もくずれてもみくちゃになり、「陛下はどこにおいで」と叫ぶ紋付姿のお婆さん。そういうお姿は昭和様そのものだ。

※本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「 昭和天皇 や、元気? 」)。

 

「文藝春秋 電子版」と「文藝春秋」8月号では、大特集「 昭和100年の100人 激動と復活編 」を展開中。昭和の忘れがたい人物100人の「本当の姿」を、意外な著名人、親族が紹介しています。

「 三島由紀夫 あそこだ、空飛ぶ円盤だ! 」横尾忠則
「 宮本常一 土佐源氏をアニメに 」鈴木敏夫
「 井伏鱒二 すげぇ小説 」町田康
「 力道山 俺の笑顔は千両だろ 」田中敬子(妻)
「 淡谷のり子 あんた帰りなさい 」清水アキラ
「 美空ひばり 錦之介さんの口紅 」石井ふく子

(久邇 邦昭/文藝春秋 2024年8月号)

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