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《「倭」「ヤマト」の意味とは?》邪馬台国の場所を知るカギとなる「日本語に隠されたヒント」とは?

文春オンライン / 2024年7月20日 6時0分

《「倭」「ヤマト」の意味とは?》邪馬台国の場所を知るカギとなる「日本語に隠されたヒント」とは?

桃崎有一郎氏 ©文藝春秋

邪馬台国はどこにあったのか――。歴史学者・桃崎有一郎氏は、まず「邪馬台」の読み方は「ヤマタイ」ではなく「ヤマト」であり、そこから多くのことが見えてくるという。続けて桃崎氏が着目するのは、「倭」「ヤマト」という二つの言葉の、古代における定義や使い分けだった。

◆◆◆

入れ子構造の発生

 飛鳥時代のように行政区分としての「ヤマトノクニ」を「倭国」と書くと、女王卑弥呼のもとで中国・朝鮮半島諸国と国交した王朝の「倭国」と、区別がつかなくなる。そこが重要だ。「倭」は、「ヤマト(最上層)」と「ヤマト(中間層)」という、規模が違う2つの領域を示す意味を持ったのである。

 しかも、先に述べた通り、「ヤマト(中間層)」は、その内部にさらに「ヤマト(最下層)」を包み込んでいた。そして、その「ヤマト(最下層)」も最終的に「大和」と書かれた以上、ほかの「ヤマト」と同様に、古い一時期には「倭」と書かれたと考えねばならない。事実、その「ヤマト(最下層)」を支配した「ヤマトのクニノミヤツコ」は、『日本書紀』や『古事記』で「倭(、)国造」と書かれている。

『古事記』には14例「倭(ヤマト)」が現れるが、そのうち大多数の12例が確実に「ヤマト(中間層・最下層)」である(残る1例は解釈を確定できず、もう1例は国生み神話で本州を指す「大倭国(やまとのくにの)豊秋(とよあき)津(つ)島(しま)」〔神野志隆光説〕)。さらに、(歌謡を除く)地の文に現れる「倭(ヤマト)」という地名は8例すべて、「ヤマト(最下層)」と解釈して問題ないことも判明している(直木孝次郎説)。

 以上のように、日本語地名「ヤマト」も、漢字地名「倭」も、3つの異なるスケールで使われた。その関係は、「倭(ヤマト)(最下層)」を「倭(ヤマト)(中間層)」が包み込み、それをさらに「倭(ヤマト)(最上層)」が包み込むという、マトリョーシカのような入れ子構造だった。これら3つの「倭(ヤマト)」は、別々に独立して生まれたはずがない。一つ以上がまず最初に生まれ、残りが派生したと考えるのが自然だ。

「倭」には固有の意味がない

 ところで、「倭」を「ヤマト」と読むのは、当然ではない。「倭」に「ヤマト」という日本語を宛てることは、日本語話者(倭人)が意図的に、強い理由に基づいて行ったことだ。では、「倭」を「ヤマト」と読むべき必然性は、どこにあるのか。

 そう思って調べてみると、面白いことがわかる。「倭」という字には、意味がない(、、、、、)のだ。「倭」の字の意味とされているものはすべて、ベースになった「委」の字が持つ意味であり、「倭」の字には固有の意味がない。正確にいえば、〈「委」という発音の人や土地を指す固有名詞〉という意味しかない。「倭」は、固有名詞を表すためだけに「委」に人偏をつけて生み出された字らしい。

 通常、漢字に日本語の訓を宛てる時は、その漢字が持つ意味に対応する日本語を宛てる。ところが、「倭」の字には意味がないので、機械的に訓を宛てられない。「倭」と「ヤマト」は、〈この2つが同じ地域を指す〉という政治的判断や決定(、、、、、、、、)によって結合したと考えなければならない。

 ところが、前述の通り、「倭」も「ヤマト」もそれぞれ、3つの規模の地域を指した。では、どの規模の地域を指す「倭」と「ヤマト」が、なぜ、いかにして結合したのか。それを知るには、「倭」と「ヤマト」がそれぞれ、原義としてはそもそもどこを指す地名だったのかを、踏まえなければならない。

「倭」については簡単だ。「倭」は、後漢(25〜220年)までに中国が〈日本列島・日本列島人を呼ぶ固有名詞〉と決めた言葉であり、そう決まって以後、中国人も朝鮮半島人も、その用法を逸脱しなかった。「倭」は、数十の小さな「国」を内部に持つ一つの民族全体(、、)と、彼らの居住する一つの広い地域全体(、、)を指した。前述の通り、『日本書紀』でも、注に引用された中国や朝鮮半島の史書は100%例外なく、「倭」をその意味だけで使った。つまり、「倭」は明らかに、統一王朝の国号へとつながる最上層の用法から始まっていた。その数百年の伝統を経た後に出現した中間層や最下層の「倭」は、後から生まれたと考えるしかない。

「ヤマト」は狭い地域の地名

 では、「ヤマト」も同じように考えられるかというと、できない。統一王朝の国号を「ヤマト」と呼んだ最も古い確実な用例は、8世紀前半の『日本書紀』まで下るのである。

「ヤマト」が本来、かなり狭い地域の地名として出発した証拠は、いくつもある。

『万葉集』をはじめ、主に和歌において、「ヤマト」が「シキシマ」という枕詞を伴うことがあった。「磯城島」「式島」「志貴島」「之奇志麻」など様々な字で書かれたが、「シキシマのヤマトの国」で一つの成句となり、統一王朝の国号か奈良地方かを問わず、「ヤマトの国」を修飾した。後には「シキシマ」だけでそれらの「ヤマト」を意味し、たとえば〈和歌の道〉のことを「敷島の道」と呼ぶようになった。

 この「シキシマ」は、崇(す)神(じん)天皇の「師木(しき)島(しま)の大宮」(『古事記』)や、欽明(きんめい)天皇の「磯城(しき)島(しまの)金(かな)刺(さしの)宮(みや)」(『日本書紀』)など、王宮の所在地として現れる。欽明の王宮がそう呼ばれたのは「倭(やまとの)国(くに)磯(し)城(きの)郡(こおり)磯城島」にあったからで(『日本書紀』)、「シキシマ」は明らかに奈良地方の「ヤマト(中間層)」に含まれた磯城郡内の地名である。磯城郡は「ヤマト(最下層)」を含むから、「シキシマのヤマト」という結合はこの狭い地域でまず起こり、後に統一王朝の国号へと拡大したと見るほかない。

 同じことが、「秋(あき)津(つ)島(しま)(秋津洲)」にもいえる。「秋津島」は統一王朝の国土全体や本州を指す美称で、国土全体や本州が「蜻蛉(あきつ)の臀(と)呫(なめ)(トンボの交尾の姿)」に似ているという神(じん)武(む)天皇の感想が語源だと『日本書紀』に伝わる。しかし、孝安(こうあん)天皇が葛城の室(むろ)という地(令制の大和国葛上(かつらぎのかみ)郡牟婁(むろ)郷。今の奈良県御所(ごせ)市室(むろ))に設けた王宮が「葛城(かつらぎの)室(むろ)の秋津島の宮」と呼ばれたように(『古事記』『日本書紀』)、「秋津島」もやはり奈良地方の「ヤマト(中間層)」内部の、極めて狭い地域の地名だった。

 これら「シキシマ」や「秋津島」が、狭い地域の地名から統一王朝の国号の代名詞となった理由は、枕詞などとして結びついていた「ヤマト」が拡大して、その道連れになった結果と考えるしかあるまい。それはつまり、「ヤマト」が本来この小さな地域名から出発したことを意味する。

 では、「ヤマト」という地名そのものの最も古い用例は何か。それこそ、『魏志』倭人伝に見える3世紀前半の「邪馬台(ヤマト)」にほかならない。つまり、卑弥呼の時代には、統一王朝全体を指す「倭」と、その内部の小国を指す「ヤマト」が、混じることなく別々に存在した。これが「倭」と「ヤマト」の初期状態だ。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(桃崎有一郎「 画期的新説 邪馬台はヤマトである 」)。

(桃崎 有一郎/文藝春秋 2024年3月号)

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