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「鶏の首を落とし、血の飛び散り方で占ってくれた」タンザニアの呪術にもヒントがある…“他者を助ける”合理的な社会の作り方

文春オンライン / 2024年7月25日 6時0分

「鶏の首を落とし、血の飛び散り方で占ってくれた」タンザニアの呪術にもヒントがある…“他者を助ける”合理的な社会の作り方

小川さやかさん、福岡伸一さん

『利己的な遺伝子 利他的な脳』の翻訳を手掛けた福岡伸一さんが、タンザニア商人の商習慣を研究する小川さやかさんと対談。現代社会を生き抜く術を利他の視点から考える。

行商人の商習慣を研究

福岡 今年の東大の国語の入試問題に小川さんの論文「時間を与えあう――商業経済と人間経済の連環を築く『負債』をめぐって」が出題されました。東大が第一問の評論文に女性筆者の文章を出題したのは、戦後新制入試が始まって初だそうです。

小川 正直なところ「女性初」は認識していませんでした。試しに問題を解いてみたら、自分の文章なのに苦戦しました(笑)。「100字以上120字以内で説明せよ」とあったんですが、著者はあれこれと悩みながら書いているので、この文字数に収めるのは難しいですね。

福岡 小川さんは、タンザニアの都市・ムワンザや香港のタンザニア人コミュニティに入り込み、行商人の商習慣を研究されてきたそうですね。その記録を読むと、私の考える生命の利他性とつながるので、ぜひお話をしてみたいと思っていたんです。

 今回私が翻訳した『利己的な遺伝子 利他的な脳』は、アメリカの脳神経科学者ドナルド・W・パフ先生の著書で、最新の知見をもとに利他性が生命系全体に備わっていることを説いたもの。それは「本能」という言葉で表現されがちですが、本書ではもう少し解像度の高い言葉で生物学的に解き明かそうと試みています。

小川 「自他の区別が曖昧になっていくことによって利他的行動が生み出される」という趣旨の記述は特に興味深かったです。文化人類学では観察対象となる社会に入っていく際、対象者と同じものを食べ同じように行動する。そうやって真似するうちに対象者の考え方や物の感じ方を身体的に了解していくのです。

福岡 西洋社会と近代科学が作り上げてきたパラダイムは、アイデンティティつまり自己があるのは自明であり、その上で他者が存在するという考え方。ただ、生命のことを考えてみると、自己はそんなに明確なものではないんですよね。むしろ同じホモサピエンスとして同じ遺伝子やウイルスだって共有しているし、脳にはミラーニューロンのように他者の振る舞いが自分のものとして認知できる仕組みもあります。

小川 本書の主張とは真逆ですが、20世紀には、リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子論」が流行しましたよね。

「生命は利己的」とは思えない

福岡 ええ、ドーキンスの主張は、「生命は利己的で遺伝子を増やすことだけが唯一無二の目的であり、そのためにすべてのことが最適化されている」というものでしたが、やはりそうとは思えない点が多々ある。たとえばコウモリを見てみると、たくさん血を吸ったコウモリは、同じ洞窟に腹を空かせた仲間がいれば、親子やきょうだいであるかどうかは関係なく、その血を吐き出して分け与えているんですよ。

小川 利他的に生きているのですね。

福岡 生命系全体を見回してみると、植物は光合成をして太陽のエネルギーを有機物に変えていますが、もし植物が利己的に振る舞って自身に必要な分しか光合成をしなかったら、昆虫や動物は生育できず、地球は豊かな星にはならなかったでしょう。動物にしたって「弱肉強食」というと優勝劣敗のように見えますが、食う食われるの行為は実は利他的で互いに他を支えている。食われる側は増えすぎずにすむし、食う側もエサがなくならないよう、一定のところで止める。同じ空間で共存するためにバランスをとっているんです。

小川 「食う、食われる」とは少し異なりますが、古着などを仕入れて売り歩くタンザニアの行商人は、客から「今子供が病気で払えない」などと言われて取引がツケになることがあります。何度も回収しに行くのですが、その都度言い訳されたりして回収できないこともある。そもそも帳簿をきちんとつけていなかったりするんです。でも、彼らは“助け合い”を前面に押し出してはいません。実は、商売の場面での駆け引きはあるんです。売り手側も「これ以上値下げすると、俺は今日のご飯が買えないよ」などと同情を誘うような交渉をし、今お金に余裕のある客からは多めにもらい、余裕がない客には赤字でも売るといったことを当たり前のようにやっているんですよ。

福岡 それで行商人はプラスマイナスゼロになるわけですね。

小川 最終的に安い値段で売った場合、表面上は「交渉に負けた」とか「相手の嘘に騙された」と見えてしまいますが、彼らは「もしかしたら自分は相手を助けたのかもしれない」と思っている。逆のパターンで、話芸を駆使して高い値段で買ってもらった場合も「上手くやり込めたかもしれないけれど、もしかしたら客に助けてもらったのかもしれない」と心の中で感じていたりする。そういった認識の中に曖昧だけれど信頼関係が成り立っているんです。

福岡 バーコードでピッと会計するだけで何の交渉事もない私たちの買い物と違い、タンザニアでは、非常に高度な生命と生命とのやりとりが広がっているんですね。

人間だけが本来の生命の在り方を忘れて貯蓄に励んでいる

小川 たとえば日本のコミュニティだと、経済的に困っている人がいたら「皆でカンパしあおう。その代わり私が困っている時には助けてね」と取り決めたりする。でも、いつか必ずお返しができるかどうかは分からない。だからタンザニアの人々は、そういったことを曖昧にしておくわけです。「私はこれだけ相手を助けたのだから、同じ条件で助けてもらえるはず」という計算が働くと、利他が商取引のようなものにスライドしてしまう。その結果「私は頑張っているのに、あの人はサボっている」という不満や「私ばかり助けてもらっているのに何もお返しできていない」という不安が蔓延し、息苦しい社会になるんじゃないかな、と。

福岡 自然環境は流転しているから誰がどのタイミングで余剰を得るかわからない。さきほどのコウモリの例もまさにそう。幸運にも、その日たまたまたくさん血を吸えた個体が、アンラッキーだった個体に恵んであげる。こうして血縁の有無に関わらず助け合うことで、結果的に自分も生きのびられるのです。

小川 対して私たちの社会はあまりにも市場交換的な発想ですよね。「私はAさんを助けたのだから、Aさんは私に恩を返して」と期待するわけですが、その発想だとAさんが死んでしまった時に生きのびていけない。

福岡 そもそも人間以外の生物は基本的にその日暮らしで、未来に対する不安も過去に対する後悔もない。生物にとって“貯蓄”という行為は不要なんです。食料を貯めすぎるとすぐに腐ったりしてしまうから、その日生活できるだけの資源があればこと足りるし、余剰があるならそれは他の誰かに渡してあげたほうがいい。人間だけが本来の生命の在り方を忘れて貯蓄に励んでいる。その日暮らしができるかどうかは、時間感覚も関係しているのでしょう。

小川 タンザニアの商人たちを見ていると、助ける相手を過度に選別していないことが多々ある。彼らは大統領秘書や政治家、企業の社長から詐欺師や泥棒まであらゆる人脈があり、何かのついでの機会があればどんな相手でも助ける。それは自分自身の人生がどう転ぶかわからないから。たとえば詐欺に遭った時に一番良いアドバイスをくれるのは警察より詐欺師だったりしますから。つまり、助ける対象を選別して誰に“投資する”かを考えるのは時に不合理。他者の人生は自分の力の及ばないところで分岐していくわけで、タンザニアの人々はそういった他者の変化に自分の身を委ねられるんです。

選択と集中ではなく、バラまきを

福岡 非アルゴリズム思想ともいえますね。広く浅く投資しておけば、そのうちどれかは成功するというのは理にかなった考え方。科学研究費の分配もそうすればいいと思うんですが。選択と集中ではなく、500万円ずつでいいからバラまいておいたほうが、画期的な研究が出てくる可能性が上がると思うんですよ。

小川 本当にそのとおりです! それに“絶対上手く行きそうな研究”って、こぢんまりしがち(笑)。

福岡 自然も宇宙も人間関係も不確実なもの。我々は因果関係論を信じすぎているけれど、欧米が作り上げた近代社会が結果的に世の中をせせこましくしているのでしょう。タンザニア商人の例を聞くと、欧米の進歩史観からすれば“未開”と思われているところにも緻密な物語があるのだと気づかされます。

小川 たとえば妖術や呪術もそうですよね。タンザニアの人々はマラリアになった時に近代的な病院と伝統的な呪術医の両方に行くんですよ。

福岡 マラリアはハマダラカという蚊を介してマラリア原虫に感染することで発症するため、近代的な病院では薬を飲んで病原体を殺すのですよね。なぜ呪術医にも行くのですか。

小川 実際マラリアで呪術医に行った人曰く、「私は友達7人と一緒に川辺を歩いていたけれど、マラリアになったのは私だけ。なぜ蚊が私を刺したのかというと、誰かが私に妖術をかけているかもしれないから。それを解かなければ、次は交通事故にあうかもしれない」と。

福岡 なるほど、その妖術を解くために呪術医に行くわけですね。

小川 いまや機能主義は流行らないけれど、社会人類学者のエヴァンズ゠プリチャードは、妖術が社会の機能維持に役立っていると述べました。不幸の原因が誰かから嫉妬や恨みを買って妖術にかけられたことにあると考えると、恨みを買わないよう富を分配しなければならない。つまり妖術がある種の社会福祉的な機能を果たすのです。

福岡 おもしろいですね。その話、富を独占している資産家の人たちに声を大にして教えたい(笑)。ところで、小川さんはタンザニアでマラリアになったことはありますか。

小川 あります。呪術医にも行きますよ。

福岡 呪術医ではどのようなことをするのですか。

小川 地域や民族によって異なりますが、私の場合は、呪術師に言われたとおりに鶏を持っていったら、首を落とし、血の飛び散り方を見て占ってくれました。日本でも、不幸が続くと墓参りをして祖先を敬ったり、宗教的な祭事など社会の凝集性を保つものに力を注いだりする。私たちの生活にも、科学では説明できないことはたくさんあるわけですよね。

社会全体に利他性への信頼が必要

福岡 ええ、科学は万能だと思われているけれど、そうじゃない。科学は「どのようにしてそうなるのか」という「How」の疑問文には答えられますが、「なぜそうなるのか」という「Why」の疑問文には答えられないんです。たとえばガンでいえば、「ある成長因子の遺伝子が変化して細胞が暴走するから」という発ガンのメカニズムは説明できても、「どうして他の人ではなく私がガンになってしまったのか」という謎は解けない。だから、真の科学者は科学には限界があるということを知っており、決して断定はできないし、最終的には確率でしかものがいえないんです。呪術や妖術のように、科学万能主義を補完するものがある社会は、科学だけを信じている社会よりもむしろ成熟しているかもしれません。

小川 一般的には呪術や妖術は「伝統的」というイメージだと思いますが、それらは資本主義経済の発展によって拡大したという考え方もある。資本主義経済により急に貧富の差が出て「なぜあの人だけ成功して自分はこんなに不幸なんだ」という状況になると、それを補う論理が必要だから、と。利他の話に戻ると、『利己的な遺伝子 利他的な脳』には、「人間の脳は利他的なメカニズムを持っていると私たちが信じることによって、社会が変化しうる」という趣旨の話がありましたね。

福岡 そこにも「Why」と「How」が絡んでいるんです。人間の脳が利他的にできているメカニズムを研究するのは「How」の疑問文を解くということ。ですが、本書は「Why」の答えにも到達しようとしています。生命本来が持つ利他性の原理に立脚すれば、私たちが抱える諸問題にアプローチできる。分かり合えないように思える他者でも生命として同じホモサピエンスであるという基盤を共有すれば、そこからのアプローチがあると提言しているんです。

小川 そのためには社会全体に利他性への信頼――「ついでにやってあげられる程度の状況があれば人は助けてくれる」という信念が必要ですね。文化人類学者のデヴィッド・グレーバーのいう基盤的コミュニズムへの信頼があるといいと思います。たとえば、食卓で「そこの醤油取って」と言われたらサッと取ってあげるし、「今ここで醤油を取ってあげたから、相手は私にいいことをしてくれる」なんて思わない。私たちの日常にも本来は「その時たまたまできる人ができる範囲で助けてあげる」という基盤がある。それは「たくさんいる知り合いのうちの誰かは自分を助けてくれる」と語るタンザニアの人々とさほど変わらない。基盤的コミュニズムがなければ、その上に成り立つ資本主義や社会主義のシステムも上手く機能しないです。

解けない「Why」にどうやって向き合うのか

福岡 人生の浮き沈みは誰でもあるので、「100しかないところから10を寄付せよ」ではなく、たまたま120になったら、余剰をあげればいい。

小川 「Why」と「How」で思い出すのが、文化人類学者の石井美保さんの著作『遠い声をさがして 学校事故をめぐる〈同行者〉たちの記録』です。これは小学校でのプール事故で娘を亡くした遺族たちが経験した10年間の記録。遺族は「なぜ愛しい我が子を失わなければならなかったのか」という「Why」の問いを抱えているが、学校側や行政が提示できるのは、プールの水深や管理体制についてなど「どのようにして事故は起きたか」という「How」の問いの答え。遺族は止まった時間の中で「Why」を問い続けるのに、社会は日常を取り戻すために「How」の答えを教訓という形に変えて未来の物語に還元する。結果、遺族は新たな苦しみを抱えることになるのです。

福岡 たしかに科学は「Why」を教えてくれないかもしれない。でも、最終的に「Why」の疑問文に到達するためには、「How」の疑問を丁寧に解かないといけないんです。それをせずに、いきなり「Why」の答えを出そうとすると、オカルト論や陰謀論に陥ってしまう。一方で「How」だけで物語が完結するわけじゃない。あらゆる科学理論がそうなのですが「How」を解くことに懸命になりすぎるがゆえに、生命全体の「Why」に目を向けられていないんです。

小川 解けない「Why」にどうやって向き合うのか。それは、人文社会科学が取り組んでいかなければならないことだと思います。

福岡 「文理融合」は、本来そういったことを目指すものだと思うのですが、現状必ずしもそうなってはいない。どのようにしてその理想を体現するのか。それは私たち研究者に与えられた課題なのかもしれません。

(ふくおかしんいち/1959年生まれ。生物学者。青山学院大学教授。米ロックフェラー大学客員教授。『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、中央公論新書大賞を受賞。著書に『新版 動的平衡ダイアローグ:9人の先駆者と織りなす「知の対話集」』(小学館新書)など。)

 

(おがわさやか/1978年生まれ。文化人類学者。立命館大学教授。大学院生時代からタンザニアでフィールドワークを始める。『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社)で大宅壮一ノンフィクション賞、河合隼雄学芸賞を受賞。著書に『「その日暮らし」の人類学』(光文社新書)など。)

(「週刊文春」編集部,音部 美穂/週刊文春 2024年7月25日号)

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