1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. スポーツ総合

巨人・広島で優勝を経験→喫茶店マスターに…野球好きが集う“萩さん”の店を再訪した日

文春オンライン / 2024年7月20日 11時0分

巨人・広島で優勝を経験→喫茶店マスターに…野球好きが集う“萩さん”の店を再訪した日

巨人時代の萩原康弘さん

※こちらは公募企画「文春野球フレッシュオールスター2024」に届いた原稿のなかから出場権を獲得したコラムです。おもしろいと思ったら文末のHITボタンを押してください。

【出場者プロフィール】宮本 球優人 広島東洋カープ

団塊ジュニア世代の会社員。最初の推しは1979年の広島カープ&江夏豊さん。中学入学時に、坊主頭になるのと地元の先輩が怖くて野球部入部を断念。野球の歴史を記録と記憶で紐解く「野球歴史家」を目指す。

◆ ◆ ◆

 東京・豊島区目白は閑静な住宅街でもあり、学生の街でもある。JR目白駅の改札を出て、横断歩道を渡ると、山手線の線路沿いに小さい路がある。そこを数分歩いたところにある雑居ビルに、CAFE HAGIという小さな喫茶店がある。

 主は元プロ野球選手の萩原康弘さん。1947年生まれだから私の父とほぼ同年代だ。萩原さんは読売ジャイアンツで左の代打としてV9に4度、貢献すると、広島カープが1975年に初のリーグ優勝を決めたオフにカープへ移籍した。カープに移籍4年目となる1979年、4年ぶりのリーグ優勝が懸かった10月6日の 阪神戦では「6番・ファースト」で先発出場すると、阪神の先発で、巨人で元同僚の小林繁から3打数1安打を放ち、カープが4対3で勝利して、本拠地・広島市民球場で悲願の優勝決定を果たした。地元カープファンは古葉竹識監督の胴上げを目撃したのである。

 そして、翌1980年、2年連続のセ・リーグ優勝決定が懸かった、10月17日の甲子園での阪神戦、萩原さんは「5番・レフト」で先発起用された。カープが0対1と1点ビハインドの6回表、1死満塁の場面で、萩原さんがやはり小林繁から逆転満塁弾を放って6対3で勝利し、マジック1とすると、カープの古葉監督とナインたちは広島に帰る新幹線の中で、リーグ2連覇決定の知らせを受けた。

 萩原さんはプロ生活14年間で通算217安打、20本塁打のうち、カープ在籍時の7年間に打ったのは152安打、14本塁打であるが、大事な場面で文字通り、記録よりもカープファンの記憶に残る一打を打っている。

野球好きの人々が萩さんを慕って集まってくる喫茶店

 私がこの店を訪れたのはかれこれ6年前、2018年になる。ネットで萩原さんの記事を読んで、この店の存在を知ったのだ。中央大卒業後に巨人、広島、ヤクルトと3球団を渡り歩き、14年で6度の日本一を経験、36歳で現役を退くと、横浜出身の萩原さんは目白の地に夫婦で小さな喫茶店を開いた。ここは移転して2軒目である。奥様はもうこの世にはいらっしゃらないという。

 CAFE HAGIは、平日の朝10時から夕方18時まで営業しているが、毎週水曜の夜は、「野球談議の日」と銘打って、「延長戦」があるのだ。そこには応援するチームに関係なく、野球好きの人々が萩さんを慕って集まってくる。

 私は2018年のシーズン開幕前に1度、訪問したが、とにかく「緩い」集まりだ。飲み物は用意されているが、食べ物はお客さんが自由に持ち込んでよいことになっており、お客さんが自分で持参したお菓子やおつまみをみんなでシェアして食べるのだ。こうすれば、萩さんもカウンターに立たず、野球好きたちは萩さんとの会話をゆっくり楽しむことができるというわけである。萩さんが巨人時代に同僚だった同級生の堀内恒夫さんも時折、顔を見せていたようだ。

 しかし、残念ながらその後、私は関西への転勤で足が遠のいてしまい、そこにコロナ禍が直撃したのである。コロナ禍の間、萩さんがネットの媒体から取材を受けた記事を読んだが、他の飲食店と同様に、自粛期間中は客足が遠のき、大変だったようだ。

「オレと知り合い?」

 2023年に入り、コロナ禍がようやく一段落した頃、久々にCAFE HAGIに行ってみようと思い立った。忘れもしない6月16日、金曜日、私は午後から仕事を休んで、目白の駅に降り立った。

 雑居ビルの3階まで上がり、店の入り口をくぐる。

「いらっしゃい」

 萩さんが出迎えてくれる。お元気そうだ。私は軽く「こんにちは」と会釈して店に入った。店の中には、入り口の手前のテーブルには男性が一人、奥のテーブルには一人の女性が座っていた。常連らしき男性客はスポーツ新聞を読んでいる。店の中はそんなに広くはないが、萩さんがプロ野球選手だった証となる記念の品が幾つか飾ってあり、窓際のテーブルの向こうの眼下には山手線の線路が見え、上り下りの電車が頻繁に往来している。

 私は見晴らしのよいテーブル席に腰をかけた。窓は締め切ってあっても、眼下で電車が行き来する度に車輪の音がくぐもって聞こえてきた。萩さんは私が座ったテーブルに来て、コップに注いだ水を置きながら、おもむろに私に話しかけた。

「何にします?」
「あ、じゃあ、ランチのミートソーススパゲティで……あと、アイスコーヒーで」
「はい」

 一呼吸置くと、萩さんは私に尋ねた。

「オレと知り合い?」

 私は虚を突かれた。

「いえ、あの、知り合いというわけではないですけど……。カープファンです」
「あ、そう、それで来てくれたんだ。初めて?」
「いえ、前に来たことあります。あの、水曜の夜の……」
「ああ」
「時間ができたので、久々に来てみようかな、と思って……。お元気そうで何よりです」

 私は知り合いでもないのに、知り合いのような口をきいてしまったと思った。萩さんは「フフフン」と笑ったような気がした。そして、カウンターに戻っていった。

 常連客らしき男性が、萩さんに声をかけた。

「(埼玉西武)ライオンズの新人の蛭間(拓哉)ってのはどうなの?」
「ああ、早稲田(大学)から入ったやつでしょ」

 そんな会話が聞こえてきた。

最初にこの店に来た時のことを思い出していた

 ミートソーススパゲティを待っている間、私は眼下の山手線が行き交うのを見下ろしていた。というのも、前を向くと、2メートルくらい前方に座っている女性客と目が合ってしまうからである。女性は特に、何をするというわけでもなく、黙って座っていた。私より年上の、上品な身なりの女性だった。

 目白駅の周辺は、コーヒーショップのチェーン店や、昔ながらの喫茶店もそれなりに多い。いわば、激戦区である。CAFE HAGIは、駅近くではあるが、線路沿いの小さい路地の雑居ビルにあり、しかも、3階だから、一見さんはほぼ入ってこない。だから、萩さんは私の顔を見るなり、「オレと知り合い?」と訊いたのだろう。

 ミートソーススパゲティとアイスコーヒーが運ばれてきた。

「はいお待たせ」
「ありがとうございます。いただきます」

 私はそれを口元に運びながら、最初にこの店に来た時のことを思い出していた。野球談議で盛り上がっている人々を残し、一人で先に帰ろうとすると、萩さんも店の外に出た。

「今日はありがとうね。よかったらまた来てね」

 店の看板を仕舞うようなしぐさをしていたが、あれは私を見送ってくれたんだな、と思った。

 私はミートソースパスタを食べ終え、しばらく、スマホをいじっていた。テレビから昼下がりの情報番組の音が小さく流れている。ここでは時が止まっているような感覚だった。窓の外では、相変わらず山手線の線路の上を走る車輪の音だけが鈍くこだまして聞こえていた。

 1時間半ほど滞在しただろうか。そろそろ店の外に出ようと思った。萩さんに代金を渡した時、口をついて出た。「また来ます」。萩さんは、「はい、ありがとう」と短く返してくれたと思う。

北別府さんの訃報を最初に伝えることができたのは私だったかもしれない

 6月中旬だというのに、店の外はさらにうだるような暑さだった。私は休暇中とはいえ、仕事が気になり、パソコンを拡げられるカフェを近所で探した。スマホを手に地図アプリを繰っていたその時、野球のニュースアプリの通知が届いた。

『広島カープの元投手・北別府学さん死去』

 かねてから療養中だった北別府学さんが逝去されたのである。65歳、あまりにも若い死であった。

 私はいまでも覚えている。小学生の頃、カープがV2を達成した1980年のプロ野球選手名鑑で北別府さんの欄にあった紹介文を。「高校時代、毎日、片道20キロの山越えの自転車通学で脚力を鍛えた」。プロ通算213勝を挙げた頑丈な身体を持つ北別府さんの生命を病はいとも簡単に奪ってしまったのだ。

 一方で、私は自分のタイミングの悪さを少し呪った。萩原さんは1976年にカープに移籍してきた。北別府さんは1975年ドラフト会議でカープから1位指名を受け入団した。二人は年齢こそ10歳ほど違うが、「同期入団」である。萩原さんは移籍直後、主にカープの若手選手が住まう「三篠寮」に住んでいたというから、同じタイミングで北別府さんも入寮しているはずだ。

 二人はカープの1975年の初優勝こそ経験していないが、1979年・1980年のセ・リーグ2連覇、日本シリーズ2連覇を経験している。同じ釜の飯を食い、同じ苦難と歓喜を味わった者同士である。

 もし、私があと30分ほど、店に長居していたら、店の中でスマホで北別府さんの訃報を目にしていた。萩さんは仕事中で、スマホを頻繁にチェックしないであろうから、もし私がその場にいれば、北別府さんの訃報を最初に伝えることができたのは私だったろう。もしかしたら、萩さんの口から北別府さんとの思い出話の一つでも聞けたかもしれない。私はスマホを手に地団駄を踏んだ。

 だが、私はふと思った。これでよかったのではないかと。北別府さんの訃報を私が萩さんに伝える、それは出過ぎた真似というものだ。

 萩原さんと北別府さんの間にどのような親交があったのかはわからない。だが、10歳も離れているとはいえ、同じ屋根の下で寝食を共にし、グラウンドでは苦楽を共にしたチームメートである。訃報を耳にしたら、様々な思いが去来するかもしれない。

 あの時、私が店に残っていたら、萩さんの気持ちを土足で踏みにじっていたかもしれない。そう思うと恐ろしくなった。神様か仏様かはわからないが、おまえ、そんな愚かなことはするなよ、と釘を刺してくれたのだ。

 現在も、CAFE HAGIは営業中である。これを読んで、萩さんの顔を見たくなった方がいたら、目白駅近くの小さな喫茶店に足を運んでほしい。

 店に入るなり、萩さんはあなたの顔をまじまじと見て、「オレの知り合い?」と声をかけてくれることだろう。

◆ ◆ ◆

※「文春野球コラム フレッシュオールスター2024」実施中。コラムがおもしろいと思ったらオリジナルサイト https://bunshun.jp/articles/72204 でHITボタンを押してください。

(宮本 球優人)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください