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「がんで余命1カ月宣告、体重は10キロ減り…」“メイク・ア・ウィッシュ”大野寿子さん(73)が“最期の講演”で紹介した“難病の少年が書いた詩”「いま、おいらにつばさがあれば ママをいろんなところへつれていってあげたい」

文春オンライン / 2024年7月20日 7時0分

「がんで余命1カ月宣告、体重は10キロ減り…」“メイク・ア・ウィッシュ”大野寿子さん(73)が“最期の講演”で紹介した“難病の少年が書いた詩”「いま、おいらにつばさがあれば ママをいろんなところへつれていってあげたい」

大野さんの自著『メイク・ア・ウィッシュ 夢の実現が人生を変えた』 ©文藝春秋

「その中で書かれた子どもたちのメッセージを、生きるということのメッセージを伝えたい。この子たちの思いを伝えたいという気持ちがとってもありました。そのために是非この本をたくさんの人に読んでもらいたいと思いました」

 難病の子どもの夢を実現させる非営利団体「メイク・ア・ウィッシュ」の“伝道師”として30年間、3000人の夢に寄り添ってきた大野寿子さん(おおのひさこ、73)。彼女ががんで余命1カ月と宣告されたのは、今年6月26日のことだった。

 体力の限界を迎え、講演はまもなくできなくなる。そこで浮かんだのが、自著『メイク・ア・ウィッシュ 夢の実現が人生を変えた』を希望者に無料で配ることだった。彼女はこの計画を“最期の大野プロジェクト”と名付け、「余命1カ月」を生き続けている。冒頭の言葉はその最後の計画を始めた理由について聞いた時のものだ――( 「週刊文春電子版」でインタビュー動画を無料公開中 )。

 ◇◇◇

「メイク・ア・ウィッシュのことを伝えたい」

 7月18日発売の「週刊文春」並びに「週刊文春電子版」で始まったドキュメント連載「 『難病の子どもたちの夢を叶えたい』大野寿子さん余命1カ月を生きる 」に大きな反響が寄せられている。

 著者の小倉孝保さんは毎日新聞論説委員。著書『十六歳のモーツァルト』の取材でメイク・ア・ウィッシュを知り、大野さんとの付き合いが始まった。その後メールでやりとりをしたり、講演で会うなどしていた。

 今年5月、大野さんから突然、メールで「がんになった」と連絡があったという。

〈もう命のタイムアウトが見えてきてやりたいことは何かと考えると、メイク・ア・ウィッシュのことを伝えたいという思いです〉(大野さんのメールより)

「最期のプロジェクト」を支援してもらいたいとの思いが綴られていたため、小倉さんはすぐに彼女に会いにいった。そして、6月17日の毎日新聞朝刊の「余録」で次のように大野さんの「最期のプロジェクト」について伝えた。

〈命の残り時間に気付かされた時、人は何が一番大切なのかを知る。千葉県浦安市に住む大野寿子さんにとってそれは、少女や少年が困難を乗り越え、夢に向かって奮闘する姿を伝え、残すことだった(中略)その本人に今年2月、肝内胆管がんが見つかった。腫瘍は約7センチに膨らみ、リンパ節に浸潤していた。手術や放射線治療は不可能である。終末期医療を視野に入れ、自分の夢と向き合った。

 子どもたちを紹介した自著「メイク・ア・ウィッシュ 夢の実現が人生を変えた」はすでに絶版になっていた。できるだけ多くの人に、これを読んでもらいたい。無料(協力してもらえる人には有料)配布を決め、自費で500部刷り直した。

 大野さんは言う。「病気の子は自分のことでいっぱいいっぱいのはずです。でもみんな誰かの役に立ちたいと思い、心から他者の幸せを願っていました」(以下略)〉

 毎日新聞の記事が話題となり、本を送ってほしいという連絡が次々と入ったという。

「アドレナリンが出るのかな。しゃきんとするのよ」

 そして――。小倉さんは今回、「週刊文春」で大野さんの「余命1カ月」の日々について綴る。

〈細くなった腕を伸ばしてマイクを握ると、大野寿子はこう切り出した。

「すっごい楽しみにして、ここに来ました」

 顔にははち切れんばかりの笑みが浮かんでいる。

 白いシャツに青のカーディガンをはおり、黒いロングスカート。髪は若い頃からショートで、最近は染めなくなったため、輝くようなグレイヘアである。

 7月6日。神戸・三宮近くのキリスト教施設には約60人の聴衆が詰めかけた。「夢に向かって一緒に走ろう」と題した講演だった。

 笑みには理由があった。大野は末期の肝内胆管癌で、6月末には医師から「余命は1カ月ほど」と宣告されている。来られるかどうか最後まで不安だったのだ。実際、体重はかつての50キロから40キロに減り、157・5センチの身長にしてはかなり細い。衰弱は確実に進んでいる。

 この日の神戸は最高気温が34度にもなった。普段は千葉県浦安市の自宅で、介護用ベッドに体を横たえている。それでも講演では、不思議と元気になる。

「アドレナリンが出るのかな。しゃきんとするのよ」

 さすがに9月に予定していた講演は無理と判断した。この神戸が生涯最後の講演になりそうだった。

最後の講演で語ったこと

 最後の講演で紹介した子どもの一人が、東大阪市の嘉朗君(よしろう)だ。

 1993年に生まれてすぐ、ミルクを激しく吐いた。息づかいもおかしい。体調は戻らず、母は各地の病院を回る。「こんな体に産んでしまって」と自分を責める母に、3歳の嘉朗君は言った。

「病気やからって悪いことばっかりちゃうねんで。病気やからわかることもあるんや」

 母はこの言葉に、自分を責める気持ちが息子を苦しめていたと知る。

 4歳で原発性免疫不全症と診断された後、間質性肺炎、再発性多発性軟骨炎など次々と難病に襲われる。学校にもあまり通えない。それでも大阪の子らしく、調子に乗っては、周りを笑わせた。

 さい帯血による造血幹細胞移植手術のため9歳で東京の病院に移り、しばらくして詩を書き始めた。入院生活が2年を過ぎたころだ。疲れた母がベッド脇でうとうとしていると、パソコンに何かを書いていた嘉朗君が「後で読んで」と言って眠った。夜中にパソコンを開くと、こんな詩が書かれてあった。

〈いま、おいらにつばさがあれば/病気を治して/ママをいろんなところへつれていってあげたい。/いっつも看病してくれているママ。楽しいところへ、わくわくするところへ/つれていってあげたい。/ママ、もうちょっと待っててね。病気を治したら、絶対にしあわせにするから。/それまで待っててね。〉

 子どもは病魔に襲われても他者へのいたわりを忘れない。自分のことで精いっぱいのはずなのに、周りの者を気遣う。

 嘉朗君は日ごろ、母にこうも言っていた。

「20歳になったら恩返ししたるから、それまでは世話してな。ばばあになったらおしめも替えたるから」〉(「週刊文春」7月25日号より)

 嘉朗君が残した詩編の数々と闘病の日々、大野さんが講演会で語ったこと、そして「最期のプロジェクト」の行方について――。記事全文と大野さんへの独占インタビュー動画を「 週刊文春電子版 」で無料公開している。

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2024年7月25日号)

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