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フジサンケイグループ会長との面談に「一目で分かるほど酔っ払って」現れて…堀江貴文の“フジテレビ乗っ取り計画”失敗の裏側

文春オンライン / 2024年7月31日 6時0分

フジサンケイグループ会長との面談に「一目で分かるほど酔っ払って」現れて…堀江貴文の“フジテレビ乗っ取り計画”失敗の裏側

堀江貴文氏 ©文藝春秋

〈 ライブドアによる“ニッポン放送買収騒動”、実現しなかった堀江貴文の本当の狙いとは「ニッポン放送を買えばフジテレビがついてくる…」 〉から続く

 2006年1月、ライブドア代表取締役社長の堀江貴文氏(当時)が、証券取引法違反の疑いで逮捕された。虚偽があったとされたのは、2004年9月期年度の決算報告として提出された有価証券報告書である。

 粉飾決算から逮捕までのあいだにも堀江氏は、ニッポン放送の株を握ってフジテレビを買収しようとしたり、政界進出に失敗したりと、様々な形で世間を騒がせていた。

 ここでは、ネット起業家たちの軌跡を追った杉本貴司氏のノンフィクション『 ネット興亡記 』(日経BP)から一部を抜粋。堀江氏の「フジテレビ乗っ取り計画」は、どこまで進んでいたのか――。(全3回の2回目/ 続きを読む )

◆◆◆

「じゃ、うちに入ってよ」

 ライブドアによるフジテレビ買収計画は時間外取引やMSCBといった「奇策」によって現実味を帯びつつあった。ただ、権力者たちをあざ笑うかのようなやり口には、次第に批判の声も強まっていく。

 その中の一人が、堀江と同学年にあたる証券マンの園田崇だった。

 それは2月半ばの金曜日のことだった。ライブドアが時間外取引を利用してニッポン放送株を買い付けたばかりで、フジテレビとの攻防戦はまだ序盤だった。その日の夜、日興シティグループ証券の園田は、以前勤めていた電通時代の友人と六本木の焼鳥屋で飲んでいた。

 友人とは久々の再会だったが、話題はもっぱらライブドアだ。園田は数カ月前までニューヨークに駐在し、日本企業と米国の投資家の橋渡しをする仕事をしていた。ライブドアはクライアントの1社だった。投資家向け説明会のため渡米していた堀江と、ボストンで初めて会った時のことは、はっきりと覚えている。

「他の会社だと、日本から役員や社長が来て、投資家に対してパワーポイントとかで直近の業績を説明すると、すぐにQ&Aに入ります。堀江さんはいきなり『ライブドアでヤフーを超える』とか言うんですよね。業績よりどうやってヤフーを超えるのかをしゃべり続けるんです」

 帰国して学生時代からの目標だった起業の準備に取りかかろうとしていたところで起きたのが、ライブドアによるフジテレビ買収騒動だった。

「あんなやり方だと誤解されちゃうよね。俺、直接言っちゃおうかな」

 友人にそう言うと、酒が入っていた勢いもあり、ライブドアの財務部門に電話した。すでに夜の10時を過ぎていたが、たまたま電話に出たのが旧知の熊谷史人だった。

「あれ、クマちゃん、まだ会社にいるの?」

 手短に要件を伝えると、園田は「じゃ、今からそっちに行くから」と言う。酒の臭いも気にせず六本木ヒルズ38階のライブドア本社に押し入ると、熊谷に「もっとちゃんと丁寧に説明しないと誤解されますよ」と力説した。

 実は、園田自身、ニューヨーク時代に堀江がクライアントである投資家に対してヤフー超えの戦略として「マスメディアとの連携」を何度も口にしているのを目の当たりにしていた。フジテレビ買収計画がライブドアの戦略としては理にかなうものであることは理解している。ただ、テレビは言うまでもなく公共の電波を使う。資本の論理だけを押し通すやり方では、周囲の反発を招くだけだ。

「今のもの言いだと変な会社だと思われるだけですよ」

 園田が言うと、熊谷はこう返した。

「分かりました。じゃ、明日、堀江さんと直接会って話してくださいよ」

 翌日、堀江に会うと、このままではフジテレビとの提携交渉は立ちゆかなくなると訴えた。

「じゃ、園田さんがうちに入ってよ」

 これで園田はライブドアに転じることになった。「起業のための最後の修業と思って決めました」。園田は後にIoT関連のウフルを起業することになるのだが、この時点ではいずれメディア関係の会社を起こそうと考えていた。だから、堀江が描く「メディアを利用するヤフー超え戦略」には大いに関心があったのだ。それに、電通時代にはフジテレビを担当していた経験もある。起業の準備のためにスタートアップを経験するなら、ライブドアは悪くない選択だと思えた。

 園田は3月1日付でメディア事業戦略室長兼副社長として入社した。任せられたのはフジテレビとの提携交渉だが、実質的には和解交渉と言う方が正確だった。

「もう詰んでいますから」

「新聞やテレビなんていずれネットに飲み込まれる」

 堀江がメディアに登場して挑戦的な発言を繰り返す一方で、ますます財界からの反感が膨れ上がるのを、当事者としてライブドアに入社すると嫌でも思い知らされる。

 この頃には様々な財界人がライブドアとフジテレビの間を取り持つ仲介役として名乗りを上げていた。例えば、アラビア石油創設者で「アラビア太郎」こと山下太郎の息子もその一人だが、フジテレビにニッポン放送株を売り戻すよう求める仲介者たちの言葉に、堀江がうなずくことはなかった。

大物仲介者

 フジテレビとの「提携交渉」に忙殺される一方で、園田は個人的な人脈をたどって一計を案じた。頼ったのが初代経団連事務総長の和田龍幸だった。年齢は30歳以上離れているが、鹿児島県鹿屋市出身の同郷で、和田の親族は園田の実家が経営する病院に通院していた。地元の名門ラ・サール高校の先輩にもあたる。

 園田は和田に、ある大物との面談を申し入れた。

 3月18日、堀江と園田を乗せた車が六本木ヒルズを出ると、後ろからはいつものようにテレビ局の車が追いすがってきた。堀江の一挙手一投足はテレビだけでなく新聞や雑誌も含めて、あらゆるメディアから追いかけられていたのだ。

 二人を乗せる車が向かったのが、東京・新木場のヘリポートだった。ヘリに乗り換えられると、メディアはもう手が出せない。ヘリは新木場を飛び立つと一路、西へと向かって飛び去った。

 向かったのは、直線距離にしておよそ250キロ離れた愛知県豊田市トヨタ町1番地。トヨタ自動車の本社だった。堀江らを待ち受けていたのはトヨタ会長であり、「財界総理」と呼ばれる経団連会長も兼務する奥田碩だった。巨大メディアを相手に繰り広げる劇場型のM&Aに、財界総理の理解を得ようという狙いだった。

 ヘリに揺られる堀江は、いつも通りのTシャツ姿。実は園田は自分のジャケットの中にもうひとつ、堀江用のネクタイを忍ばせていたのだが、堀江は襟付きのYシャツすら着ていないのでどうしようもない。

「僕も気分が高揚していたので、『こうなったらもう、普段の堀江さんのままでいいや』と開き直りました」

 相手は戦後に日本が築き上げてきた重厚長大産業主導の経済界のトップに立つ人物である。園田は「一喝されて終わりかなとも考えました」と言うが、奥田の表情は拍子抜けするほど明るかった。

「待っていたよ。元気な人たちが出てきてくれて俺もうれしいよ」

 堀江は持参した資料をもとに、テレビとインターネットの相乗効果などを語った。その時の資料が今、筆者の手元にある。フジテレビが持つ視聴者へのリーチを武器に、ライブドアの課金、物販などを融合させた新たなサービス像が示されている。

 まさに堀江が説くサブスクリプション型への移行であり、それはとりもなおさず、後発組のポータルサイトとしての「ヤフー超え」の秘策でもある。そのためには起爆剤としてフジテレビの力が欠かせない。今こそインターネットとテレビで力を合わせて新しい市場を切り開きたいのだと、力説した。

 聞き終えた奥田は上機嫌で答えた。

「そうだよな! これからはメディアもどんどん変わらないとなぁ」

 そして奥田はこうも付け加えた。

「俺から日枝さんにも言っておくよ」

冷たい握手

 財界総理からの好感触を得た堀江だったが、日枝久(編注:フジサンケイグループの元会長)との間の溝が埋まることはなかった。これには堀江側にも責任があった。それは奥田との会談が実現するより少し前の3月初旬のことだった。

 急遽決まった日枝と堀江との初めてのトップ会談。その日、堀江は部下の結婚式に出席していた。タキシード姿のままで現れた堀江は一目で分かるほどアルコールが入っていた。堀江も後日、この時は「かなり酔っ払った状態だった」と認めている。「急に決まったアポだったので、やむなくそうなってしまっただけの話」とも言うが、これでは日枝ならずとも話にならない。

 日枝が怒りを押し殺していたことは想像に難くない。「フジテレビのTOBに応じる形でライブドアが保有するニッポン放送株を売ってほしい」と伝えても、堀江は「なんで売らないといけないんですか」と言い、取り付く島はない。トップ会談はそのまま平行線に終わった。財界に絶大な影響力を持つ奥田が仲介してくれたところで、もはや両者が歩み寄る余地は残されていなかったのだ。

 事態の趨勢が決したのは、3月24日のことだった。SBIホールディングスを率いる北尾吉孝がホワイトナイトとして登場し、ニッポン放送が保有するフジテレビの株式を5年間、SBIに貸すことになった。

「資本市場には清冽な地下水が流れている。これを汚すことは許せない」

 メディア各社のインタビューに応じた北尾が毎回のように口にしたのが、自身の出身母体である野村証券を日本の証券市場の中心的存在へとのし上げた北裏喜一郎の言葉だった。北尾の「正義」はともかく、フジテレビがこれで難を逃れたことは間違いない。

 結局、ライブドアとフジテレビは互いに相いれることのないまま、曖昧な決着を選ぶことになった。ライブドアが持つニッポン放送株をフジテレビが買い受けるのに加え、フジテレビはライブドアが実施する第三者割当増資を引き受けて12.75%を出資することになった。ライブドアには1500億円近いカネが流れ込むことになる。

「世間では、土足で踏み込んできたライブドアに追い銭をくれてやったとの見方もありますが」

 4月18日に開いた両社共同の記者会見では、こんな質問も飛び出した。これには日枝が「色々なことがあったなかで、そういう感情がなかったかと言えば噓になる」と、偽らざる本音をにじませる一幕もあった。

 当時ライブドアに密着取材していた朝日新聞記者の大鹿靖明は著書『ヒルズ黙示録』で、この日の夜に宮内(編注:宮内亮治。当時のライブドア取締役)がライブドア幹部にこんなセリフを吐いたと書き記している。

「やった。やった。フジをカツアゲしてやったよ」

 宮内はこう続けたという。

「こんなにいっぱい金をだすのかねえ。彼らはメンツさえ立てばいいんだね。やっぱ、お公家さん集団だよ」

 宮内自身も後年、この発言については認めている。ただ、意図するところは違ったという。「満足して言ったのではない。騒動の果てに『悪名』が轟くようになったのだからニッポン放送買収は失敗であり“自虐”のセリフである」

「なんでおたくに売らなきゃいけないんだ」

 いずれにせよ、日本の産業界を騒然とさせたフジテレビ乗っ取り計画は失敗に終わった。近鉄バファローズの買収計画から2連敗。堀江とライブドアには3つのものが残った。一つはフジテレビからせしめた1500億円近い現金。それに劇場型M&Aが連日報道されたことによる知名度。そして最後に、日本の経済界からの不信感である。

 後日談になるが、テレビへの執念はフジテレビ買収で消えたわけではなかった。この後、ライブドアが目を付けたのが民放キー局の一角であるテレビ東京だった。テレ東は日本経済新聞社が筆頭株主である。フジテレビの買収に失敗した後、宮内亮治はテレ東買収の可能性を探ろうと、都内のホテルで日経とテレ東の幹部と会談したことがある。

 仲介したのは「サトカン」こと佐藤完だった。佐藤は高校を卒業すると簿記の専門学校に通いながら日経グループの日経リサーチでアルバイトをしていたことがあった。1980年前後のことだ。その縁でヤフーに転じてからも日経との交流は続いていたという。

 当時、テレ東とライブドアは事業面で提携を結んでいた。テレ東が旅番組で紹介した地方の名産品などをライブドアのネット商店街で売るというものだったが、この提携は堀江の逮捕まで続けられた。さらに堀江が個人で運営する基金を通じてテレ東株の5%を取得していたことが、この後に明らかになる。

 ただ、会談前からテレ東側の印象が良くないことは予想された。当時、テレ東社長だった菅谷定彦は定例会見でライブドアによるフジテレビへの奇襲作戦を問われ、「金に飽かせていきなり、というのは独断的。人心や企業理念、企業文化は金で買ってはいけないものだ」と、苦言を呈していた。

 やはりと言うべきか、会談はいきなり決裂した。宮内がテレ東の買収が可能かストレートに聞くと、日経幹部が激高したという。

「なんでおたくに売らなきゃいけないんだ」

 そう言われた瞬間に、宮内は「やはりテレビを手に入れることは無理なんだと痛感させられました」と振り返る。この件は日経社内でも知る者はほとんどいないはずだ。筆者も宮内から聞いて初めて知った。

〈 「勝たなきゃダメです」めずらしく大勢の前で涙を流して…意外にも「政界進出に本気だった」堀江貴文の初出馬から敗北まで 〉へ続く

(杉本 貴司/Webオリジナル(外部転載))

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