1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「いくらでもオンナを抱け」「金に困ることはない」コカインの大量密輸で“荒稼ぎ”…麻薬捜査のスパイだった男(63)が、“大物密売人”になった経緯

文春オンライン / 2024年8月3日 10時50分

「いくらでもオンナを抱け」「金に困ることはない」コカインの大量密輸で“荒稼ぎ”…麻薬捜査のスパイだった男(63)が、“大物密売人”になった経緯

取材に応じる渡辺吉康元受刑者 ©共同通信社

 超大物密売人――そう捜査当局からマークされつつ、麻薬取締官のエス(スパイ)となって暗躍を重ねた男がいる。男の名は渡邊吉康(63)。“カルロス”という通り名で知られる。薬物の密輸で大金をつかんでは酒池肉林の日々を送る一方、生涯の大半は刑務所暮らしという、筋金入りの密売人だった。

 最後には、信頼していた麻薬取締官から裏切られた末に、名古屋刑務所で6年半の独房生活を送った。今回、筆者のロングインタビューに応じたカルロス。薬物で荒稼ぎして逮捕されるまでの、ジェットコースターのような人生のすべてを語り尽くした。(全3回の1回目/ 2回目 に続く)

◆◆◆

サッカー選手の夢破れて…

 1961年生まれのカルロスは、地元では名の知れたサッカー少年だった。

 小学生時代にボールに触れると、すぐにのめりこんだ。実力は全国大会に出場するほどにまで成長した。高校も大学もサッカーのスポーツ特待生として推薦入学。ポジションはMFで、大学卒業後は実業団に入るつもりだったという。

 しかし大学時代の監督とそりが合わず、日本を飛び出してブラジル・サンパウロ州に留学した。同州のサッカークラブ「ポルトゥゲーザ・サンティスタ」に所属し、練習や試合に明け暮れる日々を送った。

 だがある夜、試合後に繁華街へ繰り出していたときのことだった。トラブルに巻き込まれ、何者かに右脚を銃で撃たれたのだ。選手生命はあっけなく絶たれ、「クラブからもらったのは松葉杖ぐらいで、そのままお払い箱になった」とカルロスは言う。

ロスで薬物の調達を頼まれ、歯車が狂い始める

 その後、地元に戻ってサラリーマンをしたり、パブの経営をしたりしたがどれもうまくいかなかった。そこで一念発起して渡米し、ロサンゼルスで再起を図った。ロスにはメキシコ人移民が多く、すでにポルトガル語・スペイン語を習得していたカルロスにとって暮らしやすい環境だった。

 まかないやチップを目当てに飲食店の求人に片っ端から応募すると、ある日本食レストランが雇ってくれた。そこで修業を積んだ後、日本人観光客の多いハワイの支店に派遣された。板前の手伝いをしていたという。

 しばらくは真面目に働く日々が続いた。しかしあるとき、日本人客から内密に薬物の調達を頼まれたことで、歯車が狂い始める。

 最初は「なぜ自分が」と困惑した。だがチップをもらって思案した挙げ句、ワイキキビーチにたむろする売春婦に相談することで、なんとか手に入れることができたという。

「あいつに頼めば手に入る」売春婦に違法薬物を卸すようになり…

 一度成功すると、「あいつに頼めば手に入る」と噂が噂を呼んだ。コカインやマリファナを求め、カルロスを指名してチップを渡す観光客が相次ぐようになった。

 しばらくすると、ハワイでは仕入れ値が高いことに気づいた。ロスで知り合ったメキシコ人に頼んで仕入れ先をあっせんしてもらった。儲かるに連れて忙しくなり、ついにはレストランを辞めてプロの密売人に転向。当初は売春婦から調達した違法薬物だったが、立場が逆転してカルロスが彼女たちに卸すようになっていく。

 しかし、栄華は長くは続かない。1年ほどすると、あえなく警察に逮捕され、ロスの刑務所に収監された。懲役4年半の刑だったが、二度と米国に入国しないということを誓約し、半分の2年になったという。20代半ばのことだった。

ロスの刑務所で麻薬組織の幹部に出会う

 入所後は、前職を生かして厨房係となった。そこで出会ったのが、メキシコの麻薬組織ロス・セタスのブラジル人幹部だったという。軍隊の特殊部隊出身者らが設立した麻薬カルテルで、同国で最も危険なカルテルとされる。この出会いが、カルロスの人生を決めた。

 日本食を食べたいという幹部に対し、「作ることはできるが材料がない」と答えると、すぐにリトル東京(米ロサンゼルスの日本人街)から必要なものが届き始めた。寿司を作ると喜び、毎日のように話す仲になった。「出所したら、一度リオデジャネイロに遊びに来い」と誘われもした。

 マフィアに目をかけられたためか、セキュリティのしっかりした1人部屋に移された。日本の刑務所では考えられないような待遇で、シャワーも24時間使い放題だったという。

カルロスは「すぐに舎弟になった」

 出所日が来て日本に送還されると、先に出所していた幹部に国際電話をかけた。そうして1週間後には約束通り、リオデジャネイロで幹部と再会することができた。

 到着して見上げると、そこはプール・テラス付きの豪邸。毎日のようにパーティーが開かれていた。派手な生活に圧倒されたと、カルロスは言う。

「雑誌の『PLAYBOY』に出てくるような女の子がいっぱいいるわけですよ。幹部からは『いくらでも抱け』って言われてね」

 羨望の眼差しを浮かべるカルロスに対し、幹部はこう迫った。

「お前にこの生活ができるか? 一生の内にできると思うか? たとえ、お前がこのままサラリーマンをやっても、年俸で言えば3万ドルぐらいだろ。いくら大学出だとしても、せいぜい三流大学だろう。そんなお前に何ができる? サッカーができるって言ったって、ブラジル人と比べればそんなに上手いはずもない。前科者だしな。料理の腕だって、刑務所内で役に立つ程度だ。そんなお前でも年間100万ドルぐらい稼げるような仕事といったら、この仕事(密輸)しかないぞ。だけど、お前はラッキーだ。この俺と出会えたんだから」

 幹部の言葉には「嘘がない」と、強い説得力を感じた。カルロスは「すぐに舎弟になった」と懐かしそうに言う。

「そっから始まったわけです、俺の人生が」

幹部から学んだ密輸の“ノウハウ”とは

 幹部は、刑務所で日々、目にしたカルロスの几帳面で真面目な働きぶりから、麻薬売買に向いていると太鼓判を押した。幹部自身、ちょうど日本のマーケットを開拓しようと考えていたところだったという。

 その一方で、こう釘を刺した。「これからは金に困るようなことは絶対にないが、通算で計20年の懲役生活は覚悟しろ」。カルロスは半信半疑だったが、結果的に、この言葉は現実のものとなる。

 幹部の下で、密輸のノウハウを学んだ。カルロスは言う。「コカインって粉のまま送るのかと思ってたんだけど、液体で送って日本で粉末にするんです。それが一番驚いたな」

コカイン密輸の首謀者として逮捕される

 日本に帰国すると早速、ブラジルから東京にコカインが送られて来た。1キロ程度かと思ったら、計10キロもの莫大な量で仰天した。ペンキ缶100缶のうち、5缶にだけコカインを紛れ込ませて密輸するという手口だった。

 だが1990年代前半、日本ではコカインはほとんど流通しておらず、需要もなかった。違法薬物といえば、何よりも覚醒剤という時代だったのだ。

「だから売れないんですよ。でも、売れなくてもどんどんブツが入ってくるわけです。組織にもお金を払わなくちゃいけないし、困った。密輸さえできれば売れると思ってたんだけど、マーケティングしてなかったんですよね。えらいことになっちゃったなと困ってじたばたしてるときに、捕まっちゃったんです。で、横浜(刑務所)に8年勤めることになる」

 当時の裁判資料によると、日系ブラジル人らとコカイン約10キロを、サンパウロから名古屋空港に密輸した事件の首謀者として認定されている。カルロスは振り返る。

「地元の同級生だった暴力団員にコカインを売ってたんだけど、別事件のガサでそいつの家が警察に入られちゃったときに、ブツが出てきた。でも『こいつは喋らないだろう』と信じてブラジルから日本に帰ってきたら、パクられちゃったわけですよ。10キロで済んでよかったなと思いました」

 1審判決は懲役9年だったが、控訴して8年に減刑。判決のあった1996年に35歳だったカルロスは、横浜刑務所を出所した2003年春、41歳になっていた。

〈 麻薬取締官から「スパイになってくれないか?」と…“どんなクスリも扱った”元大物密売人(63)が語る、薬物捜査に協力した理由 〉へ続く

(武田 惇志)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください