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たちんぼ、ストリップ、ビートたけし…人気観光スポットになる前の「浅草」には何があった?

文春オンライン / 2024年7月27日 17時0分

たちんぼ、ストリップ、ビートたけし…人気観光スポットになる前の「浅草」には何があった?

かつての浅草はどんな街だったのか…。写真はイメージ ©getty

〈 「ほとんどは梅毒や性病で命を落とす」“江戸の歓楽街”「吉原」で働く遊女たちの悲哀 〉から続く

 国内外の老若男女を集める人気観光スポットの「浅草」だが、かつては街娼と私娼がひしめいていた淫靡な時代も…。浅草の今昔を、ノンフィクション作家の八木澤高明氏のベストセラー『 江戸・東京色街入門 』(実業之日本社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

 寛政年間といえば、今から約200年ほど前、江戸時代中期になる。その頃、上野広小路や浅草寺の境内などの神社仏閣の周囲には、水茶屋と呼ばれる今でいう喫茶店のような店が軒を連ねていた。

 浅草寺の二天門のあたりには、難波屋という有名な茶店があって、おきたという名の看板娘がいた。

 彼女は浮世絵にも描かれ、寛政の三大美人のひとりともいわれている。どの水茶屋にも看板娘がいて、客の男たちを呼び寄せたのだった。

 江戸は職人や参勤交代で赴任する武士など、男臭い街であり、吉原や江戸四宿などの幕府公認の遊廓や岡場所と呼ばれた官許以外の遊廓が、男たちの癒しの場となっていたが水茶屋もそうした役割の一端を担っていた。お茶代は八文で、現代の価値に換算すれば、約250円ほど。男たちは見栄を張って、十倍以上の額を置いていくものも少なくなかったという。

 当初看板娘を売り物にした水茶屋は、時代を経るにつれ、店の奥にこっそりと部屋を設けて、春を売る場へと変容していったところも少なくなかった。

 そうした水茶屋は、江戸時代末期の天保の改革で、厳しい取り締りに遭い、街からは消えていったという。

街娼と私娼がひしめいていた浅草

 難波屋があった浅草寺の二天門へと足を運んだ。

 銀座線の浅草駅で降りて、雷門に向かうと、人力車引きや外国人の観光客で溢れていた。

 飛び交う言葉も様々で、英語はもとより、耳を澄ましていると、タイ語やスペイン語も聞こえてくる。雷門をくぐって、仲見世を歩き、浅草寺の境内を抜けると、右手に二天門がある。

 門のまわりには土産物屋があって、外国人観光客の姿も見かけるが、雷門に比べたらその数は少なく、周囲はひっそりとしている。

 建物の歴史からみれば、二天門は雷門より古い歴史を持っている。

 門が建てられたのは江戸時代初期の元和4年(1618)のことだった。浅草寺は何度か大火に見舞われるが、二天門は炎上を免れ、今日にいたる。門からほど近い場所には木造の古い連れ込み宿があった。浅草寺周辺というのは、戦後から立ちんぼたちが多くいたことでも知られている。中には男娼もいて、夜の商売人たちは、客を掴むと、連れ込み宿に客と入ったのだった。

 浅草は、街娼ばかりでなく、戦前には銘酒屋という、飲み屋を装い私娼たちを置いた店が数多くあった。

 特に銘酒屋が多かったのが、ストリップ劇場の浅草ロック座がある六区(浅草公園六区)である。ちなみに六区は、今ではこの浅草ロック座しかないが、もともとは十軒以上のストリップ劇場が建ち並ぶストリップの中心地であった。

 ストリップは戦後の新宿で産声をあげているが、ここ浅草で隆盛を迎え、ビートたけしや萩本欽一、渥美清といった芸人たちの修行の場となったことでも知られている。

〈 「父母を空襲で失い、自活するために体を売る者も少なくなかった」戦後まもない「上野」に若い女性たちが集まった理由 〉へ続く

(八木澤 高明/Webオリジナル(外部転載))

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