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「おばあちゃんが漏らした糞尿を掃除していた」小学生で“寝たきりの祖母”を介護…元日本代表・武田修宏(57)が明かす“ヤングケアラー時代”

文春オンライン / 2024年7月28日 11時0分

「おばあちゃんが漏らした糞尿を掃除していた」小学生で“寝たきりの祖母”を介護…元日本代表・武田修宏(57)が明かす“ヤングケアラー時代”

元日本代表の武田修宏さん ©釜谷洋史/文藝春秋

 黎明期のJリーグを牽引し、引退後もタレントとして活躍しながら日本サッカー界の向上に努めてきた、元日本代表の武田修宏(57)。

 そんな彼に、過酷だった家庭環境、サッカーとの出会い、天才サッカー少年として注目されるなかでの両親の離婚などについて、話を聞いた。(全3回の1回目/ 2回目に続く )

◆◆◆

長距離トラックの運転手でギャンブル好きの父

――武田さんというと、明朗活発というイメージ。

武田修宏(以下、武田) そうだね(笑)。

――それゆえに過酷な少年時代を送っていたことに驚いたのですが、生まれも育ちも静岡県浜松市ですよね。

武田 そう、浜松で生まれて。親父が長距離トラックの運転手で、母親が看護師で、母方のおばあちゃんがいて、2つ上の兄貴がいて、自分がいるという、5人家族で育ちました。うちは元々タバコ屋で、おばあちゃんが店をやってたんですよ。

――家族構成だけ聞くと、いかにも昭和の家族って感じですね。

武田 なんだけど、親父は金遣いが荒いうえに賭け事が大好きで、借金もしていてね。

――どんなことにお金を使っていたのでしょう。

武田 平気で外車を買ったり。カマロとか乗ってましたから。とにかく派手好きで、そこは俺が思いっきり受け継いじゃって、小学校に真っ赤なジャケットを着ていったりしてましたね。

 仕事はするんだけど、休みにはギャンブルに繰り出す。浜松は、ギャンブル好きな人間には誘惑が多いんですよ。で、浪費とギャンブルを重ねて、借金をしちゃうっていう。

 親父は暴力も振るう人で。いつも殴ってくるわけじゃなく、カッとなったら暴れる感じで。

両親と一緒にいる時間をあまり持てなかった

――ご両親は、仕事で忙しかったのですか。

武田 親父は長距離トラックの運転手だから、ずっと出っぱなしでしょう。親父の浪費と借金があるから、看護師だった母親は金を稼がないといけなくて、夜勤に出たり、朝早くから出勤して。親父も母親も、子どもたちと一緒にいる時間がほとんど持てない状況だったから。いわゆる、鍵っ子だよね。おばあちゃんは家にいたけど、寝たきりだったし。寝たきりになってからは、当然だけどタバコ屋もやってなかったしね。

――食事はどうしていました?

武田 母親が、家を出る時に1000円札を置いてくの。その1000円でパンを買って昼飯にしたり、残ったらおやつや晩飯に回して。あと、出前を取ったり。足りなかったら、自分でご飯を炊いたりしたし。家に小麦粉があったら、キャベツ切って、卵も入れて、お好み焼きを作って食べてたし。

 ご飯を炊いたけど、おかずになるものがない時は醤油を掛けて。それにも飽きたなと思って、試しにお酢と砂糖を入れて混ぜてみたら「これ、寿司じゃねえか!」って。「自分で寿司が作れた!」って、あの時は感動したよね。ただ、寿司と言ってもシャリだけなんだけどさ(笑)。

 たまに、母親が働いてる病院に行って、看護師さんの控室とか待合室で母親と一緒に食べたりはしてましたね。

借金取りが家に来て「親父、いるか?」と…

――自分のことは自分でやっていた。

武田 小1からサッカーを始めるんだけど、遠征があったら前の日に自分で用意したり。サッカーチームでキャンプに行ったときも、いろんな手配とかもすべて自分でやりましたね。

 勉強もちゃんとやってたし、宿題を忘れることなんて絶対になかったし、遅刻もしなかった。言われたこと、やらなきゃいけないことは絶対にやる子供で。さらに几帳面。だから、結婚できないんですけど(笑)。

――お父さんが借金していることは、子供ながらに把握していたのですか。

武田 小学4年生の頃かな。留守番してると、借金取りが「親父、いるか?」ってしょっちゅう来たりしてたから、どうしたってわかっちゃうよね。

「お漏らしをしたら、お風呂場に連れて行って…」寝たきりの祖母を介護

――大人でもイヤですが、小学生で借金取りの相手をするのって相当ですよね。

武田 取り立てといっても、ものすごく怖い人が来て、ドアをバンバン叩いたり、大声を出して脅すとかじゃなかったから。「いねえのか、コラ!」じゃなくて「いるか?」って感じで。さすがに闇金とかだったら、俺もヤバい目に遭ってただろうけど。親父は知り合いに借りてた金を、返してなかったんじゃないかなあ?

 家に来るのが怖い人でなかったのもあったけど、そういうのよりもキツかったのが寂しさ。だってさ、両親は共働きでどっちも定時なんてない仕事だから帰ってこない。小学校から帰ってきても、家にいるのは寝たきりのおばあちゃん。そこに俺だけか、兄貴といるかだからね。

――たしかに寂しいですね。

武田 台風の時なんて、家がガタガタするから怖くてね。怖いのもあるけど、そういう場に俺だけ1人っていうのが寂しくて。1年生とか小さな頃は、寂しくて泣いてたこともあったし。

――そこへ、祖母の介護もあったと。全般的に面倒を見られていた?

武田 まあ普通に、寝たきりであまり動けなかったから「あれやって、これやって」と言われたことはやってあげて。お漏らしをしたら、お風呂場に連れて行って流してあげたり。うんちを掃除したイメージ、それがすごく残ってますね。おばあちゃんは、俺が中学生の時に亡くなったんだけど。

 まあ、大変もなにもやらざるをえないじゃない。さっきも話したけど、お腹が減ったって誰もいない。だったら、自分で作るなり、買いに行くしかないんだから。

恥ずかしいことだと思って誰にも言えず…

――そういう状況に置かれていることを、誰かに話したりはしなかったのですか。

武田 言わなかったですね。「子は親の背中を見て育つ」って言うけど、あれって本当で。ちっちゃい頃から、母親が文句のひとつも言わずに黙々と働いている姿を見てたからね。家のことをやってから夜勤に行ったり、満足に寝てないのに朝早くから働きに出たり。そういうのを見てると、自分のことは自分でやんないといけないなって思うよね。

 人に言うことでもないし、恥ずかしいことだと考えていたところもあったけどね。後に親父と母親は離婚するんだけど、それも恥ずかしいことだと思って誰にも言わなかったし。そういったことすべてを自分の中で我慢して、寂しさを忘れるために好きなサッカーに打ち込んでたっていう。打ち込めるものがあったからやってこれたんだと思う。

「ぼくは、6年間でいつも苦労していた」小学生時代の卒業文集の内容

――お母さんは、厳しい方でした?

武田 怖くはなかったけど、小さい頃から「自分の行動には責任を持つ」「周りに迷惑をかけない」「辛い時でも笑顔でいろ」っていう3つは常に言われてましたね。

 寂しかったけど、そういう状況でいろいろ学ぶこともあったからね。時間をムダにしないこととかさ。

――小学校の卒業文集を持ってきていただきましたけど、そうしたことを綴っていますよね。

武田 そうそう。出だしから「ぼくは、6年間でいつも苦労していたと思います」だからね。

(文集を読み上げる)「サッカーとか部かつがある時はいつもへたへたになって家に帰ります」「家に帰っても誰もいず、まっくらで電気一つついていなく」「そんなときぼくは、じっとお母さんの帰りをまちます」「日がくれるのがおそいと家まで歩いて帰ります。たとえ雨がふっていても、ぬれながら一歩一歩、歩いていきます」って書いていて。

「しかし、その反対によいこともあります。それはわすれ物をすると、どんなにたいへんかわかるし、他の人とちがい、家がとおいので時間の大切さがわかりました」って締めてる。

武田さんがサッカーを始めた“きっかけ”とは?

――どのようなきっかけで、サッカーを始めたのでしょう。

武田 ちっちゃい頃は野球寄りだったんですよ。親父が野球やってたし、中日ドラゴンズがキャンプで浜松によく来てたし、ドラゴンズのパジャマを着てたしね。だけど、浜松は野球チームがなくて、あってもリトルリーグだけ。

 でもサッカーに関しては、盛り上がっていたんですよ。清水FCっていうジュニアサッカーの選抜チームが圧倒的に強くて、全国制覇していて人気があって、全日本少年サッカー大会(現:JFA 全日本U-12サッカー選手権大会)に清水FCが出ているのを見て「サッカー、やりてえな」って。そもそも2つ上の兄貴がサッカーをしていて、それで俺も一緒にやるようになったんです。

――スポーツは、サッカーだけを。

武田 小6の時は、サッカーをやりつつ、陸上とバスケットもやってて。足は速くて、小6で50メートルを5秒9。だから陸上では、200メートルは市で3位になったし、バスケも市で3位になってた。中学に上がってからは、陸上とバスケでスカウトが来てたね。

――スポーツ全般が出来る子供だった。

武田 親父の運動神経が良くて俺も受け継いだとか、そういうわけでもなく。なぜかわからないけど、運動はできたんですよ。

 学校から帰ってきて、おばあちゃんが大丈夫そうだったら、サッカーをやりにすっ飛んでいってました。ほんと、サッカーで寂しさとか苦しいことが紛れてましたね。だんだんと大きくなるにつれてサッカーで忙しくなって、家にもいなくなるんだけど。

サッカーで忙しかったからグレる暇がなかった

――とにかく、サッカー。

武田 地元の人とかに聞いたら、いまだに言うと思うよ。「いつも武田君は、学校が始まる1時間前に来て、1人で壁にボールを蹴ってた」とか。延々と壁に向かってボール蹴ってたから、シュートがうまくなりましたからね。

 小4で浜松JFCっていう選抜に入って、小6でナショナルトレセンのメンバーに選ばれて、そうなると休みの日もサッカーじゃん。毎日、学校が終わったらサッカー、土日もサッカー、ヘトヘトになって家に帰ったら飯食って寝る。

 高学年の頃には、母親も家にいられるようになったのもあって、ひたすらサッカー。たぶんサッカーと出会ってなかったら、悪い方向へ進んでたと思いますね。サッカーで忙しかったから、グレる暇がなかった。

――学校は荒れていましたか。

武田 時代的なものもあるけど、当時は小学校も荒れてましたね。通ってた浜松市の中学も、浜松でも1位、2位を争うほど荒れていた中学だったし。

――中学2年生のときには、全日本選抜中学生サッカー大会で優勝を。

武田 3年生でジュニアユースの日本代表(U-16)に選ばれて、シンガポールでやったライオンシティカップに出て、得点王になって。

――少学校時代から天才サッカー少年と称されていたわけですが、両親は応援を?

武田 親父も母親も嬉しがってましたね。ジュニアユース日本代表(U-16)に入った時は、母親が皿を作ってみんなに配ってたね。今も、その皿が残ってるけど。でも、俺は思春期だったから「試合とか見に来なくていいから」とか言ってましたね。

離婚した両親が、高校時代に復縁したワケ

――中学の頃に、ご両親が離婚されたそうですが。

武田 そう。でも、両親から「離婚した」とちゃんと話をされなかったし、こっちも聞かなかった。「ああ、離婚したんだな」っていう感じ。

 それでも、かなり落ち込みましたね。中学生っていう思春期の真っ最中に親が離婚するのって、相当にショックだし、すげえ悲しかったですよ。多分、泣いてたと思うんだけど、そういうのを親にも他人にも見せたくなかったしね。

 ただ、いまでもそうなんだけど、俺って気持の切り替えが早いんですよね。「離婚したんだな」と気付いた次の日には、「よし、サッカーしよう!」ってボール蹴ってたから。

――でも、高校時代に復縁を。

武田 高校1年生の時に、全国高校サッカー選手権で頑張って、準優勝して、得点王にもなって。離婚してから、親父は鹿児島にいたのかな。そういう俺の活躍を、親父がテレビで見てたらしいんですよ。それで胸を打たれて、「心を入れ替えて、真面目になる」って母親に連絡してきて、また籍を入れたんですよ。復縁をしたのは、母親の優しさですね。

 離婚では泣いたけど、復縁の時は「そっか」って、どこか吹っ切れてましたね。親とはいえ、大人同士の話だし。俺も武田修宏として、もう自立してたからね。

 ただ、全国高校サッカー選手権の決勝が、家族を1つにしてくれたんだって思ってますけどね。

派手好きなところ・華やかなところは父譲り

――お父さんは、復縁後に体調を崩されたそうですね。

武田 糖尿病で亡くなるんだけど、最後の5年は寝たきりで、母親が自宅で面倒を見てましたね。

 当時、毎年1月にハワイに行ってたんですけど、ハワイに到着した瞬間に兄貴から「親父が亡くなった」と電話が来て。すぐに空港で日本行きのチケットを買って、父のいる静岡まで駆けつけました。

 さっきも話したけど、派手好きなところ、華やかなところは、父譲りだから。そういうのがあったから、テレビにも出られたし。あとは勝負師なところ。親父はギャンブル、俺はサッカーが勝負の場っていうね。そういった意味で、親父には感謝してますよ。逆境に立ち向かうことで、自分の気持ちは強くなりましたから。

――高校は、越境進学でサッカー強豪校の静岡県立清水東高等学校へ。

武田 そうそう。

――高校時代に広瀬すずさんの叔母と交際していたと。

武田 それ、みんな聞きたがるよね(笑)。聞きたければ、話しますよ。なんか、俺がみちょぱのお母さんを口説いてたって話もあるみたいね。

撮影=釜谷洋史/文藝春秋

〈 広瀬すずから突然「武田さん、私のおばと付き合ってましたよ」と…元日本代表・武田修宏(57)が語った、高校時代のスゴすぎるモテ伝説 〉へ続く

(平田 裕介)

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