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身内から1億5千万円の“横領被害”…「全財産を失い、チームもクビになった」元日本代表・武田修宏(57)が、“失意のどん底”から復活できた理由

文春オンライン / 2024年7月28日 11時0分

身内から1億5千万円の“横領被害”…「全財産を失い、チームもクビになった」元日本代表・武田修宏(57)が、“失意のどん底”から復活できた理由

元日本代表の武田修宏さん ©釜谷洋史/文藝春秋

〈 広瀬すずから突然「武田さん、私のおばと付き合ってましたよ」と…元日本代表・武田修宏(57)が語った、高校時代のスゴすぎるモテ伝説 〉から続く

 黎明期のJリーグを牽引し、引退後もタレントとして活躍しながら日本サッカー界の向上に努めてきた、元日本代表の武田修宏(57)。

 そんな彼に、猛烈なアプローチをかけられまくったモテ期、全財産1億5000万円の消失、結婚しない理由などについて、話を聞いた。(全3回の3回目/ 1回目から読む )

◆◆◆

Jリーガー時代、凄まじい人気で“いわれのない話”も

――武田さんは、陽キャであることでも人気が高かったですよね。1993年のワールドカップ・アメリカ大会のアジア最終予選となった対イラク戦、いわゆる“ドーハの悲劇”で日本代表チームが沈痛な面持ちで帰りの飛行機に乗る中、武田さんはCAたちをナンパしていたそうですけど。

武田修宏(以下、武田) それ、ラモス(瑠偉)さんが面白おかしくテレビで話して、ネットニュースになっちゃったんですよ。

 当時のヴェルディって、めちゃくちゃ実力があって、有名だった。だから、こちらからだけじゃなくて、女性のほうからも寄ってきてくれた時代だったんです。普通に国内線に乗ってるだけで、電話番号を渡してくれる時もありました。

 ドーハの帰りの飛行機って、当然チャーター便じゃないですか。しかも乗ってるのは、日本代表ですよ。「今度、飲みに行きましょう」ってなりますよ。

――たしかに、“Jリーガー”は凄まじい人気でした。

武田 94年かな。広島空港にファンが集まりすぎて、空港の裏口を使ったり。静岡で試合をやったら、静岡駅の前がファンですごいことになっていて、なんかあったら危ないってことで、線路から歩いて新幹線に乗りました。 

――ほかにも、“いわれのない話”みたいなものはありますか。

武田 某サイトのコメントで、テレビに出なくなったのは「櫻井(翔)くんと俺が合コンして、ジャニーズ事務所(当時)からNG食らってるからだ」なんてことも書かれてて。たしかに櫻井くんとは昔、何回か食事に行きましたけど、2人きりで行ってるから。合コンなんてしないし、そんなことしたら櫻井くんの迷惑にもなるから、俺はちゃんと気を使って2人きりで会ってるの。それに、そういうコメントって櫻井くんにも失礼ですよ。これだけは、この場を借りてはっきり言わせてください。

――わかりました。1億5000万円を失ったと話していましたが、どういった経緯で。

親戚に預けた全財産1億5000万円が消えていた経緯

武田 親戚の方に税理士さんがいたので、すべて預けたんですよ。全財産の1億5000万を。

 銀行に入れて預けても、増えないじゃないですか。それで株を買って増やそうとしてくれたんですけど、だけど失敗して、1億5000万あったのが、8000万、6000万、5000万って減っていって。向こうからすれば、やっぱり言えないじゃないですか。で、その方が急にパーキンソン病になって、車椅子で生活するようになってしまったんですよ。「大変だろうから、俺が自分でやるか」って、蓋を開けたら0円になってるから「えー」って。

――全財産が消えていたわけですよね。

武田 その親戚の税理士さん、最終的には車椅子に乗って謝りに来てくれましたよ。「すまん」って。俺は人が良すぎるんだろうけど、その方も悪い人じゃないから。良かれと思ってやってくれたから。

 なので、「僕はまだ生きていけるから。頑張るから大丈夫、ありがとう」って伝えて。1年後にその方は亡くなりました。

――許せました?

武田 過去を振り返っても、お金は戻ってこないから。それより未来だけを考えようと思ったんです。

全財産を失い、同じ時期に戦力外通知を告げられ…

――でも、全財産ですよね。

武田 お金が無くなったのって99年なんだけど、戦力外通知も告げられた時期と被ってるんですよ。

 俺は96年にヴェルディからジュビロ磐田、97年にヴェルディに戻って、同じ年に京都パープルサンガに行って、98年にジェフユナイテッド市原へ移ったんです。で、ジェフ市原のJ1残留争いで2点取って、俺は残留したと思って喜んでたんだけど、2日後に戦力外通知を告げられて、さらに全財産が無くなったこともわかって。

 ヴェルディに帰ったけど、試合には半年間出られなくて。そうしたら横浜フリューゲルスにいたラウル・アマリージャが、パラグアイでスポルティボ・ルケーニョっていうチームの監督をやってると。で、このままヴェルディにいても試合に出られないようだったら引退になるから、スポルティボ・ルケーニョへ入れって言われて、飛行機に24時間乗って、南米のパラグアイに行ったんですよ。

 出発の前日に、同学年の清原さん(清原和博)と2人で食事をして、「がんばってこいよな」と言ってくれてね。それ以来、彼とは会わなくなっちゃったけど、嬉しかったよね。

「メンタルが参っちゃって」パラグアイ時代の“知られざる苦労”

――単身でパラグアイへ?

武田 ひとりで。フチワキさんという日系人の方が持っているマンションを借りて、スポルティボ・ルケーニョに入って。

 33歳にして、本場のサッカーを目の当たりにしたって感じでしたね。だって、サンパウロFCとかアルゼンチンのボカ・ジュニアーズといった南米トップクラスのチームが毎週試合しに来るんだから。

 3試合出たけど負けちゃって、サポーターにワーッと言われてアマリージャがクビになって、俺も試合にまったく出られなくなるんですよ。それで、ちょっとメンタルが参っちゃって。

――ひとりだと、なおさら辛いですよね。

武田 「単身でパラグアイまで来たのにな」とは思いましたね。あと、パラグアイには3か月いたんですけど、海外で3か月暮らすって、ストレスが溜まるんですよ。でも、青年海外協力隊の人と知り合って、その方と飯を食いに行くようになって、メンタルは徐々に戻ってきましたね。

 で、その後にブラジルに3か月ほど行くんです。去年まで柏レイソルの監督やってたネルシーニョ(・バプティスタ)が、当時ブラジルのAAポンチ・プレッタの監督をやっていて。友達がネルシーニョに連絡してくれて「じゃあ、来いよ」となって、拾ってくれて。

ハングリー精神も一層と強くなり、サッカー仲間にも助けられた

――そして、ヴェルディへ帰る。

武田 ブラジルに行った翌年の2000年に、松木(安太郎)さんが監督でヴェルディに戻ったんですよ。俺がブラジルにいるのを知って、わざわざ会いに来てくれて。「来年、来い。一緒にやろう」と言ってくれたんです。で、2001年にヴェルディに行って、同じ年に引退して。松木さんは恩人なんですよ。

 お金を失くして、チームをクビになってなかったら、33歳でパラグアイに行かないですよ。でも、南米の人たちの生きる強さとか明るさみたいなものをもらえて、ハングリー精神も一層強くなりましたからね。あと、いろいろサッカー仲間にも助けてもらえてね。よく講演では、「逆境は人を強くする」「仲間を大切に」ってまとめてるんだけど(笑)。

34歳で引退を決意した理由とは?

――引退を決意した理由って?

武田 2002年のワールドカップ日韓大会。トルシエジャパンの頃ですよ。俺はヴェルディに戻って、得点を取ってたんだけど、(フィリップ・)トルシエは日本代表に呼ばなかった。そのとき34歳で、次のワールドカップでは38歳でしょう。さすがに無理だから、いろいろ考えて引退しました。

 で、日韓ワールドカップの日テレのキャスターとか、『スポーツうるぐす』のサッカー・コーナーの担当をやるようになって。2004年から2009年にかけては、JFAのアンバサダーとしてサッカーの普及活動もやってましたね。

――バラエティでも活躍するようになりましたが、きっかけみたいなものはあったのですか。

武田 『スポーツうるぐす』をやりながら、サッカーの監督を目指していたんですよ。それで2005年には、監督になれる日本サッカー協会の公認S級ライセンスを取りましたし。

 だから、俺としてはバラエティに進むつもりはなかったんですよ。だけど、『めちゃ×2イケてるッ!』や『ナカイの窓』、『VS嵐』などに出演して、いじられキャラで人気と知名度が上がっていったんです。

――タレントとしても人気が出ると思っていましたか。

武田 まさか、バラエティでブレイクするなんて思ってもいなかった。ただ、バラエティに出るスポーツ選手の第一人者にはなれたんじゃないかなって。といっても、板東英二さんというものすごい第一人者がいるけど(笑)。当時はスポーツ選手がバラエティに出ると、批判も多かったんです。でも、どんなことでも続けることが大切だと思って、テレビに出ていました。

 自分としては、基本的に素でやってるんで。ロケなんかも、いろんな人と会えるから大好きだしね。それでも、バラエティに出るのって意外と大変なことなんですよ。そう見えないかもしれないけど、頭も気も使うから。でも、評価されないんだよ(笑)。

ホリプロを2年前に退所

――ホリプロを退所したのは、2022年ですよね。

武田 そうです。92年にスカウトされたんですけど、自分が入ってスポーツ文化部が出来たんですよ。だから、スポーツ文化部1期生の1番。30年、本当にお世話になりました。でも、コロナ禍で自分の人生を見つめ直して。サッカー中心の生活を送ろうと思って、一度退所することにしました。

 ホリプロを退所したあとは、三浦知良さんがいるJFLの鈴鹿ポイントゲッターズ(現:アトレチコ鈴鹿クラブ)の特別臨時コーチになって。2024年からは、清水東高時代の先輩・長谷川健太さんが監督を務める名古屋グランパスの特別コーチとして、現場の指導や監督としての勉強をしています。

――いまはどこの事務所にも所属せず、おひとりで。

武田 スケジュールからメールの応対から、すべて自分ひとりでやってますね。

――マネージャーなどを雇ったりする予定は。

武田 やっぱり、1億5000万円を人に預けてパーになっちゃったりしてるから。誰かとなにかをやるって、そういうことが起きるかもしれないことなんだって今は考えるようになっちゃって。ひとりでやるのがいいだろうと。

被災地の子供たちへのサッカー指導を通して感じたこと

――残してきた実績を考えると、監督をやっていてもおかしくないですよね。

武田 19歳でMVP、読売クラブで3回優勝して、ヴェルディで3回優勝して、年間6回優勝でしょ。まあ、悪くはないよね(笑)。

――被災地の子供たちにサッカーを教えたりもしていますしね。

武田 月に1回、JFA能登半島地震復興支援プロジェクトの一環で、石川県に行ってます。先日も石川県の被災地へ行ったばかりで。やっぱり、精神的な面を含めていろいろとダメージを負っている子供たちがいっぱいいましたね。

――震災はもちろんのこと、貧困やヤングケアラーなど、苦しい状況に置かれている子供たちが目立つようになりましたよね。

武田 自分は「明るく、頑張る」っていうポジティブな考えで切り抜けたけど、それが難しい子もいるからね。そういう場合は1人で考え込まないで、友達と話をしたり、誰かの力を借りて一緒にやるのがいいんじゃないかな。

 輪島の学校でサッカーを教えたんですけど「みんなで試合しよう!」と言うと、「キャーッ、やったー」って1つになって無我夢中にサッカーするんですよ。辛い状況にいる子には、サッカーじゃなくてもいいから、夢中になれるスポーツに出会ってほしいね。そうすると自然と仲間が出来たり、団結力の強さを感じたりするし、競技以外でも助け合うようになったりするんですよ。

慎重になっている結婚も「そろそろしなきゃいけない」

――今年で57歳ですが、充実していますか?

武田 そろそろ結婚しなきゃいけないなと思うんですけど。でも、今はいい感じの過ごし方をしてて。ホリプロを辞めて、世代交代で仕事は減ったけど、母親と会う時間がものすごく増えたんですよ。母親は85歳で、静岡に住んでいるんだけど、月に2回ぐらいは会いに行って飯を食ったりしてますよ。

 子供の頃からずっとサッカーをやってきて、引退してからはテレビに出てたから、一緒にいる時間が一切なかった。そういう親との時間を、ここに来て取り戻してますね。

 能登の被災地までボランティアに行ったり、浜松でサッカーしたり、母校の清水東高校とかいろんな学校へ講演に行ったり、母親に会ったりしながら、どうやって武田修宏を終えようかと考えてる感じだね(笑)。

――「結婚しなきゃいけない」とのことですが、結婚を避けているところもあるのでは。

武田 あると思いますよ。慎重ではあるよね。だって自分の家族が、みんなが頭に思い浮かべるような家族じゃなかったんだから。そういう環境で育ってないうえに、サッカーと出会ってしまったわけだしね。

 でも、小さい頃に寂しい経験をしたことで、自分は強くなったし、ハングリー精神を養うことができたと思ってる。賭け事ばかりする父親は好きじゃなかったし、苦労もしたけど、20歳で日本代表に入ったときには、親に感謝しましたよ。逆境に立ち向かうメンタリティがなければ、日の丸を背負うことはなかっただろうから。

撮影=釜谷洋史/文藝春秋

(平田 裕介)

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