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「腫れて曲げられなくなって、ヒザから水を抜いて」世界ランク1位からまさかの代表落ち…バドミントン奥原希望(29)が語る“どん底だった”パリまでの記憶

文春オンライン / 2024年8月2日 17時0分

「腫れて曲げられなくなって、ヒザから水を抜いて」世界ランク1位からまさかの代表落ち…バドミントン奥原希望(29)が語る“どん底だった”パリまでの記憶

2021年東京五輪での奥原選手 ©JMPA

 世界ジュニア選手権優勝、シングルスでの五輪メダル獲得(銅メダル)、世界選手権の女子シングルスで優勝。バドミントン界における“日本人初”の記録を次々と打ち立て、2019年には世界ランク1位となった奥原希望(のぞみ)選手(29)。

 東京五輪の前後はケガに悩み、出場権を逃したパリ五輪までの日々は「本当にどん底だった」という。これまでの歩みや、五輪への思い、現在の心境について聞いた。(全2回の前編/ つづき を読む)

◆ ◆ ◆

――パリ五輪に出場する日本人選手は国外開催の五輪では最多の409人(男子218人、女子191人)ですが、誰一人としてすんなり出場を決めた選手はいません。パリまでの道のりにはみな同じような戦いがあったのではないでしょうか。

奥原希望選手(以下、奥原) どの競技の選手たちも、限られた切符を手にするために人生のすべてを注ぎ込んだと言ってもいいと思います。 

 今大会の場合、東京五輪が1年延期になっていますから、本来だったら4年あるところが3年しかなかった。そのため私も、東京五輪が終わってすぐに「パリに向けて走り出そう」と思っていました。でも待っていたのは、度重なるケガに悩まされる日々でした。

 パリ行きを確実にするため、選考のかかった国際大会に出場してきましたが、世界は不調な選手を受け入れてくれるほど甘くはなかった。代表枠の2枠には入れず、パリ五輪の女子シングルスは山口茜選手、大堀彩選手に決まりました。

 ただ今は悔しい気持ちは1ミリもなく、選手たちを目いっぱいテレビの前で応援できますし、みんなにはこれまで培ってきた技術を大舞台ですべて出し切って欲しいなって。

 パリへの切符を逃したのに、なぜこんなにスッキリしているんだろうと考えたところ、東京五輪以降の苦しんだ3年間に得るものが大きかったし、新しい学びもあったので、自分では悔しさより達成感の方が大きいんです。

――リオ五輪では女子シングルスで日本人初の銅メダル、2019年には世界ランキング1位にも輝いています。向かうところ敵なしにも見えましたが……。

コロナ禍での東京五輪。ケガ以上に辛かった“メンタル”

奥原 その頃は自分がケガをし、メンタルも危うくなってしまうなんて思いもしませんでしたから(笑)。

 実は最初にケガをしたのは東京五輪前。試合中にぎっくり腰になってしまいましたが、腰を庇いながらプレーを続けていると、今度は首に痛みが出て。腰を庇って上半身でラケットをブンブン振り回していたので、首の骨が疲労骨折していました。

 ただ、東京五輪の時はケガ以上に辛かったのがメンタルの乱れでしたね。世界がコロナで大変な時に、アスリートが競技を続けるのはただの自己満じゃないかと思い込んでしまった。五輪を開催すべきかどうかギリギリまで議論があったし、開催に反対する人が少なくない中で、スポーツの価値をちゃんと伝えることが出来るのか、ってかなり悩みました。私が一人で考えても仕方ないことですけど、やっぱりその時の世間の空気を意識せずにはいられなくて……。

 そんな時、所属している太陽ホールディングスがオンラインで壮行会を開いてくださって。社員の皆さんの声を聴いているうちに、涙が止まらなくなってしまったんです。こんなにも応援してくださる方がいるのかと気づき、一気にモチベーションが上がったんですよ。

 東京五輪では準々決勝敗退でしたけど、無観客にも拘わらず日本中がオリンピックに沸き、スポーツの価値をしっかり伝えられたかなと思います。

東京五輪後の気持ちに、体がついていかなかった

――パリ五輪に向け、すぐに気持ちを切り替えられましたか。

奥原 もちろんです。東京五輪前はオリンピックの価値について悩み、「自分の存在はこんなにもちっぽけなのか」と思いましたけど、東京五輪を経験し、「私の活躍は誰かのためになる」と分かったので、モチベーションはグングン右肩上がりでした。

 ただあまりにもやる気が強かったので、心に体がついていかなかった。2022年の代表合宿中に肉離れを起こし離脱して、精密検査を受けると右大腿骨が疲労骨折していることが分かりました。その痛みでやっと体の不調に気づきました。

 バドミントンはランキング制。シングルスの五輪出場枠はランキング上位2人と決まっているので、世界大会に出場してポイントを稼がないと、世界ランクが一気に下がってしまうんです。東京からパリまでは3年間しかなかったし、体をだましだまし出場し続けていました。

――昨年の全英オープンでは、膝から水を抜きながら試合をしていましたね。

膝が腫れて曲げることができなくなって、水を抜いて…

奥原 膝が腫れて曲げることができなくなったので、水を抜いてもらうしかなかった。でも抜いた直後は膝の組織が敏感になっているので、痛みが増すんですよね。全英は正直、戦える状態ではなかった。

 昨年末の全日本総合選手権では、決勝戦の2セット目で棄権しました。試合途中で右足に全く力が入らなくなってしまったんです。決勝戦まで勝ち上がってきたので、どうしても優勝したくて自分を鼓舞してみたけど、足が動いてくれず……。

痛みが出てから「やっぱり超えてしまったか」と

――なぜそこまで。奥原選手には危険信号が点滅しないんですか。

奥原 その時はもう、点滅というより赤ランプがずっとついているような感覚でしたね。ただ、危険ゾーンの判断の仕方が本当に難しいんですよ。一歩踏み込めばケガに繋がるし、手前で踏みとどまると逃げにもなるし。でも、危険ゾーンを探りながらでも、前に進むのがアスリートだと私は思うんです。

――だたその閾値は、奥原選手は狭いように思います。たとえば他の方が1cmあるとしたら奥原選手は1mmの世界で探っている。

奥原 むしろ超えちゃってから気が付くのかもしれません。違和感を覚えたときにストップすればいいのですが、私は痛みが出てから「やっぱり超えてしまったか」という感じになる。痛みが出たらもうアウトなんですけどね。

東京からの3年間はどん底だった

 東京からのこの3年間は本当にどん底でした。下半身のケガの連鎖で、特に膝はどんな治療をしてもよくならない。歩くこともままならず、寝ていても痛みが続くし、寝返りさえ打てなかった。

 トレーナーさんと相談しながらケアを続けていたのですが、パリに向かわなきゃならない気持ちが強い一方で、このままでは世界と戦えないという現実の狭間でもがいていました。理想の自分と現実の自分がどんどんかけ離れていき、そのギャップが凄く苦しかった。

――理想の自分とはどんな姿なんですか。

アイアンマンのような、完璧なアスリートになりたかった

奥原 最強で完璧なアスリート(笑)。出る試合は全部勝つし、ケガしてもすぐに戻ってくるし、メンタルも常に強い。言うならアイアンマンのような人間。世間の人もそう自分のことを見ているに違いないと思い込み、ダメなところを見せてはいけないと考えていました。

 ただ、理想の自分と現実の自分の狭間で苦しんでいた時に、「Fans’」 というコミュニティサイトを知り、ブログを立ち上げました。会員制のサイトなので、自分の現在の姿、ダメな自分、ネガティブな自分をさらけ出したんです。すると、共感して下さる方がどんどん増え、ダメな自分でも世間に受け入れてもらえることが分かった。

挑戦する過程にも価値があると気づいた

 苦しんだストーリーが誰かの共感を呼ぶこともある。試合結果がすべてと思っていた私が、挑戦する過程にも価値があると気づかせてもらった。これは私にとって大きな学びでした。

 パリを目指した道のりは、体の不調を抱えていても1度も後ろを振り向かなかったし、逃げられるタイミングはいくらでもあったのに逃げなかった。最後の最後まで戦いきった。だからパリには辿り付けなかったけど、全く悔いはないし、むしろやり切った充実感でいっぱいです。

 だからこそ、ライバルだった山口選手や大堀選手を心の底から応援できるし、苦しい戦いを勝ち抜いてきた選手12人には、ボーナスステージだと思って五輪を思う存分楽しんで欲しいんですよ。

〈 「仕切ってはいませんよ(笑)ただ…」大谷翔平や羽生結弦もいる“94年組”が集まる会をバドミントン奥原希望(29)が調整していた理由とは? 〉へ続く

(吉井 妙子)

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