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遭難死者数はエベレストの2倍以上…1977mしかない谷川岳を「魔の山」にした“奇怪な容貌”を持つ1000mの崖とは

文春オンライン / 2024年7月26日 7時0分

遭難死者数はエベレストの2倍以上…1977mしかない谷川岳を「魔の山」にした“奇怪な容貌”を持つ1000mの崖とは

谷川岳の山頂付近。左は谷川岳肩ノ小屋 ©森山憲一

 群馬県と新潟県の県境にそびえる谷川岳(1977m)。

 7月は谷川岳登山が一年で最も気持ちのいい季節のひとつだ。緑は瑞々しく、谷筋には残雪も見え、色とりどりの高山植物が山を飾る。

 標高1300メートルまでロープウェイで上がることができるため登山の難易度はそれほど高くなく、手軽に非日常的な高山風景を見られる山として人気が高い。天気のいい週末には、登山者が列をなして山頂に向かう光景が見られる。山頂直下にある山小屋周辺では、登山者がお弁当を広げ、それぞれに山頂のひとときを楽しんでいる。平和そのものの風景だ。

 近ごろでは「インスタ映え」する山としても人気が高い。山頂付近の絶景はもちろんのこと、登山道の途中には、GoogleがCM撮影に使った岩場があり、今ではそこも写真を撮り合う絶好のスポットとなっている。

 私も大好きな山である。私は登山歴37年になる登山ライター。これまでいろんな季節、いろんなルートから30回ほど谷川岳に登ってきたが、いまだに飽きることがない。天気がいい日にはつい谷川岳に足が向いてしまう。まだまだ行きたいところはいくらでもある。そんな懐深い山でもあるのだ。

エベレストの倍以上の人間が遭難死した「魔の山」

 ところがその一方で、谷川岳は暗い歴史を持つ山でもある。

「谷川岳は魔の山」――そんな言葉を聞いたことはないだろうか。現代の若い登山者にはピンとこないかもしれないが、ある一定の年齢以上の人にとって、谷川岳といえば恐ろしい山、そんなイメージが抜きがたくあるはずだ。それは登山をする人だけでなく、登山をしない人の間でさえ、広く知られていることだろう。

 谷川岳インフォメーションセンターの広い駐車場の向かいに、いくつかの石碑が建つ広場がある。谷川岳を訪れる人でも注目することは少ないと思うが、ここにはかつて谷川岳を世界一危険な山として知らしめた記録が刻まれている。

 広場にある石碑のうち最も大きくて目立つのは、高さ約2メートル、幅10メートルほどにもおよぶ慰霊碑。そこには、これまでに谷川岳で遭難死した人の名前が刻まれている。その数、八百数十人。

 世界最高峰のエベレスト(8849m)でも死者数は三百数十人。標高ではその4分の1もない谷川岳が、死者数では倍以上を記録しているのだ。現在では、ヨーロッパ最高峰のモンブラン(4808m)が上回っている可能性が高いが、谷川岳は長いこと「遭難死者数世界最多の山」として知られていた。

 谷川岳で初めて遭難死者が記録されたのは1931年。慰霊碑が建てられた1967年にはすでに500人ほどにまでのぼっていた。その後もハイペースで増え続けたため、名前を刻むスペースがなくなってしまい、左右を拡大増築して現在に至っている。死者が出るたびに名前を刻む作業は今でも行なわれており、碑にはまだ100人分ほどの余白が残されている。

 慰霊碑の横には、人物の顔が刻まれた石碑がいくつか立っている。そのひとつ、ハーケンを模した特異な形をした碑が目を引く。これは「谷川岳のドクトル」として知られた石川三郎医師を記念して建てられたもの。地元水上の医師であった石川氏は、遭難事故があるたびに山に入り、この広場で遺体の検死を行なったのだという。ここは、そうした血塗られた悲しい歴史の現場でもあったのだ。

標高差約1000メートル、幅も1000メートルほどにわたる絶壁

 なぜ谷川岳がこんな歴史を持つことになったのか。それはひとえに、東面に巨大な岩壁群を持っていることによる。谷川岳の東面は切り立った岩壁になっており、そのスケールと登攀難易度は国内でも屈指。北アルプスの穂高岳、剱岳と並んで「日本三大岩壁」ともいわれており、ヒマラヤなどの高峰を目指すクライマーたちの格好の腕試しの場となってきた。

 いくつかある岩場のなかでも特に有名なのが、一ノ倉沢。山肌がえぐり取られたような奇怪な容貌をしたこの谷は、標高差約1000メートル、幅も1000メートルほどにわたって扇型に広がった岩の大伽藍となっている。

 単純に自然の造形としても圧倒的であるが、この岩壁が数百人の命を飲み込んできたことを知ると、見方はかなり変わるだろう。私などはいつもエイリアンを連想する。まがまがしくもおぞましい、巨大なエイリアンにロックオンされて身動きできなくなった小動物のようになってしまうのである。

 一ノ倉沢には100本ほどの岩登りのルートがあり、1950年代から70年代にかけて、血気盛んな若者たちが初登攀競争を繰り広げた。時代は、ヒマラヤのマナスル(8163m)を日本の隊が初登頂したことで巻き起こった登山ブームのただなか。

 ヒマラヤに夢を抱く若者が、まだ未踏のルートが多く残されていた谷川岳にターゲットを定めて押し寄せた。この結果、日本の登山史に刻まれるような歴史的な初登攀がいくつもなされることになるのだが、その陰で、岩壁に敗北した数多くのクライマーが命を落とした。

1966年にはたった1年で38人が谷川岳で命を落とした

 そこにかけたクライマーたちの情熱は、当時を知らない私のような世代からすると“異常”といってもいいほどだ。谷川岳全体で最も多くの死者数を記録したのは、1966年の38人。

 毎週1人に近いペースである。このころ、日本全国の山岳遭難死者数は200人ほど。全国の山岳遭難の5分の1がひとつの山で起こっていた計算になる。こんな山は、日本の山岳史上ほかにない。

 あまりにも多くの人が死に、大きな社会問題ともなって「魔の山」として悪名を轟かせてしまった谷川岳だが、1980年代以降は遭難がガクンと減った。岩壁のルートがほぼ登り尽くされ、同時に、谷川岳のクライミングは時代に合わなくなり、訪れるクライマーの数が激減したのである。

 1980年までの50年で700人ほどの死者数を記録した谷川岳は、1980年以降、現在に至るまで四十数年間の死者数は100人ほどにとどまっている。

 その間、日本百名山ブームや山ガールブームが起こり、谷川岳に通う人たちの勢力図はガラッと変わった。ロープウェイから登る平和な登山道には、年々登山者の数が増え、一方で、一ノ倉沢のかつての人気ルートは、一部をのぞいてクライマーの姿を見ることはなくなり、元の自然に帰っていこうとしている。

 今では谷川岳というと、開放感いっぱいの稜線の風景を思い浮かべる人が大半であって、エイリアンのようにおどろおどろしい一ノ倉沢を連想する人は少数派であるはずだ。

 私は谷川岳を訪れるたびに慰霊碑によく寄ってみるのだが、そこに残された空白のスペースに大きな変化は見られない。根強く残っていた魔のイメージはようやく風化していこうとしている。

〈 300mの崖に宙吊りになった登山遭難者の遺体を回収する“前代未聞の作戦” 47人の自衛隊員がライフルと機関銃で撃ちロープを切断すると… 〉へ続く

(森山 憲一)

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