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《追悼・徳田虎雄》「一泊5.5万の特別室で…」盟友が明かす徳洲会グループ“病院王”の闘病生活

文春オンライン / 2024年7月31日 7時0分

《追悼・徳田虎雄》「一泊5.5万の特別室で…」盟友が明かす徳洲会グループ“病院王”の闘病生活

盟友・石井一二氏

「運転で気に食わないことがあると後部座席からドーンとシートを蹴り上げる。それで、運転手には『赤信号でも行け』と。今だとパワハラでアウトだけど、なんともいえないエネルギーと突破力に溢れた人でした」

 7月10日、日本最大の医療法人「徳洲会」の設立者・徳田虎雄氏が86歳で死去した。稀代の病院王との思い出を振り返るのは、徳洲会の特別顧問を務めた“盟友”石井一(いち)二(じ)元参議院議員(87)だ。

◆◆◆

医療充実を推進した徳田氏

 奄美群島・徳之島の貧農の家で育った徳田氏。苦学して大阪大学医学部を卒業すると30代の若さで大阪府松原市に第一号の病院を設立。以後、猛烈な勢いで徳洲会グループを拡大させた。徳田氏の伝記『ゴッドドクター 徳田虎雄』の著者でノンフィクション作家の山岡淳一郎氏が明かす。

「徳洲会が急速に病院を増やした1970年から80年代は、医療砂漠と呼ばれる“病院が存在しない地区”が多かった。『生命だけは平等だ』『年中無休、24時間診察』をモットーに、離島や僻地の医療充実を推進した徳田氏の功績は非常に大きいです」

 一方で、急速な拡大によって各地で地元の医師会との衝突を生み出した。

「その衝突を教訓に、モットーを実現するためには、政治力が必要だと気付いた徳田氏は、医療改革を掲げて衆院選に打って出た。故郷の徳之島を含む衆院奄美群島区から初めて立候補したのは83年。3度目の挑戦となる90年に初当選を果たし、その後、当選4回。しかし、衆院議員を務めたなかで、医療問題への目立った提言は特になく、『医療空白地帯を徳洲会で埋める』という信念だけで動いていたという印象です」(同前)

「南海の虎」と評される迫力

 それでも、豊富な資金力をもとに政党「自由連合」を94年に結成。前出の石井氏は徳田氏の政治的パートナーでもあった。石井氏が振り返る。

「初めて会ったのは、73年に神戸市内で行われた彼の講演に参加したとき。その熱弁、ユーモア、動きは全て今も脳裏に焼き付いています。自由連合に幹事長として参画しましたが、結果として、彼は政治家としては報われなかった」

 国政選挙では、2001年の参議院議員選挙で多数のタレント候補を擁立したことで話題を呼んだ。

「あの時は92人の候補者を立てて、全部で90億円くらい使ったはずです。徳田さんも流石にやりすぎたと思ったのか、徳洲会の幹部らが集まる会議で、『自分の懐に入れたわけじゃないから許してほしい』と謝罪していました」(同前)

 元東京都知事の故・石原慎太郎氏や亀井静香元衆院議員らと親交が深いことでも知られた。その亀井氏は徳田氏の迫力を「南海の虎」と評している。

難病を患うも、徳洲会のドンとして君臨し続けた

 だが、飛ぶ鳥を落とす勢いだった徳田氏は02年頃から、全身の筋肉が動かなくなる進行性の難病であるALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い、05年に政界を引退。以降、症状は悪化の一途を辿り、眼球を動かす筋肉以外、全身不随に。そんな状況でも、病院経営について指示することもあったという。

「ひらがな五十音と数字が記されたプラスチックの文字盤を秘書が持ち、徳田氏は目を上下左右に動かすことで意思疎通を図っていました」(全国紙記者)

 徳洲会のドンとして君臨し続けた徳田氏。だが、13年に衆院議員だった次男の毅氏の公職選挙法違反に絡んだ「徳洲会事件」で親族や側近らが軒並み逮捕される。これを機に徳田氏は経営からも退いた。

「徳田氏が違法な選挙活動を事実上取り仕切ったことは間違いないが、ALSで療養中のため身柄の拘束及び公判を維持できないと判断され、不起訴処分となった」(同前)

病院王の侘しい晩年

 そうして闘病生活を続けること20年余り。療養先は徳洲会グループが運営する湘南鎌倉総合病院の15階にある一泊5万5000円の「特別個室」だった。石井氏が続ける。

「発症した当初は、少しでも進行を遅らせようと、ナースが6人ぐらいついて体全体の筋肉をほぐすマッサージを行っていた。最後の5年ほどは症状が悪化し、家族以外は面会できなくなりました。私が最後に見舞いに行ったのは9年ほど前。その頃ですら、ほとんど骨と皮だけの状態でした。晩年は、自動でお風呂に入れる機械も備え付けたと聞きました」

 葬儀は近親者のみで執り行われたという。徳洲会幹部が明かす。

「葬儀の喪主は妻の秀子さんが務めた。虎雄さんの遺言によれば、財産については、秀子さんと次男の毅さんで折半することになっており、その方向でまとまっています。遺言にはもう一つの希望として、『遺体を徳之島に埋葬してほしい』と書かれていたそうです」

 実際に遺体は故郷の徳之島に運ばれ、21日に偲ぶ会が行われる予定だ。

「その翌日には、亡き母親が眠る墓の隣に土葬されるそうです。徳之島ではかつては土葬が一般的で、これも虎雄さんの生前からのたっての希望だったのだとか」(同前)

 稀代の病院王の侘しい晩年だった。

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2024年7月25日号)

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