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「床の上を這いずり回りたい」「言うだけのことを言って消えて…」草笛光子90歳が“やりたいバラエティ番組”とは?《「九十歳。何がめでたい」が公開中》

文春オンライン / 2024年8月1日 6時0分

「床の上を這いずり回りたい」「言うだけのことを言って消えて…」草笛光子90歳が“やりたいバラエティ番組”とは?《「九十歳。何がめでたい」が公開中》

昨年10月に90歳になった草笛光子さん。今年で芸歴は74年に ©文藝春秋

 俳優の草笛光子の「90歳記念映画」として、『九十歳。何がめでたい』が絶賛公開中である。映画デビューから今年で71年となる草笛だが、意外にもこれが初の単独主演映画だという。

 映画の原作は、昨年100歳を迎えた作家の佐藤愛子のベストセラーだ。小説ではなくエッセイなので、佐藤は映画化は無理と言っていたようだが、完成した映画は、原作のエッセンスをうまく活かしながら、断筆した老作家と、職場でも家庭でも崖っぷちに立たされたベテラン編集者(演じるのは唐沢寿明)の復活劇というストーリーに仕立て上げられていた。

自然なままのグレーヘアが自分らしいと思ったが…

 今春、草笛が「週刊文春」で2021年3月より連載中のエッセイから最初の3年分をまとめて出版した『 きれいに生きましょうね 90歳のお茶飲み話 』(文藝春秋)でも、終わりがけ、この映画の話題が出てくる。

 それによれば、監督の前田哲からは《見た目を愛子先生に近づけたい》との要望があり、メガネをかけたり、衣装も佐藤愛子の以前の写真をもとに似たようなものをつくってもらったりしたという。

 髪の毛も、草笛としては自然なままのグレーヘアが自分らしいと思ったものの、似せるため少し黒く染めた(なお、草笛が髪を染めずグレーヘアにしたのはここ20年ほどのことで、そのきっかけについても本書に書かれている)。

まるで乗り移ったように演じていた

 もちろん、草笛が書くとおり、《愛子先生に似せるといわれても、見た目だけそっくりにすればいいわけではありません。モノマネではないのですから、女優の私が役柄として演じる以上、内面から醸し出される雰囲気や風格も表現することが必要です》。

 彼女の本領発揮はむしろこちらにあった。歯切れのいい口調、他人に毅然と接しながらも、どこか感じさせる心の温かさ、にじみ出るユーモア(とくに孫娘と毎年、年賀状のためさまざまな扮装をして撮った写真は傑作である)など、佐藤愛子の人柄がまるで乗り移ったように草笛は演じていた。

草笛と「愛子先生」が重なったエピソード

 それでいて、筆者が本書を読んでから映画を観たせいもあってか、劇中の「愛子先生」が草笛光子本人に見えてしまうような瞬間もたびたびあった。たとえば、「グチャグチャ飯」と題するエピソードがそうだった。

 これは、愛子先生が北海道の別荘の前に捨てられていた犬を、当初はそのつもりはなかったのに結局引き取り、東京の自宅で飼うようになるという話である。もっとも、その頃の先生は多忙をきわめ、孫娘がハチ(原作ではハナ)と名づけたその犬にはほとんどかまってやれなかった。

「グチャグチャ飯」とは、そのハチに食べさせていた昔ながらの犬の飯、残飯に味噌汁の残りなどをかけた汁飯である。これまで佐藤家で飼われてきた犬は皆、こうした飯を食べて長生きしてきたという。だが、ハチはそのうちに病気になり、医者から「腎不全」と診断される。そしてそのまま何も口にしなくなり、昼は居間、夜は愛子先生のベッドの下で寝起きする日々をしばらく送ったのち、死んでしまった。

 ハチの死後、愛犬家で霊能があるらしい友人・喜代子(演じているのは草笛の実の妹である冨田恵子)が先生を訪ねてきて、「あの世にいるハチは本当に感謝していて、あのご飯をもう一度食べたいと言っている」と伝えてくれた。このとき、喜代子の目に、あのグチャグチャした汁飯が見えたらしく、「これは何ですか?」と不思議そうな顔をする。

 このエピソードでの愛子先生が草笛自身と重なったのは、草笛もまた動物がらみで霊能者に見てもらった体験を、『きれいに生きましょうね』収録の一編「猫を探して」で明かしていたからだった。こちらは犬ではなく猫で、それも飼い猫ではない。自宅の庭にときどき来ていた野良猫が連れてきた子猫だった。しばらくするとその子猫だけが、手招きすると家のなかまで上がってきたという。

 草笛はオスのその猫を「チビ」と名づける。チビは少しずつ馴染んで、気を許すようになり、やがて彼女がソファでテレビを観ているとそばに寄ってきて、一緒に観るまでになる。しかし、せっかく仲良くなったと思ったのに、チビはわずか1週間ほどで忽然と姿を消してしまった。

 心配した草笛は、四方八方手をを尽くして探し回る。新聞で見かけたペット探偵に依頼して1週間以上探してもらい、また、近所にお願いして赤外線カメラも置かせてもらった。チビの写真入りのビラもつくって、ペット探偵の助言で1万枚刷って配布もした。それでも手がかりはつかめず、草笛自ら、周辺の獣医さんを片っ端から訊ねて回り、あなたのほうがよっぽど探偵らしいと言われるほどだった。

「探したいから、お金払ってるのよ!」

 そもそも飼い猫ではなく、たった1週間仲良くすごしただけにもかかわらず、草笛のチビへの愛着の深さに驚かされる。そんな彼女を見かねてか、犬や猫の気持ちがわかるという占い師を紹介してくれた人がいた。しかし、いざ占い師に“テレパシーで交信”してもらうと、草笛は意外に冷静だった。このときの様子を引用すると……。

〈「あなたの猫は『長い間お世話になりました。楽しい日々を過ごさせてもらって、本当に感謝しています。いま僕は幸せですから、安心してください』と言っています」

 

 というような文章を[引用者注:占い師は]書いてくれて、「はい、料金はお振込みでお願いします」。チビと私しか知らない「一緒に観た、あのテレビ番組が忘れられません」といった思い出など、少しも出てきません。

 

 あれで慰められたり、寂しさを紛らわす人もいるのでしょうね。「僕のことは探さないでください」と言われて「探したいから、お金払ってるのよ!」と思いましたけれど、もちろん口に出しません。世の中には、いろいろな商売があるものです。〉

 皮肉と怒りが混じった言い分がまた、愛子先生と重なり合う。歯に衣着せない物言いは、本書のタイトル「きれいに生きましょうね」にも通じる。

「きれいに生きましょうね」という言葉

 この言葉はもともと、外見を美しく飾るのではなく、「きれいな心で生きましょう」という意味で、長らく草笛のマネージャーも務めた亡き母との合言葉だったという。年を重ねるとさらに、いい顔をしたいとか、カッコよく見せたいなどといった自分を規制するタガが外れた。もう誰に何と思われてもかまわないと、本書の最初のエッセイでは、《歯に衣着せないで、言うだけのことを言って消えて行こう》と宣言している(「歯に衣着せずに」)。

 結局、チビは行方知れずのままだという。それでも草笛は、たった1枚しかないチビの写真をいまでも、かつて飼っていた犬たちの写真(彼女はもともとは大の犬党であったという)とともにベッドの横に飾り、話しかけているのだとか。

『きれいに生きましょうね』では、この猫をめぐる一件のほかにも、家のすぐ近くの道でやたら交通事故が起きるので警察に対処をお願いしたとか、不注意から家を3度も水浸しにしてしまったとか、草笛が日々の暮らしのなかで遭遇する事件についてもユーモアたっぷりにつづられている。彼女が長寿を保っているのは、案外、そうした適度な(というのも変だが)トラブルが刺激になっているからなのかもしれない。

加齢ゆえの悩みに「情けないな」「この先どうしたら…」

「目と歯と耳と」というエッセイによれば、草笛は定期的に健康診断や血液検査を受けても、とくに悪いところは見つからず、身体は健康そのものらしい。それでも、90歳ともなれば老いにはあらがえない。片方の目は加齢で眼球の張りがなくなってドライアイになり、ときどき曇るという(ちなみに本書の文字は、普通の本よりかなり大きく、老眼にも優しい)。

 耳も突発性難聴を発症してからというものしだいに遠くなり、補聴器を使わねばならなくなった。おかげで、松竹歌劇団出身で日本のミュージカル女優の草分けでもある草笛が、歌うことを断念せざるをえなかった。

 それが、先述の前田哲監督と組んだ前作『老後の資金がありません!』(2021年)では主演の天海祐希とのデュエットで、久々に映画で歌を披露することになった。このとき、なかなか上手く歌えないので思い切って補聴器を外して歌ってみたら、一発でOKが出たという。

 補聴器を通して入ってくる音は硬質だが、外してみると伴奏も自然に柔らかく入ってきた。《生まれたときの耳はこんなだったのかしら》と当時88歳の彼女は懐かしく感じて、涙が出そうになったという。一方で、この経験から《年を取って機械の音を通さなければ歌えなくなったなんて、情けないな》ということも考えてしまい、《オーバーな言い方をすれば、女優としてこの先どうしたらいいのか……》と悩みものぞかせる。

 このように元気そうに見える草笛も、陰では色々と苦労をしているようだ。それでも、ときに思い切りのよさでピンチを切り抜けているのが、彼女らしいと思わせる。

故人をしのぶ草笛の語りに引き込まれる

 年を取れば親しかった人たちとの別れも増える。それ自体は淋しいことではあるけれど、故人をしのぶ草笛の語りは、あとの世代からすれば昭和史、芸能史の貴重な証言であり、引き込まれずにはいられない。

 昨年亡くなった奈良岡朋子も、池内淳子(2010年死去)を交えた俳優どうし3人でよくホテルの一室に集まっては愚痴を言い合ったりした親友だった。

 草笛が一時、定期的にニューヨークのブロードウェイへミュージカルを観に行っていた頃、奈良岡もあとから追いかけて合流したことがあったという。このとき、彼女が草笛の勉強熱心さを褒めたのに続けて放った辛辣な一言は、勉強とは何のためにするものかと考えさせられ、読んでいるこちらの胸にも刺さる(「橋田賞の授賞式にて」)。

昭和30年代、テレビの現場のドタバタぶり

 あるいは、NHKのニュース番組でインタビューを受けた際、局側が昭和30年代に草笛の出演した番組のスナップ写真を持って来てくれたことから、当時の思い出をつづった「『光子の窓』のころ」という一編も、草創期のテレビの現場のドタバタぶりが垣間見えて面白い。

『光子の窓』とは、日本テレビで草笛が司会を務め、1958年から1960年まで放送された日本初の本格的な音楽バラエティー番組である。番組の放送作家の一人には、草笛と同い年でやはり若手だった永六輔がおり、彼の書いた歌劇のパロディを、ゲストに招いた人気オペラ歌手の藤原義江と一緒に演じたこともあったという。

 当時のテレビカメラはまだ大きくて重かったので自由に動けず、出演者のほうがコーナーごとにカメラからカメラへと移動しなければならなかった。VTRが貴重だった時代のこと、当然ながらすべて生放送で、衣装はコーナー転換の合間にカメラの映らない場所で急いで着替えると、床をのたくっている機材のケーブルの上を這いずり回って移動したという。

あんなふうに喋って踊って歌って、もう一度床の上を這いずり回りたい

 草笛はそんなふうに当時を懐かしく振り返ったあとで、初心に返ろうという思いも込めてか、最後にこう付け加える。

《昔の自分の姿を見るのも、いい刺激になりますね。あのころの情熱を思い出して、ちょっと誇らしくなったりします。そして、『八十九歳の光子の窓』をやってみたくなりました。あんなふうに喋って踊って歌って、もう一度、床の上を這いずり回りたいのです。》

 ご本人がここまで乗り気になっているのだから、テレビが原点に立ち返るという意味でもぜひ、『光子の窓』を復活させてほしいものである。

(近藤 正高)

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