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「お母ちゃんと叫びながら、子どもが川に飛び込んだ」死者14万人の“広島原爆”を体験した被爆者(93)が語る、“非業の死”を遂げた子どもたちへの思い

文春オンライン / 2024年8月6日 6時10分

「お母ちゃんと叫びながら、子どもが川に飛び込んだ」死者14万人の“広島原爆”を体験した被爆者(93)が語る、“非業の死”を遂げた子どもたちへの思い

被爆した原爆ドームの現在(撮影=フリート横田)

〈 「遺体がゴム風船のように膨らんどった」原爆の熱線が人間の内臓まで破壊…死者14万人“広島原爆”で被爆した93歳男性が明かす“凄惨な記憶” 〉から続く

 広島市に原子爆弾が落とされてから、今日8月6日で79年となる。「リトル・ボーイ」と名付けられたその新型爆弾によって、市街地は一瞬で焼け野原となり、1945年(昭和20年)12月末までに約14万人が命を落としたと言われている。

 この悲劇を実際に体験したのが、被爆者のひとり、山本定男さん(93)。山本さんは、広島県立広島第二中学校(広島二中)の2年生だった14歳の時、爆心地から約2.5kmの東練兵場で被爆した。現在は、原爆の記憶を風化させないよう、被爆体験を後世に語り継いでいる。

 山本さんは自身の強烈な被爆体験とともに、忘れられない思いがある。それは広島二中の1年生のこと。爆心地から約500mの場所にいた1年生は「みんなその場で非業の死を遂げたと思っていた」という。しかし実際は約3分の2の生徒が、必死になって自分の家へ帰った後に亡くなったり、道端で力尽きたり、川に流されていたことが分かった。

 地獄と化した広島市街地で、子どもたちはどのような最期を迎えたのか。ノンフィクション作家のフリート横田氏が、山本さんの証言と資料をもとに、原爆投下直後の様子を伝える。(全2回の2回目/ 1回目 から続く)

◆◆◆

「お母ちゃんと叫びました」大やけどを負って川に飛び込んだ子どもたち

 原爆投下から24年後。昭和44年に広島テレビ放送が、広島二中の1年生たちの遺族を探し、少年達の最期を追跡調査した。ほとんど知られないまま世を去った子どもたちの投下直後の様子が、遺族から寄せられた手紙などからある程度わかった。それぞれの最期の様を、広島出身の女優・杉村春子が1人朗読した番組が「碑(いしぶみ)」である。

 いま筆者の手元に、放送時の草稿をもとにした記録集「いしぶみ」がある。少年たちの原爆投下直後の様子を、あえていくつか紹介したい(※子どもたちの名は、個人情報保護の観点から、下の名のみ記す)。

 原爆投下直後、熱線で砂までが燃える状況下、川に飛び込む子どもたちは多かった。旧制中学で学ぶ優秀な子どもたちである。軍国教育を叩き込まれている。やけどした身体が水に沈まないよう、励まし合って、いさましく軍歌を歌った。それでも、

文洋君
「お母ちゃん、お母ちゃんと叫びました」

茂樹君
「泳ぎのできない友人が“ぼくらは先に行くよ”といって、万才を叫んで川下に流れていきました。みんなお母ちゃん、お母ちゃん、と大声でいっていた」〉

 その後、遺体で一杯の川からはい上がれた子どもたちのうち、失明していなかった子らは父母の待つ家へ向かった。栄養状態が悪く、現在の小学校高学年程度の体格しかなかった子どもたち。燃える街から4、5kmの道を、全身やけどを押して歩いた。

「わが子とは思えない、やけどにくずれた顔で…」

 枕木だけになった鉄道橋を四つん這いで渡る子、川を泳ぐ子、家へたどり着ける子もいれば、橋の上、病院の玄関、貯水槽のなか、路傍、色々なところで力尽きているのを、探し回った親に見つけてもらった子もいる。

邦男君の父
「名前を呼ぶと“お父ちゃん”と、わが子とは思えないやけどにくずれた顔で返事しました。お父ちゃんはきっときてくれると信じていた、といいました」

茂君の母
「(収容された寺で最期の様子を聞くと)おおぜいの人が、両親の名を呼んでいる中で、子どもは“夢の中でお母さんやお父さんに会う”といっていたそうです」

茂樹君の母
「みんなお母ちゃんといって死んだよ、夜はとても寒かった、水は川におりて飲んだが潮水はおいしいね、といっておりました。10日午前1時、死亡しました」

明治君の母
「(弟、妹に別れの言葉を言ったあと)死期がせまり、わたしも思わず、お母ちゃんもいっしょに行くからね、と申しましたら、あとからでいいよ、と申しました。(中略)お母ちゃんにあえたからいいよ、とも申しました」

淳君の母
「お母さん、帰りましたよ、といってくれたのですが、顔がやけどではれあがり、手当のしようがありませんでした。やけどで痛かったのでしょうが、友だちの名をよんではがんばれといい、思いきり水を飲みたい、と申しました。数をかぞえてみたり、友だちの名前をよんだりして気をまぎらわし、がまんして苦しいとひと言ももらさず、その夜、7時半に死んでしまいました」〉

 当時、大やけどした者に水を飲ませると死んでしまうと信じられていた。水をほとんど飲めずに亡くなった人は多い。はさみで切らないと服を脱がせられないほど皮膚と布がくっついてしまいながら、それでも「弟にやってほしい」と救護員からもらった乾パンを持ち帰った子、家にたどり着きながらもうわごとをいうだけになったり、口はもうきけず、目も見えず、苦しみ抜いて亡くなった子、お父さんお母さんには会えず、亡くなった子も大勢いたことが不憫でならない。

 こうしてお父さんお母さんに会うことができて、いくつかの証言を残した子たちも、数日以内に亡くなった。広島二中1年生6クラス321人と引率教師4人は、原爆投下日から6日後の12日までに、結果的に誰一人助からず、全滅した。

1945年の末までに約14万人が原爆で亡くなった

 子どもたちや家族を探したり、救護のために市内に入った人々も強烈な残留放射線のために発病したり、大勢が亡くなった。1945年(昭和20年)の末までに原爆のために約14万人もの人が亡くなったといわれている。私は生き残った山本さんに聞いた。原爆を落としたアメリカをどう思いますか?

「大量殺人兵器を落としたということはね、やっぱりアメリカは許されるべきことじゃないんですよ。でも考えてみるとね、こんなこと言っちゃ悪いけど、戦争を起こしたのは日本なんですよ」

 アメリカ製の核兵器に顔半分を焼かれ、親族や後輩を殺められた本人、戦争をその身で体験した最後の世代の言葉。そして山本さんは、核兵器の恐怖が今も去っていないことを強調する。現在も全世界には1万2000発以上の核兵器が存在している。

「ロシアは、核を使うと威嚇しとる、イスラエルもそんなこと言ってる。いつまた核戦争が起こるかもしれないという状況ですが、どうしたらいいか。 私も答えがよくわからないんですよ。でも、やっぱり世界中の人にもっと原爆や被爆の実相を知ってもらって、世界中で声を上げていくことが大事なんだと思います」

「これは爪と皮膚です」被爆して亡くなった広島二中1年生の遺品

 その後も長く被爆による障害に苦しむ人々が生まれ、それは今に引き続いている。山本さんは広く知ってほしいというが、惨禍は現在、正しく伝えられているだろうか。

 昭和のテレビ番組によって、山本さんは後輩たちの最期を知ることができた。読者にお聞きしたい。令和6年の本日8月6日のテレビ番組表はどうなっていますか。原爆について特番を組んでいますか。

 近年、民放で戦争について取り上げるとしても、生々しい被害、グロテスクな場面については直接的に見せないか、あるいは隠してしまう傾向が強まったように思える。痛みを想像させない、小綺麗に着地させ、しめくくる番組が増えたように思う。

 激しく思考をゆさぶるものを堂々と提示できるだけの知性や良識、勇気が放送側から減って、あたりさわりのない「漠然とした悲しみ」として戦争を提示するような、安易な自主規制へと傾いている気がしてならない。山本さんの証言をかみしめる。

「遺品は語ると思うんです。これを知ることもね、非常に大切なことだと私は思います。これは……残酷な遺品です」

 山本さんは黒ずんだものが写っている写真を示しながら話してくれた。広島二中1年生が残したもの。

「これは爪と皮膚です。喉の乾きに耐えかねて、爪のはがれた指先から出た膿を吸ったのです。兵隊にとられていたお父さんのために、お母さんが形見として残し、のちに原爆資料館に寄贈されたもの。これは現在は倉庫にしまってありますが、こうした遺品が資料館にはたくさんあるのです」

 遺品は、少年の傷付いた肉体そのものだった。広島平和記念資料館(原爆資料館)には、多数の遺品が展示されている。言葉でしか語り得ないものがあるのと同時に、胸が苦しくなるほど、言葉以外でしか語り得ないものがある。どうか資料館まで足を運んで、目視していただきたい。

全滅した広島二中の1年生に捧げる合唱曲を制作

 山本さんは「碑(いしぶみ)」の放送を見て、1年生たちの最期に衝撃を受けたあと、慰霊のためにある行動を起こした。

 高校時代から合唱を続け、男声合唱団の代表を務めていた山本さん。全滅した広島二中の1年生に捧げる合唱曲を作ろうと動いた。奇しくも作詞者も作曲者も広島二中出身者が担当することになり、9章、45分の大曲「レクイエム『碑(いしぶみ)』」が放送翌年の昭和45年完成した。

 山本さん指揮のもと、少年たちが命を落としたほとんどその場所といえる広島市公会堂(現在の広島国際会議場の場所にあった建物)で発表したのだった。

 コンサートの最中、山本さんは公会堂の背面の扉を開けてもらった。開けた向こうには、石碑が見えた。子どもたちのための慰霊碑だった。鎮魂歌は風にのって、子どもたちに届いたと信じたい。

子どもたちの死を悼むだけで終わらせないでほしい

 いま、既存メディアが戦争を伝えなくなってきている分、ネットメディアが取ってかわられているかと言えば、そうとも言い切れないと私は思う。ウェブ上で読ませる記事は、文字量の多いものは忌避される傾向にある。そういう意味で、これだけ長い本稿をここまで読んでくださったあなたに感謝します。重ねて2つ、お願いがあります。

 今日は8月6日。黙祷をお願いします。

 しかし暗いまぶたの裏を見ながら子どもたちの死を悼むだけで終わらせないでください。あなたが誰かの兄や姉、父や母であるのなら、大人が守ることができなかった、生きられなかった少年たちを、弟や息子だと暗闇のなかで想像してください。

 そして、今を生きているあなたの弟や息子や妹や娘に、何が起きたのかを話してきかせてください。いまこの世にいる子どもたちを、ふたたび戦争の中に投じないと、誓ってください。そのことだけが、亡くなった子どもたちに我々ができる唯一の慰めです。

 歴史を知るとは過去の事柄を知ることではないと私は思います。過去をもう一度、いまに引きつけて、考えることだと思います。

 もう1点あります。

 広島二中生徒の慰霊碑は、平和記念公園内、本川のほとりに佇んでいます。広島に行かれた際は、手をあわせ、子どもたちにもう一度、祈りを捧げていただきたいのです。

〈引用:『いしぶみ』広島テレビ放送編 ポプラ社発行 1972年〉

(フリート横田)

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