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「目玉を飛び出させながら、こちらを見てニタッと…」ソ連軍との“玉音放送後の死闘”を元日本兵が語る〈ゴロゴロ転がる死体を戦車で踏み潰し…〉

文春オンライン / 2024年8月16日 6時0分

「目玉を飛び出させながら、こちらを見てニタッと…」ソ連軍との“玉音放送後の死闘”を元日本兵が語る〈ゴロゴロ転がる死体を戦車で踏み潰し…〉

小田英孝氏は占守島で戦った元日本兵の一人

〈 「何も見えません!」「どこでもいいから撃て!」9000人のソ連兵が北海道に襲来…元日本兵が〈最後の死闘〉を証言 〉から続く

1945年8月17日、ソ連が千島列島北端・占守島に侵攻を開始した。玉音放送後に武装解除を進めていた日本軍は完全に不意を突かれたのだ。ノンフィクション作家の早坂隆氏が「占守島の戦い」の秘話を伝える。

◆◆◆

戦死した連隊長

 その後、戦車はようやくハイマツ林を抜け、草原地帯に出た。敵兵は後退し、攻撃はほぼ止んだ。改めて集合した日本軍の各部隊は、次なる戦闘に向けて準備を進めた。

 やがて戦闘が再び始まった。第4中隊の任務は、敵兵の南下を男体山の麓で食い止めることだった。小田は再び戦車内で機関銃を撃ちまくった。この時は敵がよく見えた。

「ソ連軍の兵士も勇敢でしたが、中には猟銃を持った者までいました。鴨を撃つような猟銃。正規兵の他に、場当たり的に数だけ揃えられた者たちもいたんじゃないですかね」

 やがて濃霧が出てきて、敵の攻撃が少しずつ緩やかになった。しかし、そのうち、池田連隊長が戦死したという知らせが入ってきた。戦後に記された複数の1次史料によれば、池田連隊長の乗る戦車の側面に1発の砲弾が突き刺さったという。戦車は一瞬にして炎上。池田連隊長は帰らぬ人となった。その後、第4中隊の伊藤中隊長が連隊長の代理役を務めることになった。

「池田連隊長が亡くなり、他の中隊長もそれに遅れるなとばかりに突っ込んで戦死していきました。それで各中隊がバラバラになりかけたんです。そこで伊藤中隊長がまとめ役になりました。伊藤中隊長は普段から『俺は1人の部下も失いたくない』と語るような人でした。伊藤中隊長の冷静な指揮がなかったら、皆どんどん突撃して全滅していたかもしれません。それに伊藤中隊長は島の地形を細かく知り尽くしていました。前から研究していたのでしょう」

 激戦が続く中、やがて砲弾も底を突いた。そこで被弾して停まっている友軍の戦車から未使用の砲弾を取ってくることになった。小田は車長とともに1輛の戦車に近づいた。

「その戦車はエンジンを撃ち抜かれて動けなくなっていて、操縦手もすでに戦死していました。私たちはその戦車から砲弾を20発ばかりいだだきましたが、その時、我が車長が敵弾に撃たれてしまいました。口から血を吐いているので、口の中を見たら舌がちぎれていて。口から入った弾丸が首を抜け、肩から再び体内に入って背中から出たようでした。すぐに救急箱を持ってきて脱脂綿を咥えさせましたが、腰の上からも血が噴き出ている。止血のために包帯でグルグル巻きにして、自分たちの戦車まで運んで乗り込ませました」

 以降は小田が車長役となった。やがて伊藤中隊長から、

「一旦、中隊の駐屯地まで戻って負傷者を軍医に預け、代わりに砲弾を積めるだけ積んで戻ってこい」

 と命令を受けた。小田の戦車ともう1輛が駐屯地に向けて出発した。

 その途次、狭い道に敵か味方かも不明の死体がゴロゴロと転がっている箇所があった。前を走る戦車はそれらを踏みつけて進んでいった。

「踏まれて顔の潰れた死体が、目玉を飛び出させながら、こちらを見てニタッと笑ったように見えました」

 さらに駐屯地に向かって進んでいると、1人の尉官に、

「止まれ、止まれ!」

 と声をかけられた。その尉官は、

「もう戦闘は終わりの時間だ。これから軍使を送るところだから」

 と言う。小田は知らなかったが、大本営によって「終戦後の戦闘行為は、自衛目的であっても18日午後4時まで」と定められていたのだった。第5方面軍司令官の樋口中将は、大本営にソ連との停戦交渉を強く促していた。大本営はアメリカを通じてソ連に停戦を求めたが、ソ連軍最高司令部はこれを拒否した。

占守島で圧勝した日本軍

 そんな中で時刻は午後4時を迎え、これをもって現地日本軍は優勢のまま積極的な攻撃を停止。かたやソ連軍も大規模な戦闘を行うだけの戦力はすでに喪失しており、戦況は以後、膠着状態へと入った。

 この時、小田は忘れられない体験をする。空き地で休んでいた小田は、ハイマツの陰に倒れていた敵の死体だと思っていたものが不意に動いたのに気がついた。上官が言う。

「あれ生きているぞ。小田、斬ってこい」

「飛びかかってきたら斬りますが、手を上げたら縛って引っ張ってきます」

 小田は慎重に近づいた。するとそのソ連兵は小田の気配に気づいたのだろう、いきなり向き直って小銃を構えた。小田は持っていた軍刀を相手の頭部に思いっきり振り下ろした。敵兵はヘルメットではなく戦闘帽を被っていた。軍刀は頭部から鼻先までを一気に斬り裂いた。

「驚くほどよく斬れました。しかしねえ、嫌ですよ、あれは。本当に」

 翌19日も散発的な戦闘はあったものの、同日の内に日本側は改めて軍使を派遣。ソ連側も受け入れ交渉に入った。その後も紆余曲折を経たが、最終的に停戦が成立したのは21日だった。この戦いにおける日本側の死傷者は600~1000名、対するソ連側の死傷者は1500~4000名。占守島の戦いは日本軍の圧勝だった。ソ連軍が足止めされている間に、米軍が北海道に進駐した。

 日本はこうして「分断国家」への道を免れた。占守島の戦いは、地理的には小さな局地戦であったが、日本という国家にとっては極めて重要な戦いだった。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(早坂隆「 証言・ソ連を北海道から撃退せり 」)。

(早坂 隆/文藝春秋 2022年9月号)

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