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中山秀征(57)はなぜこれほどテレビに出続けるのか? “歌も芝居もいまひとつ”だった群馬の少年が「誰にも負けないタレント」になるまで

文春オンライン / 2024年7月31日 6時0分

中山秀征(57)はなぜこれほどテレビに出続けるのか? “歌も芝居もいまひとつ”だった群馬の少年が「誰にも負けないタレント」になるまで

©文藝春秋

 昭和の芸能界やテレビ業界では、単語を引っくり返した業界用語が飛び交っていたという。いまでこそ芸能人でもこの手の言葉を使う人は少なくなったようだが、そのなかにあって中山秀征は使いこなせる希有なタレントと目される。

 あるとき、お笑いコンビ・おぎやはぎの矢作兼が、中山に「『川のほとりでたたずんだ』を業界用語にすると?」と話を振ったところ、即座に「ワーカのトリホでズンタッタ」と返ってきたという。

 もともと、単語を引っくり返して符牒のように使う習慣はジャズマンのあいだにあり、戦後設立された芸能事務所やテレビ局にはジャズ関係者が多かったことから、そのまま踏襲されたのだろう。

 中山が所属する現在のワタナベエンターテインメント、旧渡辺プロダクションの創業者である渡邊晋もかつてはジャズバンドを組んでおり、そのころ知り合ったハナ肇らに資金提供してキューバン・キャッツ=のちのクレイジーキャッツを結成させ、自ら設立した渡辺プロのタレント第1号としている。

 中山秀征はこうした歴史を持つ渡辺プロの正統な継承者といえるかもしれない。本人にもその自覚は強いようだ。今年(2024年)5月、彼は自らのテレビタレントとしての半生を顧みた『いばらない生き方』(新潮社)という著書を刊行したが、そこでも渡辺プロへの思い入れがつづられている。

40年前、レッスン生として渡辺プロに入った

 中山がレッスン生として渡辺プロに入ったのはいまから40年前、1984年の春である。当時16歳だった少年も、誕生日であるきょう7月31日、57歳となった。渡辺プロではちょうど中山が入った年、「BIG THURSDAY」というお笑いプロジェクトが立ち上げられ、彼もマネージャーに促されるままに参加する。

 あるとき、BIG THURSDAYのライブに当時の事務所の社長・渡邊晋が興味を持ち、突然観に来たことがあった。中山は気持ちが高ぶり、いつも以上に力を入れ、「やり切った」と大満足しながら終演する。社長も褒めてくれるのではと期待していたら、「トゥーマッチ!」とまさかのダメ出しを受ける。だが、社長は続けて「お客が疲れる。そこまでやんなくていい」と、穏やかなスマイルでアドバイスしてくれたという。

渡邊社長が59歳で死去…「会社を守りたい」というマインドに変わった

 渡邊はそれから数年後、1987年に59歳で亡くなった。渡辺プロを「帝国」と呼ばれるほど一大勢力にまでに築き上げた“大黒柱”の喪失は大きく、長らく会社を支えてきたスターや社員も続々と去った。社内に活気が失われ、中山たちは先行きに不安を覚える。

 そんななか、バラエティ班を統括するベテラン社員から、「このピンチを逆にチャンスと思え。俺たちで、渡辺プロを何とかしてやろう!」と発破をかけられた。それまで中山たちは、歌手や俳優といった会社の主流ではないゆえ、落ちこぼれまいと生き残ることにのみ必死だったが、この言葉で「会社を守りたい」というマインドに変わったという。

 社長の死後、渡辺プロへの風向きはあきらかに変わり、中山がオーディションなどに行くと昔の社長への恨みを理由に門前払いされることもあった。手のひら返しをする人たちを見返してやろうと、彼はマネージャーにもっと仕事を増やしたいので売り込んでほしいと頼んだ。

 しかし、これに対しマネージャーの返事は「売り込みはしない。いま出ている番組で頑張れ」。頑張る中山を誰かが良いと思えば、きっと向こうから声をかけてくれるのだから、それを待てというのだ。

90年代には多くのレギュラー番組を抱える売れっ子に

 実際、一つひとつの番組を頑張っていると、それを観た別の番組のスタッフからオファーが届く好循環が生まれ、仕事はどんどん増えていった。会社の危機が結果的に中山を飛躍させたのである。

 気づけば、90年代には週に10本以上ものレギュラー番組を抱え、まさに売れっ子となる。その一つ、日本テレビの『THE夜もヒッパレ』は、その後増える「芸能人カラオケ番組」の元祖とも言われるが、中山の捉え方は違い、《この番組はきっちり稽古して、完璧なショーをお茶の間に届ける、テレビ創成期から続いた「音楽バラエティ番組」の系譜を受け継ぐ“最後の番組”だという位置づけです》と強調する(『いばらない生き方』)。

 音楽バラエティといえば、クレイジーキャッツをメインに日本テレビと制作した『シャボン玉ホリデー』を皮切りとして、渡辺プロが得意としてきたものである。中山のなかでは、自分がその伝統を引き継いだという意識もあったに違いない。もっとも、厳密にいえば中山が芸能界にデビューしたのは、渡辺プロからではない。

 群馬県藤岡市で裁縫工場を営む家に生まれ育った彼は、幼いときから人前で歌ったりするのが好きな子供だったという。

芸能界を目指すきっかけになった5歳の出来事

 彼は5歳のとき、県内の遊園地へやって来た当時大人気だったフィンガー5を観に連れて行ってもらい、メインボーカルのアキラと一緒に歌えるコーナーに並んだものの、自分の直前で締め切られてしまった。悔しくて「いつかアキラと歌うぞ」と心に誓ったのが、芸能界を目指すきっかけとなる。

 中学2年のときには親に頼み込んで児童劇団に入り、いきなりサスペンスドラマで殺害される少年というメインの役でデビューしてしまう。ただ、その後はオーディションを受けても端役ばかり。東京に行かなければチャンスは来ないと思い込み、中学3年の3学期に神奈川県川崎市の学校に転校する。

 高校時代は友人や教師の家に居候させてもらいながら、オーディションを受け続けた。だが、食費を切り詰めていたら栄養失調で倒れてしまう。これを機に大手の芸能事務所に入ろうと方針を転換し、オーディション雑誌で目に留まった渡辺プロダクションに応募、書類審査を通過した。この時点で中山はてっきり契約タレントになれたものと思い込む。

 実際には契約できるかどうかはレッスンの出来しだいであり、歌も芝居もいまひとつだった中山の処遇は、最終的にマネージャー陣がタレントを選ぶ社内オーディションに委ねられる。採決に際し誰も手を挙げず、「終わった」と思った瞬間、遅刻して入ってきた若手マネージャーが「中山は俺が担当します」と挙手してくれ、首が皮一枚でつながった。

「バラエティで売れたら…」とのマネージャーの言葉でお笑いの世界へ

 関口雅弘というこのマネージャーの預かりという形で、中山は歌や芝居のレッスンを続けられることになる。翌1985年には、映画『パンツの穴~花柄畑でインプット~』で初めて名前のついた役で出演した。この映画はオーディションを受けたあと、結果がなかなか伝えられなかった。

 焦って泣き言を言う中山に、関口マネージャーは「俺が『ここにいろ』と言っているあいだはここにいろ。その代わり、俺が『群馬に帰ってくれ』と言ったら帰ってくれ。そのときは電車賃と弁当は持たせてやるから」と言ってくれたという。

 これと並行して、先述のお笑いプロジェクト「BIG THURSDAY」に参加する。お笑いの経験などない中山は戸惑うが、このときもマネージャーに「バラエティで売れたら、歌もドラマも両方できるんだぞ。そういう時代に必ずなるから」と言われるがまま、プロジェクトの1期生となった。同期には、のちにホンジャマカを後輩の恵俊彰と組む石塚英彦、また劇団主宰のかたわら放送作家をしていた三谷幸喜などがいた。

芸人という自覚はずっと希薄だった

 中山はここで一緒になった松野大介と翌1985年に「ABブラザーズ」というコンビを組み、小堺一機司会のお昼の生番組『ライオンのいただきます』のアシスタント役でまたたく間に人気を集めることになる。

 ただ、自発的にお笑いを始めたわけではないだけに、芸人という自覚はずっと希薄だった。当時のコンビそろってのインタビューでも、自分自身をどう規定するかと訊かれ、松野が《インチキ芸人ですね(笑)》と答えたのを受け、《インチキだよね、2人でなに[引用者注:原文では「なに」に傍点]をやるっていうわけじゃないし。(中略)マルチなタレント。2人だけでなにかをするっていうんじゃなくて、歌やドラマもやる》ときっぱり口にしていた(『スコラ』1986年9月11日号)。

 ちなみにこの談話が載った記事では、ABブラザーズとともに、当時の人気のお笑い界の若手として、ちびっこギャング、それに東京進出前のダウンタウンが登場している。

「ダウンタウン、ウッチャンナンチャンにはかなわない」

 ダウンタウンとは、ウッチャンナンチャンなどとともに、80年代後半に「お笑い第3世代」として注目された。だが、ABブラザーズはこのころにはテレビを主戦場としていたため、ネタをつくる機会もなくなっており、ライブのため次々と新ネタを繰り出すほかのコンビにどんどん引き離されていく。

 結成5年目の1989年に出演したランキング形式のネタ番組では、以前つくったネタを焼き直ししてのぞむしかなかった。結果は惨敗で、マネージャーからも「おまえたちはダウンタウン、ウッチャンナンチャンにはかなわない。負けを認めろ」と言われてしまう。

 それでも中山は「1人のタレントとしては同世代の誰にも負けない」と、相方の松野にも言わず、ひそかに誓いを立て、コンビ活動から単独の仕事へシフトしていく。ABブラザーズとしての最後の仕事は、1991年にゲスト出演した日本テレビの深夜番組『DAISUKI!』の収録となった。中山が同番組にMCとしてレギュラー出演するようになるのは、この翌年のことである。

〈 17年前の沢尻エリカ「別に」騒動を悔やみつづける理由とは…57歳になった中山秀征の司会者としての“真摯さ” 〉へ続く

(近藤 正高)

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