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17年前の沢尻エリカ「別に」騒動を悔やみつづける理由とは…57歳になった中山秀征の司会者としての“真摯さ”

文春オンライン / 2024年7月31日 6時0分

17年前の沢尻エリカ「別に」騒動を悔やみつづける理由とは…57歳になった中山秀征の司会者としての“真摯さ”

中山秀征 ©時事通信社

〈 中山秀征(57)はなぜこれほどテレビに出続けるのか? “歌も芝居もいまひとつ”だった群馬の少年が「誰にも負けないタレント」になるまで 〉から続く

 14歳でデビューして以来、歌手、芸人の活動などを経て現在はテレビタレントとして芸能界の第一線で活躍を続ける中山秀征(57)。彼がテレビの中で経験したさまざまな出会いと衝突、そしていまの“夢”とは?(全2回の2本目/ はじめから読む )

◆ ◆ ◆

『DAISUKI!』に1992年よりレギュラー出演するようになった中山は、松本明子と飯島直子との街歩きロケで評判を取る。このあたりから彼の快進撃が始まった。

松本明子が風呂場の前を素っ裸で…2人の出会い

 ちなみに松本明子は、中山の渡辺プロの1年先輩である。2人の出会いは、中山が #1 に書いた通りマネージャー預かりとなり、渡辺プロの寮に入ったときのこと。中山は入寮初日、先輩の松本が風呂場の前を素っ裸で歌いながら歩いているところに遭遇したが、松本は彼に気づいても動じることなく、「初めまして! アッコでーす!!」と言って去っていったという(『女性自身』2014年4月29日号)。

 中山は1年で寮を出たが、松本とはその間に夜な夜な相談し合ったり、夢を語り合ったりする気の置けない仲となる。それだけに松本はいつか中山と一緒に番組をやるのがずっと夢で、『DAISUKI!』でそれがかない喜んだ。

中山に強い敵愾心を抱いた今田耕司

 テレビタレントして同世代の誰にも負けないと、ひそかに立てた誓いを中山は20代後半にして実現する。そんな彼に強い敵愾心を抱いたのが、1993年、土曜深夜の生番組『殿様のフェロモン』(フジテレビ)でともにMCを務めた今田耕司だった。

 今田は番組を出演者全員で盛り上げようとする中山にまったく取り合わず、共演していたナインティナインら若手芸人を戸惑わせる。今田は当時、大阪から東京に進出したばかりで、東京のタレントや若手芸人をすべて潰すつもりで生放送にのぞんでいたらしい。

 それが約15年後、今田のほうから会いたいと言ってきて、中山に「あのときは迷惑をかけた」と詫びるにいたる。そして、あのころ中山が力を注いでいた、全体を見て番組を盛り上げるということの重要性に、一緒にMCをやりながら気づき、その後、自分でもそうするようになったと打ち明けたという。

「私は中山秀征が嫌いである」と明言すると…

 中山と敵対したのは芸能人ばかりではない。消しゴム版画家でテレビについての辛辣なコラムで知られたナンシー関(2002年死去)は、ある週刊誌での連載で《私は中山秀征が嫌いである》と明言すると、彼のことを《なまぬるいバラエティー番組全体の状況が生んだスター》とばっさり斬り捨てた(『週刊朝日』1994年8月12日号)。

 じつはナンシー関がそう書く前年、始まって間もない『殿様のフェロモン』では彼女が電話出演して中山と口喧嘩するコーナーが設けられたものの、いかんせんテレビでは遠慮気味で、コーナーの温度もまったく上がらず、すぐ打ち切りとなっていた。

 中山はこのときのことを著書『いばらない生き方』(新潮社、2024年)で振り返り、《あの時の僕がもっと「中山秀征的才能」を発揮できていれば、“熱い喧嘩”とまではいかずとも“ぬるい口論”くらいには盛り上げられたはず。それができたなら、さらに辛辣な「プロの批判」をしてくれていたかもしれません》と書いている。ただ、これはちょっと見当違いのような気がする。

ナンシー関が中山を批判した本当の理由

 それというのも、ナンシーが先のコラムで批判したのは、《テレビを見ている私には全く関係のない「(芸能界内の)しがらみ・関係性・その他諸事情」のみでスムーズに回っているブラウン管の中の和気あいあい》であり、その象徴的存在こそ中山秀征だと書いているからである(『週刊朝日』前掲号)。

 おそらく、ナンシーはこのことを前年の番組出演で痛感したのではないか。そう考えると、中山が書くように、たとえあのとき彼が自分の力を存分に発揮したとしても、ナンシーからすれば、なぜ自分が「ブラウン管の中の和気あいあい」に付き合わされねばならないのかと、よけい不信感を募らせる結果に終わったような気がしてならない。

 中山は著書のなかでもう1人、番組で共演しながら自分の力を発揮できなかったと、いまなお悔やんでいる相手がいる。それは、女優の沢尻エリカだ。

沢尻の「別に」発言の前日に…

 2007年、中山がMCを務めていた午前中の生番組『ラジかるッ』(日本テレビ)に、沢尻が出演映画の宣伝のためゲスト出演するも、中山と目も合わせず、何を訊かれても、事前の質問に答えていたのとことごとく違う回答をし続けた。これにはさしもの中山もついに打開策を見つけられないまま、コーナーを終えざるをえなかった。

 沢尻が舞台挨拶で「別に……」と言って会場を凍りつかせたのはその翌日であった。このために彼女は世間から激しく非難を浴びることになる。その騒動を見て中山は《「俺が『別に』へのトスを上げてしまったのでは……」と、申し訳ない気持ちでいっぱいでした》と悔いた(『いばらない生き方』)。

 9年後、別の番組で再会した彼女から謝罪を受け、一応和解にいたったものの、中山は彼女をあのとき不機嫌なまま帰らせてしまったと、当時を思い出すたび、いまも後悔と反省の思いに襲われるという。テレビの外側の人間であったナンシー関の場合とは違い、沢尻はテレビでの印象しだいで人気が左右される立場である。それゆえ、中山が彼女を上手くフォローできなかったと悔やみ続けているのは、テレビのMCとして正しく、真摯な態度だと思う。

出演を渋る立川談志を口説き…ディレクター的才能も発揮

 中山はキャリアを重ねるにつれ、番組づくりにも深くかかわるようになる。なかでも1999年より19年続き、彼にとって最長寿番組となった『ウチくる!?』(フジテレビ)には、企画の立ち上げから本格的にかかわっている。

 同番組は毎回、ゲストに生まれ育った街や思い出深い場所を案内してもらうというロケバラエティだった。そのコンセプトは、中山が幼い頃から愛読していた往年の『明星』や『平凡』といった芸能雑誌がヒントになっていた。これらの雑誌では、芸能人が故郷に帰って思い出の場所をめぐる名物企画があり、中山はこれをテレビでできたら、日曜昼の番組にピッタリじゃないかと思ったという。

 中山には『ウチくる!?』にどうしても出てほしくて、唯一、自ら出演依頼に赴いた人物がいる。それは落語家の立川談志だった。

 当初は出演依頼に「テレビはちょっとなあ」と渋っていた談志だが、中山は「つまらなかったら帰ってくださって結構ですから」と必死で口説いた。すると、談志は帰宅してから娘に「あの中山ってえのは、なかなかいいディレクターだな」と言って、最終的に出演を承諾したという(『週刊現代』2013年9月21・28日号)。なお、中山は談志の死後、遺族の推薦により、NHKのドキュメンタリードラマで壮年期の談志を演じている。

 談志が中山のことを「なかなかいいディレクター」と言ったのは、別に勘違いしたわけではなく、おそらく彼のなかにその資質を見出したのだろう。中山は前出の著書のなかでも、現在のテレビに対し、つくり手の視点からさまざまな提言をしている。

 そんな彼のいまの夢は、かつて華やかなテレビの象徴だったにもかかわらず、『THE夜もヒッパレ』が終了してからというもの途絶えてしまった音楽バラエティを、60歳までにはもう一度復活させるということだ。ここにも、「渡辺プロ」の伝統を次代へと引き継ごうという中山の気概を感じずにはいられない。

(近藤 正高)

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