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「棒地雷を持ったまま、戦車に突っ込め!」1万2000人が戦死したペリリュー島の壮絶な戦法《帰還兵の証言》

文春オンライン / 2024年8月14日 6時0分

「棒地雷を持ったまま、戦車に突っ込め!」1万2000人が戦死したペリリュー島の壮絶な戦法《帰還兵の証言》

ペリリュー島の戦い ©Roger-Viollet via AFP

日米双方で約1万2000人が戦死した悲劇の島・ペリリュー島(西太平洋、パラオ共和国)。この島から生還できた日本兵はわずか34名だった。そのうちの一人、土田喜代一氏にノンフィクション作家の早坂隆氏が戦場の記憶を訊いた。

◆◆◆

棒地雷を渡されて

〈「ペリリュー島から帰還した三十四名」の内の一人である土田喜代一さん(95)は、大正九年一月二十日、福岡県八女郡で生まれた。天皇、皇后両陛下(編集部注・現在の上皇上皇后両陛下)がペリリュー島を訪問されることを知った時、土田さんはこう感じたという。〉

 ペリリュー島というのは非常に小さな島で、一般の人でも行きづらい場所です。そこに陛下が行かれるということになれば、靖国神社にいる戦友たちがビックリするんじゃなかろうかと思って。

 ですから、私としては靖国の英霊たちも陛下と一緒にペリリュー島に行ってもらいたいわけですよ。『陛下がよもやこの島まで来られるとは夢にも思いませんでした。ありがとうございました』と御霊は喜び、そして再び靖国神社に帰られるでしょう。どれだけ英霊たちが感激されるだろうかなあと思っています。

 戦友の中には「天皇陛下万歳」との言葉を残して息絶えた者たちもいましたから。ある工兵隊の少尉も「天皇陛下万歳」が最期の言葉でした。

〈土田さんは昭和十八年一月、補充兵として召集され、海軍に入隊。パラオのペリリュー島に転進したのは、十九年六月のことである。三カ月後の九月十五日、米軍による同島への上陸作戦が始まった。〉

 私は海軍の「見張り員」でしたから、米軍の上陸が始まった時には、もはや役割は済んでいたわけです。そこで、私は海軍が使用していた鍾乳洞の内部におりました。十五、六人ほどの兵士がいたと思います。

 しかし、激しい戦闘が繰り広げられる中、海軍としても何もしないわけにはいきません。私も「見張り員」から「陸戦隊」になったわけです。私はすぐに海軍通信隊の壕に移動。そして、その日の夜、壕の中で陸軍のとある兵士から「棒地雷」を渡されたのです。海軍の私は棒地雷というのをこの時に初めて見ましたが、陸軍には以前からあったようですね。ちょうど刀の鞘を少し大きくしたようなもので、先端に爆薬筒が付いている。この棒地雷を持ったまま「戦車のキャタピラに体もろとも突っ込め」というのです。

「戦車攻撃の希望者、集まれ」

 やがて「米軍のシャーマン戦車が接近中」との情報が入りました。すると、中隊長が立ち上がって、声を張り上げたのです。「今から戦車攻撃、希望者三名、集まれ」と。それで、最初に火炎瓶を持っていた伍長か何かがパッと「はい、私、行きます」と答えました。それから、二人目が続いて手を挙げた。私は棒地雷を持ったまま、迷いに迷いました。すると、私の隣にいた小寺亀三郎という整備兵が「小寺一等兵、参ります! 死ぬ時は潔く死ねと両親から言われました」とこう叫んだわけですよ。

 この小寺というのは、「おテラさん、おテラさん」といつも周囲からバカにされていたような男なんです。銃もおそらく実弾を撃ったことがないんじゃないかと思う。そんな小寺が「参ります!」と言ったので私は驚きました。私としては、小寺が自分の身代わりになったような、そんな気がしました。

 決死隊となった三人は「行って参ります」と敬礼してから、一列になって壕から出て行きました。三人が壕を出て二十分ほど過ぎた頃、物凄い爆音が響きました。無論、三人が壕に戻ることはありませんでした。

 戦後、小寺のご家族の方に連絡を取りたいと思って復員局に行ったのですが、取り次いでもらえませんでした。それでも、復員局からは「父親らしき人が遺骨を取りにきた」との説明を受けました。しかし、木箱の中は空っぽだったはずです。

〈米軍側が「二、三日で終わる」と想定していたペリリュー島への上陸作戦は、日本軍守備隊の懸命の肉弾戦により一進一退の戦局へ。海岸線には両軍の屍が折り重なり、日本兵が潜む壕はガソリンを流し込まれた上で火炎放射器によって焼き払われた。この壮絶なる戦闘を知った天皇は、実に十一回にもわたって御嘉賞(お褒め)の言葉を送った。〉

 天皇陛下の御嘉賞について初めて聞いた時は、気持ちも高まったものです。二度目の時は「またもらったそうだよ」「よおし」と気合いを入れ直しました。しかし、その後は激戦に次ぐ激戦で連絡も充分に取れなかったため、十一回ももらったということは知りませんでした。そのことを知ったのは、戦後に帰国してからです。ちなみに、戦場で私が見た米軍の死体は、黒人のものが多かったですね。ほったらかしになった大きな身体に、無数のウジ虫が湧いていました。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(早坂隆、土田喜代一、尾池隆「 ペリリュー生残の記 」)。

〈 「戦死したのは皆、餓死。骨と皮になって死んでますよ」パラオで飢餓地獄をさまよった日本兵の証言《サツマイモの盗み食いで銃殺も》 〉へ続く

(土田 喜代一,早坂 隆 2015年5月号)

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