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絵描きを殺す者は誰なのか? 原作発表時に論争が起きた『ルックバック』は“追悼の物語”か、それとも…

文春オンライン / 2024年8月4日 17時0分

絵描きを殺す者は誰なのか? 原作発表時に論争が起きた『ルックバック』は“追悼の物語”か、それとも…

『ルックバック』藤本タツキ(集英社)

 これは、追悼の物語なのか、そうではないのか。その議論は今回の劇場版アニメーション『ルックバック』が公開される前、2021年に藤本タツキによる原作漫画が公開された時からSNSで議論になっていた。

 原作1ページ目の右上、読者が一番先に読み始める場所に「don't」の文字があり、最後のページの左下に「in anger」がある。最初と最後の単語に「ルックバック」というタイトルをはさむと『Don't look back in anger』という曲の名前が完成するというわけだ。それは音楽を愛するもの誰もが知るオアシスの名曲、ある背景を持つ楽曲の名である。

テロの追悼式でその歌が歌われた意味

 英国紙『ガーディアン』の公式YouTubeチャンネルに、 2017年にイギリスで起きたマンチェスターライブ会場テロ爆破事件の追悼式の映像 が残っている。

 追悼式に集まった群衆の沈黙と赤ん坊の泣き声の中、1人の女性が伴奏もなく歌い始める。教会の鎮魂歌のように美しいメロディを持つその歌に群衆の声が加わり、やがてそれは追悼式全体を包む合唱になっていく。歌われた曲の名前は『Don't look back in anger』。怒りの中で振り返るのはやめてくれ、というタイトルを持つその歌は世界で最も有名なロックバンド『オアシス』のノエル・ギャラガーによって1995年に書かれ、「イギリスの第二国歌」とまで言われるほど人々に深く浸透した曲である。

 この曲はあまりにも多くの文脈を持っている。この追悼式の後、ライブがテロ事件の標的となった、アリアナ・グランデが追悼コンサートでコールドプレイとともに再びこの曲を歌ったこと、イントロのピアノがジョン・レノンの『イマジン』にそっくりであること、「俺は自分のベッドから革命を始めるよ」という歌詞、そうした無数の批評や考察に対して、当のノエル・ギャラガーが「意味など知らない、適当に書いただけだ」とおなじみの露悪的な態度で距離を置いていること、そうしたことを書いていくだけで記事の文字数が尽きてしまう。

 だがもちろん、人は多くの死者を出したテロの追悼式で意味のない歌を歌ったりはしない。20年以上も前に書かれた歌の中に、言葉にすることのできない深い意味を感じとるからこそ、伴奏もない場所で声を合わせて歌うのだ。

漫画『ルックバック』公開後にSNSで何が起きたのか

 そして『ルックバック』が発表された日が京都アニメーション放火事件の2019年7月18日の2年と1日後、2021年7月19日だったことから、この作品もまたオアシスの名曲と同じように、追悼の意味を重ねた物語なのではないかと読まれたのだ。

 だが同時にSNSでは、「事件をエンタメとして消費している」「作中の犯人が妄想にとりつかれる描写が、実際の事件と結び付けられ特定の属性に対する偏見を強化する」という批判も上がった。

 公平に言って、原作者も集英社も『ルックバック』を発表するにあたって、十分な配慮を重ねていたと思う。現実の事件のモチーフはそのまま使わず、原作者藤本タツキの姓を2つに分けた「藤野と京本」という2人の少女が、原作者の出身地や出身校をなぞる自伝的作品の形式に変換されている。

 その上でタイトルを引用しているオアシスの曲そのものが「テロを題材にした作品ではないが、観客がそこにメッセージを重ねることはできる」という文脈の中にある楽曲であり、そもそもそのタイトルが『Don't look back in anger』であることは「怒りに燃えて振り返るな」、つまり犯人やその属性に憎悪を向けることへの警告にもなっているからだ。

 では批判した側が無理解だったのか、という解釈もまた、当時を「怒りに染まって振り返る」断罪になってしまうだろう。個人的な記憶だが、「ジャンプ+」というオンラインメディアで143ページが一気に公開された2021年7月19日当時のSNSの状況は、作品への理解や事件への追悼という静かな感情以上に、藤本タツキという連載作家が突如としていくつもの社会的文脈を盛り込んだ中編を一気に発表した、その才気への熱狂が圧倒してしまっていた記憶がある。

 作品への絶賛はもちろん、藤本タツキのスタイルがいかに新しく、過去の作家にくらべ革新的であるかという優越性についての批評が圧倒的な数でシェアされ、彼が『ルックバック』で描いた取り返しのつかない喪失、失われたものへの悲しみや追悼をかき消すほどの大きさになっていた。今思えば奇妙なことだが公開直後のSNSは、作品の受容を作者への熱狂が圧倒してしまう現象が起きていたのだ。

 おそらくこうしたSNSの反響は、藤本タツキと編集部にとって想定外だったのではないかと思う。彼らは記事の冒頭にあげたマンチェスター追悼式での、伴奏のない場所で歌われた『Don't look back in anger』のような静かな作品の受容を読者に望み、そのために前述の配慮などもしていたのではないか。『ルックバック』のオンライン公開日を事件の当日ではなく1日後にずらしたのも、事件の起きた日に当事者への追悼と追憶を邪魔しないためと解釈できる。

 だが実際のSNSはその想定をこえ、熱狂的なサッカーチームのサポーターが勝利の凱旋歌として『Don't look back in anger』を歌うように(じっさいにこの歌はそうしたサポーター集団にもしばしば歌われる)藤本タツキという新しい文化的ヒーローの才能への賞賛で埋め尽くされていった。「事件の消費」「犯人の悪魔化」と言う批判はそうしたSNSでの熱狂、作者個人の意を超えた「神化」の空気に対する反発や防衛反応として発生し、そして「ポリコレか表現の自由か」という不毛な党派的対立の中に飲み込まれていった印象だ。

 長くなってしまったが、映画『ルックバック』について書く前に、こうした原作公開当時の個人的な記憶は(ここに書いたことは筆者の印象であり、もちろん別の解釈をする人もいるだろう)残しておきたかった。

映画版が再現する「人間が描く絵の生々しさ、魅力」

 映画公開によって3年前の論争が再燃するのではないかという筆者の懸念も杞憂に終わり、58分間にまとめられた映画『ルックバック』は静かに、しかし小さな公開規模から確実に支持を拡大している。原作のストーリーを忠実になぞりつつ、その中にアニメーションならではの驚くような仕掛けがいくつもある。

 たとえば原作にない冒頭のシーン、真夜中の部屋で藤野が学級新聞に載せる4コマ漫画を描いているシーンでは、机の上の黒い板に見えたものに藤野の顔が映ることによって、それが鏡であることが観客にわかる。アニメーションは、黒い四角に顔が映る絵の表現によって「その物体が鏡である」と観客の脳に定義する手法であることがそのシーンにはこめられている。

 また映画版のオリジナル演出として、藤野が学級新聞に描く4コマ漫画をアニメーション化して見せているのだが、実はその絵は原作の中の藤野の絵より少し稚拙に、「小学生にしては上手い絵」程度に描き直した上でアニメとして動かされている。井の中の蛙として自惚れていた藤野が登校拒否児童の京本の絵に打ちのめされ、必死で練習して上達するが京本にはどうしても及ばない、という成長プロセスそのものを「変化していく藤野の絵を作り手が描く」という手法で表現されているのだ。

 わずか58分間のアニメーションだが、こうした絵と演出の細部の技巧を数え上げればキリがない。藤本タツキの原作コミックが白と黒で描かれたシンプルな楽譜だとしたら、それを絵のオーケストラとして演奏するような広がりが映画版の『ルックバック』にはある。

 藤本タツキの絵柄をコピーするだけではなく、コマとコマの間にひろがる空白の時間を「藤本タツキならこう描くだろう、藤本タツキが描くこの年齢の藤野ならこういう絵を描くだろう」と二重三重に想像して線を描いていくような「感性のシミュレーション」がそこにはある。それは人間が人間を想像しながら描く手描きアニメの醍醐味だ。

 それはこの映画のパンフレットに掲載された原作者・藤本タツキとの対談の中で、監督・押山清高の「僕自身も絵描きなのでむず痒いですが、この作品が絵描きへの讃歌になってほしい」と言う言葉にも表れている。絵描きのエモーションをダイレクトに出すために原画をそのまま画面に映すという手法を説明しながら、押山監督は藤本タツキが一コマごとに絵柄を探りながら描いていると感じるところこそ、「そこが人間が描く絵の生々しさで、魅力なんです」と語る。

「人間が描く絵の生々しさ、魅力」という言葉は、単に『ルックバック』に関する藤本タツキや押山清高の手法だけではなく、日本のアニメ・マンガ文化の本質を表現しているように感じる。

 スタイルが厳格に統一されたディズニーに比べ、日本のアニメはアニメーターの個性が強烈に出るスタイルだ。「宮﨑走り」「金田パース」など伝説的アニメーターの名前を冠して呼ばれる絵は、それ自体を解釈し鑑賞する観客も含めたひとつの文化を形成してきた。

 絵が上手いと一言で言っても、宮崎駿の上手さと大友克洋の上手さ、鳥山明の上手さはすべてちがう。そうした「人間が描く絵の生々しさ」を感じ取ることができる観客、成熟した市場を国内に確立したことが、『ルックバック』の10億を超えてまだまだ軽々と伸びる興行収入は証明している。

「人間が絵を描き動かすアニメ」の復権

 ディズニーは21世紀に入り、時代は3DCGに移行すると見て手描きアニメーターを大量に解雇した。ネットには今も、2004年にディズニーがフロリダのアニメスタジオを閉鎖し、97年には2200人もいた才能あるアニメーターのほとんどを解雇したことを報じる記事が残っている。アニメの本場であるディズニーがそうなのだから、時代はCGに移行し、手描きアニメなどいずれ廃れていくのだ、という未来予想が当時はあった。

 だがそれから20年が経った2024年の今、宮﨑駿や新海誠のアニメーションは世界を席巻し、日本国内では空前のアニメ需要によって腕のいいアニメーターの争奪戦が起きている。宮﨑駿の最新作『君たちはどう生きるか』で、別のスタジオから引き抜かれる形で参加したアニメーターの本田雄が、「全編、手書きでやる」(『君たちはどう生きるか』企画書)という宮﨑駿のスタイルに惹かれたことを『文藝春秋』(2023年9月号)のインタビューで語っているのは象徴的だ。

 一度はスタジオを閉鎖したディズニーが2021年に少数ながら手描きアニメーターの育成募集を出した、という報道もあった。もう手描きアニメなど時代遅れだ、と言わんばかりに才能あるアニメーターたちを解雇した21世紀初頭のディズニーの経営判断とは裏腹に、「人間が絵を描き動かすアニメ」は今、明らかに復権しつつある。

〈「AIによってキレイな映像が簡単に作られるようになってきているから、こういう人間が描く線に活(い)きがあると思います。AIが人間のまねをして下描き線を再現したとしても、それはただのデザインになってしまう。それは偽物です。人間が描くからこそ意味がある線なんです。こういうことができるのは、今が最後かもしれないけど、それにこそ価値がある。」 MANTANWEB(ルックバック:AIでは表現できない線 人間が描く意味 押山清高監督インタビュー(2)) 〉

 これからは3DCGだ、とディズニーがアニメーターを解雇した21世紀初頭のように、これからは生成AIで絵が描かれ、手描きの絵などいらなくなるのだ、と叫ぶ人たちもいる。アニメーション映画が次々と巨大な興行収入を上げるのを見て巨大商社をはじめとする資本がアニメ制作に参入する報道が続くが、才能あるアニメーターたちは金だけでは引き抜けない。

 宮﨑駿から押山清高に至る、日本アニメの絵の才能の集積を生成AIでコピーして無断利用することができれば、代価を払わずに巨大な利益を上げられると夢見る企業もあるのだろう。だがおそらく、それでも人間が絵を描く文化、それを人間が見る文化はなくならないだろうと感じる。

絵を描くという「魂のスポーツ」

 押山監督がインタビューの中で語る言葉は、映画の内容とも深くリンクしている。映画の中で、小学生の藤野は学級新聞に掲載された京本の絵に出会い、衝撃を受ける。まだ顔も見たこともない登校拒否の同年代の少女をライバルとみなして猛練習を重ねる藤野の姿は、まるで絵を描くことで魂のスポーツをしているように見える。

 そしてこの「魂のスポーツ」の感覚は、映画パンフレットの中で「同い年の絵描きは気になってしまう」と語る藤本タツキはじめ、多くの絵描きが共有する感覚だ。

 おそらく人類の歴史上、今ほど多くの人間が絵を描く技術を持ち、そして絵を解釈する鑑賞眼を持った時代はなかったのではないかと思う。ほんの100年前なら日本人のほとんどは絵など描くひまもなく生存に追われていた。だが今は、何十万人と言う人間が絵を描き、何百万人が手元のスマートフォンでそれを見る時代がやってきたのだ。

 藤野が京本の絵に出会い衝撃を受けたように、絵を描くという行為は技術を競うスポーツであると同時に、巧拙や上下をこえて互いの心に触れる対話、視覚の共通言語でもある。今や絵を描くことはインターネットを通じて世界に広がり、はるか遠くの国の少女や少年を時には競うライバルとして、時には絵という共通言語で心を通わせる友人として結ぶ時代が来るかもしれない。『ルックバック』はそうした絵描きの大航海時代に、世界に向けて公開される「絵描き讃歌」となる。

若者たちへ贈る「絵描き讃歌」

 2024年7月、お茶と宇治のまち歴史公園に、京都アニメーションと関係者に寄贈された「志を繋ぐ碑」が設置された。「『志を繋ぐ碑』は、慰霊碑ではなく、本事件に関わったすべての人びとの志を繋ぎ、長く記憶に留める象徴として設置するものです。永くこの歴史公園で皆様に親しんでいただくためにも、献花やお供えはご遠慮いただきますようお願いいたします」と宇治市はホームページでアナウンスしている。

 映画パンフレットの中で原作者の藤本タツキは、自分が東北芸術工科大学に入学した年に東日本大震災があり入学が半年延びたこと、絵描きとしての無力感の中でボランティア活動をしたこと、それが『ルックバック』の底にあることを語っている。

 3年前に起きた社会的な事件のはるか前、2011年に藤本タツキという若い才能は、絵描きを殺す巨大な災害に出会っている。「何にもならないのに、なんで描いたんだろう」「藤野ちゃんはなんで描いてるの」という作品の中の問いかけは彼の中のものでもあり、今後の作品で答えていくテーマでもあるのだろう。

 映画『ルックバック』では、つなげるとオアシスの曲のタイトルになる仕掛けは演出から外されている。だが劇場で映画を見ながら静かに涙する若い世代の観客たちを見ながら、原作が公開された直後の熱狂と反発に荒れるSNSよりも、3年後に公開された映画を見る劇場の方が、マンチェスターの追悼式で静かに歌われた『Don't look back in anger』に近いと感じた。

 劇場でこの映画を見る若い観客たちの何人かは、絵を描いている、あるいはこれから描き始める若者たちかもしれない。絵描きを殺すのは、孤独な殺人者だけではない。戦争も、災害も、時には巨大な資本やテクノロジーも絵描きから絵を奪い、殺そうとする。そうした、絵描きを殺そうとする世界の中で新たに絵を描き始める若者たち、絵で世界と対話し始める若者たちにとって、『ルックバック』は過去への追悼であるだけではなく、未来への祝福をこめた作品になるだろう。

(CDB)

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