1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. スポーツ総合

《巡査部長に昇進》「1日8時間も机に向かうなんて人生で初めて」警察官に転身した大田阿斗里が語る、プロ野球選手と警察官の“意外な相性”

文春オンライン / 2024年8月24日 11時0分

《巡査部長に昇進》「1日8時間も机に向かうなんて人生で初めて」警察官に転身した大田阿斗里が語る、プロ野球選手と警察官の“意外な相性”

©文藝春秋 撮影・橋本篤

〈 「調子が悪いから二軍にいるんだろうなと思ったら」高2の夏に甲子園出場、ドラ3でプロ入りした大田阿斗里(34)が絶望した“2人のバッター”とは 〉から続く

 帝京高校からプロの世界に入り「自分は天才ではない」ことに気づかされたという大田阿斗里(34)。

 3年目に結婚して子供も生まれたが、4年目にはすでに脳裏に「戦力外」の文字がチラついていたという。

 そしてプロ最終年、マウンドでホームランを打たれて笑ってしまった“初めての心境”とは……。本人に話を聞いた。

▼▼▼

 意気揚々と乗り込んだプロの世界で洗礼を受けた太田阿斗里だったが、シーズン後半に入り一軍の機会を与えられ、先発登板も果たした。しかし、勝ち星はつかず、1年目を終えた。その後は1軍と2軍を行ったり来たりしながら、登板を重ねるも、1軍での勝利は遠かった。

 1軍初登板からの未勝利連続記録が歴代3位となる「10」にまで伸びてゆく。だが、6年目の13年にリリーフで登板した試合でついに初勝利を飾った。リリーフ登板であったため彼自身も勝利に気がつかず、周囲の仲間も「まだ勝っていなかったのか」という反応だった。

「実力でしかない。『運』の要素はなかったと思います」

 大田は「初勝利まで長かった」と話す。好投しても勝ち星につながらない不運もあったことだろう。

「いや、能力のある選手……たとえば山本由伸(現ドジャース)も高卒で入団した直後は、中継ぎや敗戦処理といった自分と同じような起用のされ方をしていましたが、キャリアを重ねて勝利して、先発の座を掴んでいったじゃないですか。自分は2軍では結果を残せても、1軍ではダメだということの繰り返しだった。初勝利まで6年もかかったのは自分の実力でしかない。『運』の要素はなかったと思います。1軍と2軍には大きな差がある。その差を埋めきることができませんでした」

 3年目に同い年の女性と結婚し、ふたりの子供に恵まれたが、プロとなって4年目の頃には「戦力外」の三文字が脳裏にチラつき始めていた。それは初勝利を飾っても変わらなかった。14年は右肩の痛みに悩まされるようになり、1軍登板がわずか3試合だった。

「痛みはあるけれども、投げようと思えば投げられる状態でした。トレーナーさんには伝えていましたが、球団やマスコミは知らなかったと思います。僕に限らず、誰もが何かしらのケガを抱えているものではないですか? 前の年(13年)が良かっただけに、『勝負の年』と位置づけていた自分には休むという選択肢はなかったです。もしその時に思い切って休んで、治療に専念していたら……と考えることはあります」

 翌15年はとうとう1軍登板が入団して初めてゼロになった。秋口に球団からの電話が入った時には、連絡の内容を自然と察した。

「そうなって初めて、もっと野球に時間を費やすことができたんじゃないか。もっとお酒を控えておけば良かったんじゃないか。そんなことが頭をよぎりました。もっと自分に制球力があれば勝負できたかもしれない。メンタル的に浮き沈みが激しかったので、精神的にもっと強ければ、1軍で活躍できたんじゃないか。そんなことは考えてしまいます」

 15年のトライアウト参加と翌16年のテスト参加によって、大田は1年間だけオリックスに在籍した。唯一の1軍登板だった東北楽天戦のことをよく覚えている。

「その時点の自分には目一杯のボールを投げて、2者連続のホームランを打たれたんです。マウンド上で、笑うなんてことは自分の野球人生では考えられないことだったんですけど、あの日の映像を見返すと笑っていたんですよね。あの瞬間、『もう引退かな』と思って、フッと力が抜けた瞬間があった。結果的にそれがプロ野球選手として最後の登板となりました」

 大田は年末年始に、母校の帝京の練習に顔を出すことを慣例にしていた。

「現役中は前田監督からも常に厳しい言葉をかけられていました。『このままで大丈夫なのか?』って。オリックスを戦力外になった時は、高校時代も含めて初めて『よくやったな』とお褒めの言葉をかけてくださいました。帝京で野球をやって、プロ野球選手になれて良かったと思いました」

「子供たちに野球をやっている姿を見せてほしい」という妻の言葉

「引退試合」となった2016年の12球団合同トライアウトから2カ月あまりの17年1月、妻からの一言によって、警視庁警察官の採用試験に臨むことを決めた。

「セカンドキャリアに関して、別に野球に携わる考えはありませんでした。というか、正直、引退を決めた直後のことって、あんまり記憶がないんです。覚えているのは妻の言葉ぐらい。まだ幼い子供たちのことを考えて、『警視庁でも野球をやって、子供たちに野球をやっている姿を見せてほしい』と。もちろん、公務員になれば生活が安定することも警察官を希望した理由のひとつでした」

 当時、大田は27歳だった。元プロ野球選手だからといって、合格が保証されるわけでもなければ、採点が優遇されるようなこともない。一般の受験生と立場は同じだ。

「採用試験にはいろいろな科目があり、憲法に関する科目や公務員特有の判断推理や数的処理といったものもあった。専門の予備校などもあるんですけど、お金がかかるので、今後の事を考えて独学で準備しました。1日、8時間ぐらい机に向かったことなんて人生で初めて。母親は僕が警察官を目指すことに驚いていました」

 元横浜DeNAの大田阿斗里は2017年に警視庁警察官となり、第四機動隊に配属されてからは硬式野球部にも所属した。アマチュア時代、プロ時代に続くいわば第3の野球人生のスタートだった。

「野球に変わりはなかったですね。クラブチームや大学生と練習試合もやるんです。子供の頃から野球をやってきて、チームプレーで培った協調性は警察官には不可欠ですし、全員が同じ方向を向かないと試合に勝てないのと一緒で、警察官も組織に属する者がみな同じ方向を向かないと務まらない。元プロ野球選手と警察官の相性はとても良いと思います。野球選手というか、スポーツ選手のセカンドキャリアとして、警察官は適していると思いますので、もっと警察官を希望する元アスリートが増えてほしいなって思います」

野球選手として2度目の引退を決めた理由

 機動隊員となって1年が経過した頃、大田はプロ時代から痛みのあった右肩の手術を決断する。

「警視庁第四機動隊の野球部には目標がある。都市対抗や全国クラブ野球選手権大会など、社会人の全国大会出場です。戦力として貢献できるよう、手術してもう一度、思いっきりボールを投げたかったんです」

 もうひとつの理由もあった。

「息子が野球を始めたので、息子としっかりキャッチボールをしたかったんです」

 大田は昨年の春の大会を最後に野球選手としても2度目の引退を決めた。

「休日に息子の練習に来て欲しいという声もあって。警視庁の野球と息子の野球とを天秤にかけたわけではないですし、行き場のなかった自分に再び野球をやる機会を与えてくれた警視庁の野球部に恩返ししたい気持ちはあるんですが、今は家族の時間を優先したかったんです」

 長男は今年、小学6年生になった。進路を考える時期でもある。

「やっぱり、期待しちゃいますよね。自分と同じ道を歩んでほしいとか、自分が活躍できなかったプロで活躍してほしいとか、そういうことはあまり考えないようにしています」

 現在は巡査部長への昇任を控え「留置管理第二課」に所属、警視庁本部や警察署、検察庁などを巡回し、被留置者を護送する任務にあたっている。

「いずれは生活安全部の少年育成課などで、青少年の育成にも携わってみたいんです」

 34歳になったかつての甲子園ヒーローは、屈託のない笑顔で将来の夢を口にした。

(柳川 悠二)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください