妻はこわい!? 『星の王子さま』作者の半生を綴った文庫小説『最終飛行』において、作家・佐藤賢一さんが見た規格外な夫婦の物語
文春オンライン / 2024年8月6日 11時0分
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人間味あふれるサン・テグジュペリの魅力に圧倒された小林エリカさんの解説、見逃せません!
老若男女から愛される世界的ベストセラー『 星の王子さま 』。この謎めいた終わり方をする小さな珠玉の物語は、いまだ多くの読者の心を摑んで離さない。その生みの親はフランス人作家のサン・テグジュペリ。歴史小説の第一人者であり直木賞作家・佐藤賢一さんの手により彼の半生を鮮やかに描いた小説『 最終飛行 』が今月、文庫化された。信念を貫き行動し続けた魅力あふれるテグジュペリだが、妻コンスエロとともに自由奔放で規格外の夫婦だったようだ。この点に着目した佐藤さんに、文庫化を記念して、本書に秘められたもう一つの興味深い物語についてご寄稿いただいた。
『星の王子さま』に登場する「バラ」とは何か?
サン・テグジュペリの『星の王子さま』には「バラ」が登場する。それは、どこからか飛んできた種が芽を出したものだ。とても美しい花が咲いたから、王子さまは水をやったり、風よけの衝立を立てたり、日が暮れたらガラスの覆いをかけてあげたり。不平や自慢話も聞いてあげた。それというのも断れば、花は王子さまを申し訳ない気持ちにさせるために、わざと咳をしてみせるからだ。「バラ」の我儘に嫌気がさして、王子さまは星を出ていく──と少し書いてみるだけで、この「バラ」は女性なのだと疑いもない。となれば、誰かモデルがいたのだろうかと、またぞろ気になってくる。
答えはコンスエロ・ドゥ・サン・テグジュペリ、作家アントワーヌ・ドゥ・サン・テグジュペリの妻である。中米エル・サルバドル生まれのラテン美女で、小柄で可愛らしかったコンスエロは、喘息持ちで、都合が悪くなると、こんこん咳をしてみせたというから、もう「バラ」のモデルで間違いない。
いや、違うという向きもある。モデルは別な女性なのだとか、そもそも「バラ」が象徴しているのは人間でなく、女性名詞で表される作家の祖国「ラ・フランス」なのだとか。いずれにせよコンスエロではないと、わけてもサン・テグジュペリの遺族、甥や姪の一族などは躍起に否定しているが、それでも「バラ」はコンスエロだとみるのが定説である。
コンスエロ自身が、そういっている。夫サン・テグジュペリとの日々を綴った、『バラの回想』という本を出しているのだ。自称して憚らない高慢も、「バラ」そのものじゃないかと、もう納得するしかない。
最後まで離婚しなかった夫婦
もとよりコンスエロは正式に結婚した妻だった。子供はできなかったが、サン・テグジュペリとは最後まで離婚していない。離れて暮らした時期もあったが、だからこそ『星の王子さま』の、王子さまが最後には「バラ」のもとに帰ろうとする件にも重なる。
実際、それは作者の実人生を予言したかのような場面だ。時代は第二次大戦中で、サン・テグジュペリは亡命していたアメリカ、ニューヨークにコンスエロを残して、ひとりヨーロッパの戦場に向かった。作家は飛行機乗りとしても知られるが、1944年7月、フランス空軍の偵察機で出撃して、そのまま亡くなっている。
〈「わかるよね。遠すぎるんだよ。ぼく、この体をもって帰るわけにはいかないんだ。重たすぎて」
(文春文庫『星の王子さま』倉橋由美子訳より)〉
そういって蛇に咬まれた王子と同じに、サン・テグジュペリの魂も自分の「バラ」のもとに帰っていったのだといえば、悲しくも美しく──まさに純愛を地で行く二人だったように思われるが、ちょっと待て。
ここで『星の王子さま』のファン心理を裏切るようで、何とも心苦しいのだが、実をいえばアントワーヌ・ドゥ・サン・テグジュペリは、一途な愛妻家といった判子をポンと押してやれるような男ではなかった。恋人というか、愛人というか、女性はコンスエロの他にもいた。それも沢山だ。いや、沢山なら、かえって救われるか。なかには「正妻」といえるような、多年にわたる関係を築いた相手もいた。ネリー・ドゥ・ヴォギュエといい、まあ、こちらも人妻ではあったのだが、愛人の死後には「ピエール・シュヴリエ」の男名前で、サン・テグジュペリの伝記を著している。未公開の手紙(自分がもらった手紙)なども引用して、やたらと詳しい(当たり前か)伝記であり、『バラの回想』と併せると、作家の私生活が全て明るみに出てしまう所以だが、さておきである。
妻の置き去り事件
サン・テグジュペリは純情一途な「星の王子さま」ではなかった。「バラ」の我儘に弱り果てて出ていったと、こんな一方的な書かれ方では、コンスエロも堪らないというものだ。もっとも、こちらも夫一筋という、いじらしい手合いではなく、やはり恋人、愛人の類は絶えなかった。サン・テグジュペリがヨーロッパで軍用機に乗っている間も、このときはスイスの作家で、夫の友人でもあるドニ・ドゥ・ルージュモンだったが、その男と手をつないで、ニューヨークの通りを楽しそうに歩いていたほどだ。
コンスエロにすれば、全ては夫に放っておかれたからということだろう。なにしろパリに暮らしていた戦争前から、もう別居生活だったのだ。サン・テグジュペリが厄介なのは、そのくせ妻に無関心ではなかったからだ。それどころか、やや常軌を逸したくらいの執着をみせるのだ。
一九四〇年五月、ドイツ軍がフランスに侵攻、パリにまで近づいていると聞くや、勤務の空軍基地から急ぎ車を飛ばして、そこにいるコンスエロにピレネの麓(ふもと)まで逃げろと諭す。きっと迎えにいくからとも約束したが、六月にフランスが降伏して、軍から復員なってからも、ネリーと逢瀬を楽しんだり、プロヴァンスの妹の家でのんびりしたり。
八月になって、ようやくピレネに行くが、まだ連れてはいけないと、コンスエロを山奥の寒村に追い返す。次が十月だったが、このとき求婚してくれた人がいるからと、離婚を切り出されてしまう。サン・テグジュペリは最後の食事をしようと誘った。相手の男には自分が電話しておくといいながら、実際はふりをしただけで、コンスエロには怒っていたよと嘘までついて、妻の再婚話をまんまと反故にしてしまう。
ピレネの麓から連れ出して、いよいよ大切にするのかと思いきや、僕はアメリカに行くことになったからと、コンスエロのことはプロヴァンスの芸術家村に置き去りにする。一九四二年一月だから、一年以上もたって、ようやくニューヨークに呼び寄せたが、遥々(はるばる)やってきたコンスエロに、一緒の家では暮らさないといいわたす。何の意味があるのか、同じ建物の上階と下階の部屋に分かれて、また別居生活である。今度こそ離婚したいと迫られるのも宜なるかなだが、やはりサン・テグジュペリは断固として応じない。コンスエロを思い留まらせるかわりといおうか、その夏から秋にかけて郊外ロングアイランドの別荘で一緒に暮らすことになり、そこで書かれたのが『星の王子さま』なのである。
作家、佐藤賢一が見た「妻のこわさ」
サン・テグジュペリときたら、本当に何がしたいのかわからない。コンスエロには自分の妻でいてほしい。そのくせ一緒にいることはできない。かげでは「魔女」などと呼んでいたともいい、どこかコンスエロを恐れる風さえ窺える。まあ、妻はこわいものなのだと平易にまとめられるなら、私も結婚二十五年目に入るので、かの大作家が俄に仲間に思えてくるが、サン・テグジュペリのほうは、何をいうか、きちんと読めと、『星の王子さま』のページを押しつけてくるかもしれない。
〈「肝心なことは目には見えない」と王子さまは忘れないように繰り返した。
「あんたのバラがあんたにとって大切なものになるのは、そのバラのためにあんたがかけた時間のためだ」
「ぼくがバラのためにかけた時間……」と王子さまは忘れないように繰り返した。
「人間というものはこの真理を忘れているんだ。だけど、忘れてはいけない。あんたは自分が飼いならしたものに対してどこまでも責任がある。あんたはあんたのバラに責任がある……」
「ぼくはぼくのバラに責任がある……」と王子さまは忘れないように繰り返した。
(文春文庫『星の王子さま』倉橋由美子訳より)〉
時間をかけた。だから責任がある。それが妻なる存在のこわさということなのか。
空を飛ぶことを渇望し続けた飛行士であり作家のサン・テグジュペリ。ナチスドイツの動向を探るべく愛する祖国フランスに偵察へ飛び立った後、彼が最後に見た光景とは――。ぜひ、傑作小説『 最終飛行 』をお楽しみください。
【佐藤賢一さんプロフィール】
1968年山形県鶴岡市生まれ。山形大学教育学部卒業後、東北大学大学院文学研究科で西洋史学を専攻。93年『ジャガーになった男』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。99年『王妃の離婚』で直木賞、2014年に『小説フランス革命』で毎日出版文化賞特別賞、23年に『チャンバラ』で中央公論文芸賞を受賞。主な作品に『双頭の鷲』『二人のガスコン』『黒い悪魔』『象牙色の賢者』『女信長』『新徴組』『開国の使者 ペリー遠征記』『ハンニバル戦争』『ファイト』『英仏百年戦争』『日蓮』『王の綽名』など。
(佐藤 賢一/文春文庫)
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