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《東大VS京大》「きっかけは弁論部同士のいさかい…」東大が京都大学を激怒させた「合同演説会中止事件」

文春オンライン / 2024年8月7日 11時0分

《東大VS京大》「きっかけは弁論部同士のいさかい…」東大が京都大学を激怒させた「合同演説会中止事件」

 東大が京大にしつこく謝罪することになった「合同演説会中止事件」とはいったい? ©getty

 東大と競い合い、ともに成長するライバルとしての役割を期待されて設立された京都大学。そこから生じた対抗意識が、ある事件に発展した過去も…。東大が京大を激怒させ、謝罪にまで至った「1924年の合同演説会中止事件」を、甲南大学の尾原宏之教授の新刊 『「反・東大」の思想史』 (新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/ 後編を読む )

◆◆◆

東大と京大の対抗戦

 現代において、京大は日本でノーベル賞最多受賞者数を誇る大学であり、東大に対するむき出しのライバル意識やコンプレックスを示すエピソードはあまり耳にしない。むしろ、東大の下に蝟集する首都圏の大学群をよそ目に、東大とは別の高峰として屹立しているというのが一般的イメージではないだろうか。だが、戦前には東大への強烈な対抗意識を丸出しにした局面があったことを、ここで指摘しておいてもよいであろう。

 1924年、東大・京大あげての交流行事である「東西両帝国大学対抗運動週間」がスタートした。秋の「運動週間」(「スポーツウイーク」)に、東西の帝大運動部の対抗試合を一斉開催する、というイベントである。以前から各部単体での対抗試合はあったが、柔道・剣道・弓術・陸上競技・テニス・野球の試合を一大会で実施するのははじめてだった。第二回目からは、馬術、水泳、サッカーなども加わった(谷本宗生「東西両帝国大学対抗運動週間の実施について」)。

 東大の『帝国大学新聞』は、これを「我運動界未曾有の企」と自画自賛した(1924年10月24日)。東大と京大が交互にホストを務めることになっており、第一回は10月24日から3日間、京都で開催された。

 この大イベントは、「東西学友会連合大会」とも呼ばれた。両大学の「学友会」は、沿革や規約に違いはあるものの、文化系団体を含む全学組織である。運動部の試合だけでなく、弁論部による合同演説会、音楽部による合同演奏会も開かれた。まさに文武両面にわたる東西帝国大学の対抗戦といえる。

 両大学の学生が入り交じっての宴会も盛大に催された。東大の『帝国大学新聞』、京大の『京都帝国大学新聞』両紙とも、好敵手に対する尊敬と親愛の情を十二分に表現しつつ、力を入れてこれらの模様を報じた。そもそも『京都帝国大学新聞』は、この「運動週間」を機に創刊された新聞であった(『京都大学新聞縮刷版』)。

 ところが、「運動週間」によって強固になるはずの両大学の関係に、すぐ亀裂が入った。

 きっかけは、1925年に東京で開催された第二回「運動週間」のオープニングイベント、東大弁論部と京大講演部の合同演説会である。

 合同演説会は、「運動週間」初日の10月16日午後6時に始まる予定だった。会場はこの年落成したばかりの東大安田講堂で、講壇の両側には「ロイドジヨーヂ、ウイルソン、クレマンソー 東法 掛札弘君」などと演題が掲げられていたという。演者は、東大生3人と京大生が2人、最後に京大法学部教授で講演部長の宮本英雄(のち瀧川事件の際の法学部長)が「自己に帰りて」という演説を行って閉会となるはずだった。

 安田講堂には大勢の聴衆が集まったが、開会時刻になっても演説会は始まらない。30分がすぎ、1時間がすぎ、聴衆は開会を求めて拍手を打ち鳴らし、叫び声をあげた。

 開会予定時刻から約2時間が経過した頃、古在由直東大総長、東大の教授、学友会中央部委員、東大弁論部、京大講演部の面々が姿をあらわした。しかし結局演説会は始まらず、かわりに京大講演部員による東大弁論部の糾弾が始まり、激昂した聴衆によって大混乱のうちに中止が宣言される事態になった。

合同演説会中止事件

 この合同演説会をめぐって、東大弁論部と京大講演部の間には紛争が発生していた。実にささいで馬鹿馬鹿しい紛争である。演説会に学生だけのチームで出場するのか、教授を入れたチームで出場するのか、連絡ミスがあったのである。

 京大側は、東大側との打ち合わせで決まった学生2人+教授1人のチーム編成で上京した。一方、東大側は、当初は京大側が学生3人のチームを希望していたので急遽それを受け入れることにし、電報でその旨を京大側に通知して、学生3人のチームを編成して待っていた。

 ところが、何らかの行き違いでその電報は京大チームの手に渡らなかった。その結果、学生3人の東大チームと学生2人+教授1人の京大チームが弁論を競うことになり、釣り合いのとれない対決になってしまった。

 ただの連絡ミスなので、普通なら笑い話で済みそうである。しかも東大側は、学生同士の対決を希望していた京大側に合わせるため、当初出演予定だった穂積重遠東大教授に陳謝して取りやめてもらっている。京大側に配慮しての急な変更だったのである。

 東大側は学生3人で、京大側は学生2人と講演部長の宮本英雄教授で演説すればいいだけの話なのだが、なぜ糾弾騒動に発展するのか。実は京大側にとって、これはメンツに関わる重大問題だった。要するに、京大側が教授を出すのに東大側が出さないのは釣り合いがとれない、ということである。宮本教授は「東大側より教授が出演されぬなら自分一人出るわけにはゆかぬ」と出演を拒絶した。宮本の意向を聞くや、京大の学生の態度も硬化し、部長が出ないのに自分たちが出るわけにはいかないと、断固出演拒絶に方針転換したのである。

 演説会を成立させるには東大教授に出演してもらうしかない。ところが当初依頼していた穂積はすでに予定が埋まっていた。東大弁論部長は野村淳治法学部教授だから、野村に依頼すればよいのだが、不幸は重なるもので、野村はちょうどその前日に安田講堂の使用をめぐって古在総長と対立、部長辞任を表明したばかりであった(加藤諭「戦前・戦時期における東京帝国大学の安田講堂利用と式典催事」)。京大の宮本に釣り合う東大教授を出演させることができなかったのである。

東大側は即座に謝罪したが…

 あらゆる譲歩を覚悟したホストの東大弁論部は、開会時刻の1時間前、最後の交渉に臨んだ。

 すると京大側は「陳謝」をすれば再考してもよいという。東大側は即座に謝罪し、それを受けて京大側は長い協議に入った。結果、聴衆の面前で東大側が京大側に謝罪することなどを条件に、学生2人のみの出演を承諾した。このような交渉と協議によって、開会時間を二時間もオーバーしてしまったのである。

 なんとしても演説会を成立させたい東大側は京大側の要求を丸呑みし、壇上から遅延についての説明と京大への謝罪を行った。だが、前述の通り京大側は壇上で強い不満を表明し、最終的には出演を拒絶して退場してしまう。『京都帝国大学新聞』によれば、東大側の「陳謝」が徹底していないこと、遅延の責任を古在総長に押しつけようとする態度が見られたことなどが理由だという(10月22日)。

 つまり、京大側は東大側に対してしつこく何度も謝罪を要求し、謝罪したら今度は態度が悪いと責め立て、最後は怒って立ち去ってしまったことになる(『帝国大学新聞』11月2日)。

 ここまで京大側が激怒した理由はなんだろうか。

〈 京大激怒→東大が謝罪して収まったかに見えたが…「合同演説会中止事件」がその後もこじれにこじれた理由 〉へ続く

(尾原 宏之/Webオリジナル(外部転載))

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