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「え? 掘られたんですか? あの隧道を?」現地住民への聞き込みで初めてわかった“世にも不思議な隧道”が建設された“納得のいきさつ”

文春オンライン / 2024年8月21日 6時10分

「え? 掘られたんですか? あの隧道を?」現地住民への聞き込みで初めてわかった“世にも不思議な隧道”が建設された“納得のいきさつ”

お話を聞いた亀喜さん

〈 内部にはナゾの屋根、通り抜けた先は行き止まり…石川県七尾市の集落にポツンとある“独特すぎる隧道”を訪れてみた 〉から続く

 石川県七尾市に位置する此ノ木隧道(ずいどう)。人や車両の往来も少なく、トンネルを抜けた先は行き止まりになっている。この不思議な隧道はいったい誰がどのような目的で掘ったのか。記録が残っていないことまでは突き止めたられたが、その理由がわからず、気になって仕方ない。

 ここからは、現地の方への聞き込みを行ったもようを紹介していく。

◆◆◆

「おれが造った、立ち上げからずっと。17、18歳の時に」

 何度見ても素敵な此ノ木隧道だが、今回の訪問の主目的は隧道が掘られた理由の解明。ゆえに情報を見つけなければならない。記録が残っていないとすれば、人に話を聞くしかない。完成が昭和35年なので、ギリギリ当時を知る人がいるかもしれない。

 そう考えながら集落に戻ると、ちょうど道端に、いかにも昔のことを知っていそうな男性が立っていたので、声をかけた。

「この先にある此ノ木隧道のことを調べてまして。隧道のことはご存知でしょうか」

「もう60年前になるかな。畑に行くための道やね。その工事しとったんやけど」

「え? 掘られたんですか? あの隧道を」

「おれが造った、立ち上げからずっと。17、18歳の時に」

 なんと、最初に声をかけた方が、此ノ木隧道を掘ったという方だった。計画の立ち上げから隧道の完成まで、全てに関わったという亀喜勲さん(82)に詳しく話を聞く。

 亀喜さんによると、当時、山の一部が農地になっており、集落から畑に行く道がほしいということになった。そこで、地域の住民だけで隧道を掘ったというのだ。各家ごとに作業を分担して、割り当てられた作業を行った。報酬をもらった記憶はなく、今でいうボランティアだったそうだ。

 隧道の手前までレールを敷き、手押しトロッコで掘った土を運んだ。運び出した土を利用し、集落から隧道に繋がる道も造ったという。専用の道具はなく、農家だった家にあるショベルやクワを使って作業した。完成までに2年ほどを要したという。

 道を造るというのは容易ではなく、こんな秘話も教えてくれた。

 当初は隧道を造る計画ではなく、山を完全に切り開き、切り通しにする予定だった。道を掘り進めるうちに山の上の方まで削らないといけなくなるので、どんどん大変になっていった。みんな楽したいから下の方ばっかり掘るようになり、完成したときには隧道になっていたのだという。

 この話に、私は衝撃を受けた。切り通しの計画が、道を造っているうちに隧道になってしまったというのだ。現代の道路では、まず考えられないことだ。

当時のことを知る人の証言により謎は解けた

 また、隧道内にある東屋のような覆道というか屋根についても聞いてみた。

 隧道が完成した当時は素掘りのままで、屋根はなかった。雨が降ると砂や小石が落ちてきて、子供も通るので安全対策が必要となった。屋根は住民で造ったのではなく、地元の業者に頼んだ。なるべく経費を抑えつつ安全対策ができるように知恵を絞った結果、材木を使い、造り慣れている屋根の形にした。して、あの独特な状態になったという訳だ。材木は経年劣化するため、ここ60年ほどで3回、木の入れ替えなどが行われているという。

 今では畑もなくなり、通行する人はめっきりと減ってしまった。それでも“大切な地域の道”として、住民たちの手で維持され続けている。なんとも素敵な話だった。

 最後に、亀喜さん以外に此ノ木隧道のことを知る人がいないか聞いてみた。すると、もうみんないなくなってしまい、私(亀喜さん)ただ一人ではないか、とのことだった。この日、私が最初に話しかけた人が亀喜さんだったとは……。あまりにも幸運すぎる。一生分の運を使い果たしてしまったかもしれない。

 隧道を自ら掘ったという方と直接お話しできたのは、私にとってかけがえのない経験になった。記録に残らない地域の道の歴史やエピソードは、直接お聞きするしかないということを改めて実感した。

 後日、私は3度目となる此ノ木隧道訪問を敢行した。

 隧道を見るためというより、亀喜さんにお会いしたかったからだ。事前に連絡せず突然訪れるかたちだったため「会えたらラッキー」と思っていたが、無事に岐阜のお土産を渡すことができた。亀喜さんからは、採ったばかりのイチジクをいただいた。亀喜さんの息子さんご夫婦は、私と同じく岐阜にお住まいなのだという。隧道が結んだ不思議なご縁は、今後も続きそうだ。

 今年元日に能登半島を大地震が襲った際も、真っ先に亀喜さんのことが頭に浮かんだ。その後、現地取材で能登半島を訪れこそしたが、連絡するのはかえって迷惑かと思い、何ヶ月も経ってから連絡した。亀喜さんが暮らす集落では、建物に被害があったものの、人的被害はなかったという。亀喜さんのお宅も、屋根などが損傷して大変だとおっしゃっていたが、勲さん含めて怪我をされた方はいなかったということで、安堵した。

 亀喜さんは、同じ能登半島でもより大きな被害があった輪島や珠洲のことを憂いておられた。

「それに比べたら…」と言いながら、7ヶ月が経った今でもなかなか進まぬ復興作業のなかで「何とかやってます」とおっしゃっていた。

 被災された多くの方々が、1日でも早く日常を取り戻せることを願っている。

(鹿取 茂雄)

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