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東京五輪で銅→引退&結婚→1歳娘の育児生活…“クライミング界の女王”野口啓代(35)が今でも“壁”を登る理由「今の子供たちは木登りもできないから…」

文春オンライン / 2024年8月7日 11時0分

東京五輪で銅→引退&結婚→1歳娘の育児生活…“クライミング界の女王”野口啓代(35)が今でも“壁”を登る理由「今の子供たちは木登りもできないから…」

野口啓代さん ©松本輝一/文藝春秋

 ボルダリングW杯で年間総合優勝を4度達成するなど数多の記録を樹立し、東京五輪では銅メダルを獲得した野口啓代さん(35)。ときに“女王”とも呼ばれる彼女は、日本のスポーツクライミング界を切り開いてきた存在だ。

「練習場所もスポンサーの協力もなかった」という黎明期、現役最後の試合となった東京五輪にかけた思い、そして今後の展望とは? 現在は1児の母であり、プロフリークライマーとして活動する野口さんに話を聞いた。(全2回の1回目/ つづきを読む )

◆ ◆ ◆

育児や夫のサポート、仕事の合間を縫ってトレーニング

――東京五輪のスポーツクライミングで銅メダルを獲得し、その直後に引退されました。今はどのような活動をされているのですか。

野口啓代さん(以下、野口) 引退してまもなく結婚し、今は1歳を過ぎた娘がいます。乳幼児の頃は手が離せず、夫(※スポーツクライミングの楢﨑智亜選手)のサポートと娘の育児で精一杯でしたけど、この4月から保育園に通っているので、平日の昼間は仕事や自分のトレーニングができるようになりました。

――現役時代と何ら変わらない姿です。実際にクライミングもされているのですか。

野口 妊娠中はすごい体重増えちゃって。12kgくらい。でも出産してから2週間くらいで体重は元に戻りましたね。それでも筋力は落ちてしまったので、ウォールの上まで登って飛び降りられるようになるまで半年くらいかかりました。

 もう五輪や世界選手権に出場することはないですが、プロフリークライマーとしてイベント、実技指導、講演などのお仕事もいただくので、体は今でも現役時代のように鍛えています。

 実家(茨城県)の敷地内にウォールがあるので、登りたいと思えばいつでも。とは言っても、育児や夫のサポート、仕事の合間を縫ってやるしかないので、ちゃんとできるのは週2回ぐらいです。

心置きなく練習できる場所が限られていた

 施設が完成したのは2年前の春です。私たち日本代表が東京五輪に向け、集中して練習する場所が欲しかったので、当時のスポンサーさんと父が協力して作ってくれたんです。それまでは心置きなく練習できる場所が日本では限られていたので。

 今では夫のメインの練習場所になっていますね。智亜と弟の明智やパリ五輪女子代表の森秋彩選手らが時折、練習場として使ってくれています。ボルダリング、リード、スピードの壁はどれも国際大会が開催できるような規模なのですが、実家の敷地でもあるし、一般開放するというわけにはいかなくて。

クライミングの練習ができる場所はほとんどなかった

――スポーツクライミングは今や都市型スポーツとして若者中心に人気が急上昇。現役時代の野口さんの足跡とクライミングの人気は、轍(わだち)を一つにしているように思います。

野口 そう言っていただけると嬉しいですね。たしかに私が競技を始めた頃は、スポーツクライミングのことを多くの人が知らなかったし、練習場もほとんどなかった。

 クライミングの楽しさを知ったのは小学5年生。たまたま家族旅行で行ったグアムのショッピングモールにクライミングウォールがあった。登ってみたら楽しくて……。日本でもやりたくて父に施設を探してもらったけど近所にはなく、土日に車で1~2時間かけて、東京・錦糸町やつくば市の施設に父に連れて行ってもらっていました。

 そのうち、毎週遠出する時間がもったいないと、当時牧場を経営していた父が、牛舎の一角を改造しクライミングの壁を作ってくれたんです。それから毎日のように、学校から帰るとすぐ壁に向かっていましたね。

「クライミングって何?」学校のみんなの反応

――小学校6年の時に出場した全日本ユース選手権で、中高校生に交じり優勝。天才少女と騒がれました。

野口 いやいや、出場する選手が少なかっただけ(笑)。クライミング人口が極端に少ない時代ですから。でも、それまで遊び感覚でやっていたのに、勝つ喜びを知ってからはますます夢中になりましたね。中学時代には日本代表として世界ユース選手権にも出場。でも、クライミングをやっているとは友達にも言っていませんでした。

 高校1年の時に世界選手権のリード種目で3位になり、校長先生が結果を朝会で報告してくれたんです。するとみんな「そんなことやってたの!」と驚きつつも「でも、クライミングって何?」みたいな反応でした(笑)。

 日本人女子で初めてW杯に優勝した大学1年の時に、自分の将来について結構悩みました。それまでクライミングは趣味の延長だったけど、世界を舞台に戦うにはそれ相応の覚悟が必要。当時はプロで活躍する先輩もいなかったし、競技に専念するためにプロになっても活動の仕方も分からない。分からないけど、とにかくやってみようと大学を中退しました。

協会からの援助もなく遠征費はアルバイトで稼いでいた

――スポンサーや協会の支援はすぐに得られたんですか。

野口 いいえ。当時はクライミングの知名度はほとんどなかったし、海外遠征の援助もありませんでした。だから、遠征費はアルバイトで稼いだり、足りない部分は父に援助してもらったり。航空券や宿泊先のホテルも自分で手配していました。

 でも、一番気を使ったのが出場のエントリーシートを書くとき。全部英語だし、その頃の私は英語もさほど得意でもなかったから、会場に着いて「書類の不備で出場できません」と言われたらどうしようと、試合のたびにドキドキでした。空港から会場に向かう時も、本当にこの道でいいのか、この電車で間違ってないかと緊張しっぱなし。だから試合が一番気持ちが楽でした(笑)。

選手代表でプレゼンも。東京五輪で絶対にメダルを獲りたかった

――手探り状態で活動していたにも関わらず、W杯で21勝、年間総合チャンピオンには4度輝き、「クライミング界の女王」と言われるまでになりました。

野口 ただ楽しいという思いでやってきただけなんですが、東京五輪でクライミングが正式種目に決まってからは、クライミングという競技をいかに多くの人に知ってもらうかに意識が向きましたね。

 クライミングが東京五輪で正式競技になるかどうかの国際会議の時、選手代表でプレゼンさせていただいたんです。その責任もあって、いかにしてこの競技の面白さを多くの人に伝えられるかを考えるようになりました。

 それには東京でまずメダルを獲ること。初めての五輪、自国開催。コロナ禍で無観客という特殊な環境だったけど、メダルを獲るために「掴んだ突起は絶対に放さない」という思いだけで登っていました。

――見事銅メダルを獲得し、その強さを証明しました。最初で最後の五輪となりましたが、現役引退については悩まれましたか。

野口 「もう少し長く続ければよかった」とはまったく思わないですね。むしろ長くやったなって(笑)。ただ、「もっと早くクライミングが五輪競技になっていたら、何回出られたんだろう」とは思います。私が19~20歳くらいの時に出場していたら、絶対金メダルを獲れたのにな、とも。でもそれは本当に巡り合わせで、自国開催の五輪が引退試合になったことは、今でもすごく喜ばしいです。

 今は、クライミングの普及活動に集中しようと思っています。ユースの育成もやっていきたいですね。

全国に20か所ぐらいだった施設が今は800ほどに

――ほんの10年ぐらいまで街にクライミング施設がほとんどなかったのに、今は大分見かけるようになりました。

野口 私が夢中に取り組んでいた頃は、全国に20か所ぐらいだったけど今は800施設ほど。東京五輪前後から急速に増えた感じでしたが、でもまだまだ足りない。

 クライミングって一般の人が楽しんだり、体を動かしたりするためにはとても適したスポーツなんですよ。自分の体力に合わせて壁を選べますし、自分の体の現在地を知ることができる。脚力に比べて腕の力が弱いとか、左右のバランスが取れていないとか。

 わたしは小さなころから木登りが好きで、そこからクライミングにも親しみを持ちました。でも今、都市部の子供たちは木登りも出来ない。子どものスポーツ離れや運動能力低下が指摘されていますが、公園の遊具も少なくなってきているし、学校にはジャングルジムもない。

 それに夏場は暑くて外では遊べないけど、スポーツクライミングだったら室内で出来るし、何より楽しい。事実、東京都港区では全ての小学校と幼稚園にスポーツクライミングの一つの「ボルダリング」を設置するそうです。

 私はいずれ、野球やサッカーと同じように、クライミングを小中高校で部活動としてやれるようにしたい。そんな日常に溶け込んだスポーツにしたいんです。

人生のすべてを教えてくれたクライミングに恩返しがしたい

――セカンドキャリアでも相変わらずの獣道。引退してもなお、どうしてそれほどスポーツクライミングに情熱を捧げられるのですか。

野口 私の人生はすべてクライミングに教えてもらいましたから。壁の厳しさも、壁を破る快感も。伴侶にも出会わせてもらった。だから恩返しがしたいんです。

 今の段階で公にしていいかどうか分からないけど、地元の龍ケ崎市をスポーツクライミングの街にできたらと思っています。これだけ世界で活躍できる選手が育っていても、国際大会ができるような大きな施設がまだ日本にないのが現状。それこそ五輪のためのトレーニングもできるような施設を作ることが一番大きな願望です。

 もちろんその傍にはスキルに合わせた壁も常設し、アスリートだけじゃなく初心者の方、子どもからお年寄りまで楽しめるようにする。そこでジュニアの育成も手掛けられたらと思っています。

 龍ケ崎市は都心から電車で1時間ほどですし、成田空港からも近いので、W杯や世界選手権を開催するにも適している。いずれ、育成に携わった選手たちがそこで開催される世界大会に出場するという未来を描くと、ますますやる気が沸いてきます。

〈 「彼は好き嫌いが激しいんです」「ゲームばっかり。安楽選手とも…」野口啓代(35)が語る夫・楢﨑智亜(28)の意外な私生活と“パリ五輪までの日々” 〉へ続く

(吉井 妙子)

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