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いろいろあった“オリンピックの最寄り駅”「千駄ヶ谷」の“語られない過去”に何があった?

文春オンライン / 2024年8月5日 6時0分

いろいろあった“オリンピックの最寄り駅”「千駄ヶ谷」の“語られない過去”に何があった?

いろいろあった“オリンピックの最寄り駅”「千駄ヶ谷」の“語られない過去”に何があった?

 パリオリンピックが、宴もたけなわである。日本人選手の活躍やら、開会式や選手村を巡るあれこれやら、やっぱりオリンピックは何かと話題に事欠かない。

 パリのオリンピックが話題になればなるほど、引き合いに出される機会が多くなるのは3年前。そういえば、東京でオリンピック、やっていましたね……。

 東京でのオリンピックは、コロナ禍での1年延期だとか無観客だとか開会式を巡るゴタゴタだとか、それどころか後になって露見した収賄のどろどろだとか、なんだかいろいろとミソがつきまくってしまった。ただ、少なくとも選手たちの熱戦の価値と、そうしたゴタゴタが関係ないということだけは間違いない。

 そして、その東京オリンピックのメインスタジアムになったのが、国立競技場だ。

 この国立競技場だって、建て替えを巡ってなんだかんだとこちらもいろいろとミソがついた。みなさん、ザハ案、覚えていますか?

 ともあれ、そんな国立競技場の最寄り駅のひとつが、JR千駄ケ谷駅である。

いろいろあった“オリンピックの最寄り駅”「千駄ヶ谷」の“語られない過去”に何があった?

 千駄ケ谷駅は、どうにも不思議な駅だと思う。国立競技場をはじめ、神宮球場や東京体育館といった大規模なスポーツ施設が駅の近くに目白押し。つまり、ひとときにとてつもないくらいのお客が押し寄せるということだ。

 なのに、千駄ケ谷駅に停まるのは、中央・総武線各駅停車、つまり黄色い帯の電車だけだ。オレンジの帯を巻いた中央線の快速電車は、脇目も振らずに千駄ケ谷駅のホームの脇を駆け抜けてゆく。

 もちろん、この辺りには他にも駅があって、都営地下鉄大江戸線の国立競技場駅や、少し離れたところの地下鉄銀座線の外苑前駅などがある。中央・総武線の信濃町駅からだって徒歩圏内だ。これらが互いに補い合うことで、大量のお客をさばくことができているのだろう。

 しかし、そうはいっても、である。国立競技場は二度にわたって聖火が灯った、いわば日本のスポーツの聖地である。その最寄り駅だというのに、なんだか扱いが小さすぎやしないか、と思うのだ。これはいったい、どういうわけだろう。そんなわけで、あの東京オリンピックから3年後の千駄ケ谷駅にやってきた。

駅前の一角にあった「日本史でおなじみのあの人たちの家」

 千駄ケ谷駅は、二度のオリンピックを経験している。1964年と2021年。ふたつのオリンピックにあわせて、駅もそれぞれリニューアルが行われている。

 2021年のオリンピックに際しては、駅舎そのものも大きく拡張され、ホーム幅も広げられて従来の1面2線から2面2線になった(ちなみに、このとき新設されたホームは1964年のオリンピックに合わせて臨時ホームとして設けられたものだ)。

 結局このリニューアルは、オリンピックが無観客だったことでなかば徒労に終わったのだが、いずれにしても千駄ケ谷駅は広々とした空間を持っている。けれど、取り立てて何かのイベントがあるわけでもない平日の昼下がり、千駄ケ谷駅で降りるお客はまばらだ。ハレの日のイベント時はともかく、日常的には広い通路やホームは若干持て余し気味なのではないかと思うくらいだ。

 そんな高架下の駅舎から改札を抜けると、小さな駅前広場が待っている。このあたりは線路に沿って首都高の高架も通っているから、その高架下を利用した駅前広場といったところだろうか。そして、駅前の向こう側、正面の横断歩道を渡った先には津田塾大学のキャンパスがあり、向かいには東京体育館だ。

 この駅前の一角には、戦時中まで徳川宗家の邸宅があった。あの大河ドラマの宮﨑あおいでおなじみ、天璋院篤姫が最期の時間を過ごしたのも千駄ヶ谷の徳川邸だ。明治になって天下を統べる立場ではなくなったものの、徳川宗家は数少ない公爵家のひとつ。その御邸宅があったということから、この町の“格”というものがうかがえる。

 いまはそんな徳川宗家の面影はなく、東京体育館の間を東に向かって抜けてゆくと、そのまま千駄ヶ谷から神宮外苑のスポーツゾーンへと突入する。

いちょう並木を横目に銅像だらけの街並みを歩く

 東京体育館と国立競技場の間には外苑西通りという南北の大通りが走り、国立競技場の東側には神宮外苑の聖徳記念絵画館。その前には猛暑の平日の真っ昼間から草野球に興じる人たちの姿が見られる軟式野球場が広がり、まっすぐ南の青山通りに向かって神宮外苑名物のいちょう並木が続いている。

 大学野球の聖地にして、東京ヤクルトスワローズの本拠地である、明治神宮野球場はその西側だ。神宮球場に隣接して青山通り側には秩父宮ラグビー場も並んでいる。その南側には伊藤忠の東京本社ビルもそびえ立つ。

 そして、神宮球場の目の前の、「スタジアム通り」という通りを渡った先、日本青年館の脇にあるのが「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」。日本オリンピック協会や日本スポーツ協会の本部が入る、いわば日本のスポーツ界の総本山。傍らには五輪のマークもあるし、嘉納治五郎や岸清一の像もある。

 さらに、国立競技場の外縁に沿って歩いて外苑西通りを辿ってゆくと、国立競技場の壁面には1964年の東京オリンピックでの金メダリストの名前が刻まれていた。他にも、ユニバーシアードや世界陸上の金メダリストも名を連ねる。まさに、このエリアは日本のスポーツにとって特別な場所なのだ。

 国立競技場の脇を南北に通る外苑西通りは、おおよそ渋谷区と新宿区の区境にあたる。厳密には外苑西通りではなく、国立競技場の敷地内に境界線が通っているのだが、これはもともとの区境を成していた渋谷川の流路だったからだ。

 国立競技場の南側には、都立明治公園という立派な名前の公園が広がり、その奥にはこれまたとてつもなく立派なマンションが建っている。

 明治公園という名前からは明治時代にできたのかな?などと思ってしまうが、オープンしたのはつい最近。もともとこの場所には、都営霞ヶ丘アパートという公営住宅が建っていた。1958年に旧国立競技場が建設されるのにあわせ、立ち退きを強いられた周辺住民のために建設されたという。

 その公営住宅も、新国立競技場の建設に際して取り壊されることになり、その跡地の一部が明治公園になった。こうしたエピソードからも、この一帯が歴史に翻弄されてきたということが感じられる。

よく聞く「神宮外苑」の知られざる“あのころ”

 ちなみに、千駄ケ谷駅近くのスポーツゾーンは、ひとまとめにして「神宮外苑」などと呼ばれたりする。が、実はいくつかのスポーツ施設のうち、神宮外苑に属するのは軟式野球場やテニスコート、線路沿いのスケートリンク、そして神宮球場くらい。

 国立競技場や秩父宮ラグビー場は、神宮外苑ではなく日本スポーツ振興センターが保有・管理している施設だ。

 ただし、国立競技場の敷地はもともと神宮外苑の一部で、古くは明治神宮外苑競技場が置かれていた。学徒出陣の壮行会の舞台になったのもこの競技場。戦後、明治神宮から国に移管されて、旧国立競技場が建てられた。

 また、秩父宮ラグビー場はもともと外苑ですらなく、戦前には女子学習院があった場所だ。戦後、ラグビー専用の競技場用地を探す中で、空襲で焼けていた女子学習院の敷地に白羽の矢が立った。

 賛否渦巻く神宮外苑の再開発が実現すれば、神宮球場と秩父宮ラグビー場の場所は入れ替わる。となれば、土地の所有者も入れ替わるのだろうか。まあ、このあたりはいささか複雑だし、いらぬ火の粉も飛んできそうなので、あまり深掘りはしないでおこう。

 そして、このあたりでスポーツゾーンから離れることにしよう。千駄ケ谷駅を玄関口とする千駄ヶ谷の町は、単に「スポーツの町ですね」などと片付けられるほど単純な町ではないのである。

オフィスビルの間からひとつ路地に入ると、風景がうってかわって…

 再び千駄ケ谷駅前に戻り、今度はスポーツゾーンとは反対の西側に向かって歩いてみようと思う。

 千駄ケ谷駅前から線路に沿って西に向かう道筋は、実に見事ないちょう並木になっている。首都高の外苑料金所と新宿方面を結ぶルートになっているのか、クルマの交通量はなかなかに多い。オフィスビルなども建ち並んでいるエリアで、人通りもそこそこだ。

 ただ、この道からひとつ南の路地に入ると、うってかわって静かな住宅地といった趣だ。その一角には、静謐さがよく似合う国立能楽堂。さらに南に分け入れば、千駄ヶ谷大通りと呼ばれる賑やかな道に出た。チェーン店はほとんどないが、味のある個人経営の飲食店が目立つ賑やかな通りだ。

 千駄ヶ谷大通りを進むと、鳩森八幡神社の鳥居が見えてくる。この五叉路が、“スポーツゾーンではないほうの”千駄ヶ谷の中心なのだろうか。鳩森八幡神社の裏手には将棋会館があり、将棋の町としての一面も持つ。さらに南に下ってゆけば、そのまま神宮前二丁目の商店街へと続く。

 アパレル関連の会社やギャラリー、スタジオなどもちらほらと建ち並ぶ、オシャレタウン・原宿近しを感じさせる町並みだ。それでいて神社やお寺もあるし、昔ながらの商店も目に付く。

 裏路地に入ると静かな住宅地。賑やかさと静けさ、新しさと古さ。そのどれもを兼ね備えているような、実に東京らしいエリアといっていい。千駄ケ谷駅は、本来ならばスポーツゾーンではなくこちら側の玄関口とするのが正しいのかもしれない。

どうして「千駄ヶ谷」は新宿側と渋谷側でここまで風景がちがう?

 もともと、千駄ケ谷駅の一帯は、渋谷川を境に新宿区側と渋谷区側でまったく異なる歴史を歩んできた。

 渋谷川(つまりいまでいう外苑西通り)東側は、明治に入って青山練兵場が置かれ、明治天皇が崩御すると葬場殿が置かれて大喪の礼が行われている。そして、大正時代に明治神宮の建設計画が進むと、青山練兵場跡地は民間からの献金によって神宮外苑として整備されていまに続いている。

 いっぽう、渋谷川以西の渋谷区側は、古くからの住宅地だ。青山練兵場から代々木・新宿方面を結ぶメインストリートが青山街道。いまの千駄ヶ谷大通りだ。青山街道沿いを中心に市街地が形作られ、さらに周囲には徳川宗家や鳥取藩主家池田家の邸宅なども建ち並ぶ。当時にしてみれば、都心から少し離れた郊外という立地が華族たちに好まれたのだろう。

 そういった華族の邸宅に加え、古くからの神社仏閣、青山街道沿いに生まれた市街地。これが、いまの千駄ヶ谷の町のルーツだ。

 そして、明治神宮が整備されると、外苑と内苑を結ぶ裏参道も設けられる。千駄ケ谷駅前から線路に沿って西に向かういちょう並木が、裏参道だ。往時は自動車道と歩道に加え、乗馬道もあったという。自動車道と歩道はいまも残っているけれど、乗馬道は首都高の高架下に埋もれている。

 神宮の内苑と外苑に挟まれた市街地。こうした立地のおかげか、戦後には繁華街的な要素も強めていく。一時期は連れ込み旅館が多数建ち並び、あまり風紀のよろしくない町というイメージも持たれていたそうだ。

 1964年のオリンピックに前後してそうしたイメージは払拭され、オリンピック後には隣接する原宿が流行の発信地になるにつれて、アパレルメーカーが多く集まるようになったのも、この町の特徴のひとつだ。

 こうして、いまに至って千駄ヶ谷は、スポーツゾーンと近代以降の“東京”を煮染めたような市街地という、ふたつの顔を持つようになった。町を歩くと、千駄ケ谷駅の東と西で、ふたつの顔はまったく見事に分かれていることが感じられる。わかりやすくいえば、再開発前と後、といったところだろうか。

渋谷区側の空を見上げて気づいた“あること”

 そして、このふたつの町を歩いて気がついたことがある。新宿区側のスポーツゾーンには、電柱がひとつもない。ところが、渋谷区側の住宅・商業ゾーンには道の端に電柱が並び、空中には電線が幾重にも横たわっているのだ。

 電線を地下に潜らせて無電柱化、というのは小池百合子都知事の公約のひとつだったような記憶がある。その是非やら公約の進捗をどうこう言うつもりはない。ただ、無電柱で道幅も広々としたスポーツゾーンより、電柱と電線が輻輳している千駄ヶ谷の商店街のほうが、どことなく人間味があって身近に感じられるのは、私だけだろうか。

写真=鼠入昌史

(鼠入 昌史)

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