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「サイパンを原爆で吹っ飛ばせば、本土爆撃は避けられる」原爆開発に焦る東條英機は科学者たちを恫喝した

文春オンライン / 2024年8月12日 6時0分

「サイパンを原爆で吹っ飛ばせば、本土爆撃は避けられる」原爆開発に焦る東條英機は科学者たちを恫喝した

東條英機 ©時事通信社

太平洋戦争中の日本で進められていた原爆開発計画を、昭和史研究家の保阪正康氏が検証する。原爆開発に焦る東條英機は、研究を担う仁科芳雄を恫喝するように急かしたという。

◆◆◆

サイパンを原爆で吹っ飛ばす

 昭和18年秋になると、戦局は明らかに日本不利に傾いた。この頃になると軍事指導者たちは科学技術に一縷の望みを託すようになる。新型兵器の開発と、効率的な兵器の量産体制を整えなければ米国に対抗できないと檄を飛ばす。

 昭和19年1月、政府は「戦時研究員服務心得」という5カ条の訓令を発表し、「科学技術者は研究室を戦場にすべし」と、科学者を戦争の下僕とするよう訴えた。その第4条には「主任戦時研究員は其の担当する研究課題の解決に付全責任を負荷せられるものなるを自覚し……」とあった。こうして叱咤すれば科学者が米国を負かす発明をしてくれるだろうという浅はかな見識だった。

 戦況が不利になるにつれ、陸軍上層部はさらに焦りを募らせる。仁科は当初月に2回、陸軍航空本部に「ニ号研究」の現状を報告書で提出していた。しかし航空本部の上級将校たちは、実験データが並ぶ報告書を見ても何も理解できない。地道な客観データの収集・分析が研究の基本であることを理解せず、ただ「ウラン爆弾ができるのか?」という結論だけを求めて製造を迫った。

 ついには首相の東條自らが仁科に直接連絡を取るようになった。仲介者を通じて二人は手紙のやりとりを続けた。だが、そこで何が語られたのか――それはいまだに謎である。

 東條が戦局を変えることができず、天皇からの信頼も失って権力の座から去ったのは、昭和19年7月18日である。

 その頃、陸軍兵器行政本部第8技術研究所の技術少佐・山本洋一(のちに日本大学教授)は、兵器行政本部長の菅晴次中将から「ウラン10キログラムを大至急集めよ」と命じられた。東京帝大理学部鉱物学科卒業の山本は、その意味を即座に理解した。「いよいよウラン爆弾を作るのか」。

 当時、山本は理研のニ号研究を知らなかったが、菅に確かめたところ、東條が「とにかくウランを集めろ」と、せっつくようにして菅に命じてきたというのだ。東條がウラン爆弾に最後の望みをかけていたことがよくわかる。

 山本は昭和50年代後半に、半身不随の身をおして、私の取材に丁寧に答えてくれた。

「サイパンを失うと、急にウランの話が持ち上がってきた。何が何でもウランを探せという。日本の原爆投下目標はサイパンだと、我々技術将校も上層部も知っていた。サイパンを原爆で吹っ飛ばしてしまえば、本土爆撃は避けられる。だから一刻も早くせよ、ということでした。陸軍の上層部は、そんなことが簡単にできると思っていたんだよ」

 山本は理研を訪問し、仁科に面会した。ところが仁科は「この研究は機密事項なので、陸軍でも管轄外の人には話せない」と言う。また、「なぜ兵器行政本部が動き始めたのか? 米国でウラン爆弾に成功したとの情報でも入ったのか?」と山本に質したという。それを聞いて山本は「ああ、仁科先生の研究はうまく行っていないのだな」との感触を持ったと話していた。

 山本は理研の職員らとともに、ウラン鉱探しに奔走する。そして、福島県石川町で微量のウランを含むペグマタイトという岩石が産出されるとの情報を得る。昭和20年春から近隣の中学生などが動員され、ペグマタイトの採掘が始まった。しかし、実験に必要な量を確保することなど、まったく不可能だった。

科学者を恫喝した軍人たち

 そうした客観的事実を、陸軍上層部は受け入れなかった。東條は科学者たちへの不満を周囲にぶつけている。秘書官だった赤松貞雄の『秘書官日記』にはこんな発言が記録されている。

「技術家は、九分九厘まで実験してからでないと、実際化しないことが多い。時の重要性を考えないから困ったものだ」「研究だけでは戦争に勝てない」

 東條の焦りはそのまま国策に反映する。調子のいい時には科学者などには見向きもしないのに、戦況が悪化すると、途端に「戦況を一変させる兵器を作れ」「軍の命令を聞けないのか」とわめき散らすのだ。

 東條の意を忖度した部下たちは、科学者たちに有形無形の圧力を加え始める。仁科研究室にも航空本部の将校が頻繁にやってきた。研究室にいた竹内柾(のちに横浜国立大学名誉教授)は、こう詰め寄られたことを憶えていた。

「理論があるならすぐに爆弾を作れるはずではないか。お前たちは皇国精神が足りない!」「お前たちはウソを言っている。研究がはかどらないと、ウソを言っているんだ!」

 将校らは研究室に常駐するようになり、仁科を恫喝するようにして急かした。仁科を慕う若い研究者らは憤りを感じる日々だったという。

 前出の竹内はこんなことを憶えている。昭和19年の春頃、竹内の部屋にやってきた仁科は「どうだ、できるか?」と低い声で聞いた。「できません」と竹内が答えると、仁科は表情を曇らせた。「しまった、親方に怒鳴られる」と竹内は思ったが、仁科は言葉をグッと呑み込み、「できるまでやりなさい」と静かに言って去って行ったという。

 仁科の本心はどこにあったのか。仁科は戦時中でも日本の研究レベルを低下させたくなかった。そのために、陸軍を利用してやろうという絵図を描いていたのではないか。さらに、才能ある若い学者たちを戦争で失いたくなかった。「頭脳の温存」のために、あえて大見得を切って見せる――仁科にはそんなずば抜けた度量があったように思う。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(保阪正康「 日本の地下水脈 日本の『原爆開発』秘話 」)。

〈 日本軍で「ウラン爆弾」研究した物理学者は終戦後、中国に渡った〈厚木と立川の基地から…〉 〉へ続く

(保阪 正康/文藝春秋 2023年4月号)

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