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7歳年下のトップアイドルと結婚…三浦友和72歳が「いい女房を選んだなとしみじみと感じた」時期とは?――2024年上半期 読まれた記事

文春オンライン / 2024年8月19日 11時0分

7歳年下のトップアイドルと結婚…三浦友和72歳が「いい女房を選んだなとしみじみと感じた」時期とは?――2024年上半期 読まれた記事

©文藝春秋

2024年上半期(1月~6月)、文春オンラインで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。ライフ部門の第2位は、こちら!(初公開日 2024/01/28)。

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 今年の米アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされたヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』では、役所広司演じる主人公が、東京でトイレ清掃員として働きながら淡々と日々を送るなかで、さまざまな人たちと接する。その演じ手には甲本雅裕、長井短、犬山イヌコ、片桐はいり(声のみの出演)、安藤玉恵、モロ師岡、田中泯などといった演技派、個性派俳優も多数含まれ、いずれも出演シーンはわずかながら、それぞれに違った味わいを感じさせる。そのなかにあって、ひときわ強い印象を残すのが三浦友和だ。

 映画も終わりがけに登場する三浦は、ひょんなことから遭遇した役所に、自らが抱えたある事情を打ち明ける。そして、このとき、彼が何気なく口にした一言をきっかけに、二人が宵闇のなか街灯の下で影踏みをする姿は、せつなくも微笑ましく感じられた。

『PERFECT DAYS』が直近の出演作となる三浦は、きょう1月28日、72歳の誕生日を迎えた。本作では、三浦と歌手・石川さゆり(主人公行きつけの居酒屋のママ役)の共演シーンもある。石川といえば、三浦の夫人である百恵さん=元歌手の山口百恵とは、かつての所属事務所が同じホリプロで、デビューしたのもほぼ同時期だ。年齢でいえば石川のほうが1歳上だが、山口がデビューからまもなくしてブレイクしたのに対し、石川が最初のヒットを飛ばすにはデビュー4年目の「津軽海峡・冬景色」まで待たねばならなかった。

トップアイドル・山口百恵との共演

 人気の面で山口の後塵を拝したという点は、その後彼女の夫となる三浦も同じである。二人は1974年にグリコのチョコレートのCMで初めて共演したのに続き、映画『伊豆の踊子』でも主演の山口の相手役を三浦が務めたが、当時15歳にしてすでに押しも押されもせぬトップアイドルだった彼女に対し、7歳上の彼はこれが映画初出演という無名の俳優にすぎなかった。

 じつはこのときの山口の相手役は一般公募により、一旦は現役の東大生に決まりかけていたという。だが、これに監督の西河克己が、少しでも演技経験がある者のほうがいいと異を唱え、ちょうどCMで彼女と共演しているのを見て三浦を推薦してくれたのだった。

『伊豆の踊子』は大ヒットし、以来、“友和・百恵”のコンビで文芸物、青春物の映画が12作つくられ、テレビドラマでも『赤い衝撃』をはじめたびたび共演した。三浦は後年、彼女との馴れ初めを振り返り、当時のアイドルは人が決めたものをやるというのが普通だったなかで、《彼女はきちんと、自分の『これは違う』と思うものを、ちゃんと主張していたんですね。当時、まだ十代の女の子なのに、そういうことを見てて、ああ、素晴らしいな、と思い始めたのが、恋愛感情が出てきて、恋愛関係になっていくきっかけになったのかもしれません》と明かしている(『週刊文春』2014年4月3日号)。

 山口に惹かれたのは、当時の三浦自身がなかなか自分を主張できなかったことの裏返しであったのかもしれない。そもそも彼が俳優の道に進んだのは、多分に成り行きのところがあった。

同級生は「伝説のロックスター」

 山梨出身の彼は、警官だった父親の転職にともない小学3年のとき東京に引っ越し、都立日野高校では忌野清志郎と同級生になる。清志郎は在学中よりのちに伝説となるバンド・RCサクセションを組み、プロのミュージシャンとして活動を始めていた。三浦も当時、バンドを組んでおり、RCのメンバーたちとつきあううち自分も音楽で食べていけるのではないかと思い、高校卒業後も大学には進まなかった。

 しかし、音楽の世界に入ったものの三浦はなかなか芽が出ず、それを見かねた当時の清志郎のマネージャーから勧められ、俳優の道に転じたのである。ドラマ『刑事くん』でデビューしたのは1971年、19歳のときだった。芸能界に入った当初は、何か楽しいことがあるかもと淡い期待もあったが、内実はそんなに楽しめる場所でもなく、いつでも辞めてやるという気持ちでいたという。そのあいだに山口との共演作がヒットし、純真な青年役の出演依頼が次々と舞い込んだ。本人も仕事の面白さにも目覚め、俳優として生きていくことに迷いはなくなっていく。

 しかし、正統派アイドルのような立ち位置にしだいに違和感を覚え始める。ちょうど70年代後半のこのころ、萩原健一や松田優作といった俳優がアウトローな役柄で人気を集めていた。三浦もまた彼らに憧れ、《本当は俺だって「あっち側」の精神を持っているんだけどなあ、でも、俺はキャラクター的に「あっち側」じゃないし、昔の仲間は笑っているだろうなあ。でも、ま、しょうがないやと諦めの境地でしたね》と、葛藤を抱いていたらしい(『婦人公論』2002年9月22日号)。

 それでも三浦は俳優としては恵まれた環境にあった。そのことに彼が気づいたのは、1980年に28歳で結婚してまもなく厳しい現実に直面してからだった。たしかに結婚後も、『西部警察PARTⅡ』(1982~83年)での沖田刑事役など当たり役はあったとはいえ、出演依頼は年を追うごとに減り、ドラマに主演してもすぐに番組が打ち切りになったりと不遇の時期が続くことになる。

32歳で長男誕生、育児に励むが…

 結婚してから4年後、32歳で長男(現・ミュージシャンの三浦祐太朗)を儲けると、おむつを替えたり風呂に入れたり、離乳食をつくって食べさせたりと、子育てに余念がなかった。三浦はのちに自伝で、当時の自分を、ジョン・レノンがオノ・ヨーコとのあいだに息子を儲けると音楽活動を休止して育児に専念したことになぞらえつつ、《ジョン・レノンと大きく違うのは、私はこの時期仕事がほとんどなくて、希望しなくても、時間がたくさんあったことです》と、やや自嘲気味に述懐している(『相性』小学館、2011年)。

 アイドルと呼ばれる年齢はとうにすぎ、かといって人生を語れるような大人でもない。ましてや司会やバラエティなど俳優以外の仕事ができるほど、自分は器用ではないという自覚もあった。何もかも中途半端で、三浦は俳優としての居場所を見失っていた。

 そのころの三浦のインタビューを読むと、《子供でもなけりゃ大人でもないし……。まァ、一般的に言われる青春物というものには向かなくなってくる年齢になっている》(『週刊文春』1982年10月14日号)だの、《余り生活臭のある役とか、人間性がどうのこうのってつきつめていくものになってくると、自分の技量としても無理だし、柄としても無理だし》(『キネマ旬報』1983年8月上旬号)だのと口にし、当人もあきらかに手詰まりを感じて忸怩たる思いでいたことがうかがえる。

「俳優業を続けていられなかったかもしれない」

 それでも、やがて転機が訪れる。当時映画界に新風を巻き起こしていた気鋭の監督・相米慎二から出演を依頼されたのだ。『台風クラブ』と題し、さまざまな不満を抱えた中学生を軸とするその作品は、三浦にとっては初めての低予算の単館上映の映画であり、その役どころもそれまで演じたことのない、大人の無責任ぶりを絵に描いたような教師の役であった。

 しかし、この役になぜ自分なのか、三浦にはいまひとつわからなかった。相米に訊いても「夢で見たんだ、いいじゃないか」とはぐらかされるばかり。いざ撮影に入ってからも、相米は、三浦が振り向くシーンで、その振り向き方が「いかにも三浦友和なんだよな」とだけ言い残して帰ってしまったことがあった。そのときは相米が何を言っているのかまったくわからなかったが、しばらくすると、自分がいままで「青春スター・三浦友和」というイメージに無意識のうちに縛られていたことに気づく。このことが彼に新たな扉を開かせた。自伝では次のように記している。

《この時に初めて、三浦友和という、実は不確かなものだったブランドの看板を下ろすことができた。きっと、相米監督に出会っていなかったら、今の自分はありません。俳優業を続けていられなかったかもしれない。それぐらい、大きな出会いでした》(『相性』)

「いい女房を選んだなと感じたのは、あの時期」

 1985年に公開された同作での演技が評価され、三浦は報知映画賞の助演男優賞を受賞している。これを機に制作現場での姿勢も変わった。《それからは視野も広がったというか、ホンをもらって自分の役だけを何とかすればいい、じゃなくて、クランクイン前に監督と意見を交換したり、アイデアを出して膨らませていく。作品づくりに参加してる一人なんだという意識が強くなりました》と後年振り返っている(『週刊文春』2011年12月1日号)。

 とはいえ、それから一気に仕事が増えたわけではなく、35歳のときに東京郊外に建てた自宅を手放して借家暮らしをすべきなのではないかと悩んだりもした。ただ、そのことを三浦のほうから百恵さんに話したことは一度もなく、彼女もおそらくそのことに気づいていたにもかかわらず、訊いてくることはなかったという。そもそも彼女は結婚してから三浦の仕事のことには一切触れずにきた。このときも妻がブレなかったことに彼はかなり救われたようだ。あるインタビューではこんなエピソードも明かしている。

《そんなときでも、うちの妻は腹が据わっていました。十万円なら十万円の生活、千円なら千円の生活をするだけだ、と言って。いい女房を選んだなとしみじみと感じたのは、あの時期でした》(『婦人公論』2014年11月22日号)

ようやく手にした平穏な日常

 このころはまた、芸能界を引退した百恵さんをなおも追うマスコミの取材攻勢がエスカレートしていた時期でもあった。長男と次男(現・俳優の三浦貴大)の出産、幼稚園の入園式や運動会など、ことあるごとに報道陣が押し寄せた。自宅の前を終日張り込まれることもあり、その恐怖たるや、のちに三浦が著書で、マスコミが《夏の海水浴客で賑わう海岸に放たれたジョーズのような存在に思えた》とたとえるほどであった(『被写体』マガジンハウス、1999年)。

 その後、マスコミとは話し合いを重ね、ようやく平穏な日常を獲得する。生活が落ち着いてからのインタビューでは、往時を振り返り、《百歩譲って僕らは仕方がないとしても、周囲の人に迷惑がかかることだけは避けなくてはいけない。だから夫婦で一致団結して、マスコミ攻勢と闘っていました。(中略)でも今になって思えば、共通の苦悩を抱え、協力体制で乗り切ったことで培った信頼関係というものが確実にあります》とも語っている(『婦人公論』前掲号)。

 もちろん、結果的にそうなったというだけで、過剰な取材攻勢のために三浦の家庭が崩壊していた可能性も十分にあり得ただろう。結局、それを乗り越えられたのは、もともと夫婦のあいだに互いを信じようという思いが強くあったからなのではないか。

俳優としての「円熟味」

 俳優としての三浦は、年齢を重ねるにつれて円熟味を増したという印象がある。いつしか日本映画には欠かせない俳優の一人と目され、映画賞も多数受賞している。役の幅も広がり、さまざまな映画やドラマに出演するようになった。映画でいえば『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)や『沈まぬ太陽』(2009年)のような大作の一方で、画期となった『台風クラブ』のような公開規模の小さな作品にも出演を続けている。

 一昨年(2022年)には、気鋭の映画監督・三宅唱の『ケイコ 目を澄ませて』にボクシングジムの会長役で出演、主演の岸井ゆきのが扮するろう者のボクサーと手話も使わずに心を通わせるさまを見事に演じてみせた。2022年度の『キネマ旬報』ベストテンでは、同作での演技が高く評価され、同年に公開された『線は、僕を描く』『グッバイ・クルエル・ワールド』とあわせて助演男優賞を受賞している。

 三宅唱は三浦の長男の祐太朗と同い年だが、三浦はたとえ監督が自分よりはるかに年下であっても、『台風クラブ』のときと変わらず、相手とのコミュニケーションを欠かさない。上記の受賞時のインタビューでは、《僕はどんな作品でも、インの前にやりとりさせていただくようにしています。現場に入ると時間がないし、他の方々に迷惑かけてもいけないので、事前にいろんなお話をさせていただいてから入るのが習慣化しているんですね》と語っている(『キネマ旬報』2023年2月下旬号)。

「あと14年で何ができるか」

 三浦は還暦をすぎたころから、「あと何年生きられるだろうか」「あと何年この仕事ができるだろうか」などと、自分に残された時間を考えるようになったという(『週刊新潮』2020年7月30日号)。2018年のインタビューでは、《だいたい先輩方を見ていると80代で亡くなる方が多いんですね。僕も80歳まであと14年。演じられるのはそれくらいかなあと漠然と思っていて、あと14年で何ができるか、どんな役を演じられるのかなって》と、自らの将来を見据えていた(『GALAC』2018年11月号)。

 ただ、具体的にやりたい役があるわけではない。彼に言わせると《俳優というのは受け身なんでね、三浦にどういう役をやらせたいと思われるかが勝負なんです》という(前掲)。これも、30代前半にそれまで自分を縛りつけていたイメージを解き放ってからというもの、さまざまな役を演じながら自信をつけていったからこその発言だろう。

(近藤 正高)

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