太平洋戦争最大の激戦地・ペリリュー島を死守した中川州男大佐の実像「中川大佐は実に細やかな人だった」
文春オンライン / 2024年8月11日 6時0分
![太平洋戦争最大の激戦地・ペリリュー島を死守した中川州男大佐の実像「中川大佐は実に細やかな人だった」](https://media.image.infoseek.co.jp/isnews/photos/bunshun/bunshun_72712_0-small.jpg)
写真はイメージ ©︎AFLO
太平洋戦争末期の1944年9月から約2カ月間行われたペリリュー島の戦い。激戦地となった島の守備隊指揮官だったのが、中川州男大佐である。米軍が「数日で落とせる」と見通していた島を、中川大佐は74日間もどのように守ったのか。ここでは 『ペリリュー玉砕 南洋のサムライ・中川州男の戦い』 (文春新書)より抜粋。中川大佐の周到な準備を辿る。(全2回の前編/ 続きを読む )
◆◆◆
手作業による掘削作業
こうしてペリリュー島では、地下複郭陣地を構築するための大規模な掘削作業が始まった。地下陣地はもちろん、道路の整備なども同時に進められた。
しかし、作業は困難を極めた。まず将兵たちを苦しめたのが、この島の気候である。パラオに向かう前、歩兵第二連隊が駐屯していた北満は極寒の地であった。かたやペリリュー島の最高気温は、三十度を軽く超える。さらに、地下洞窟内は高温多湿で、兵士たちの体力を容赦なく奪っていった。兵士たちは時に軍服を脱ぎ、ふんどし姿になって掘削作業にあたった。永井敬司さんが当時を振り返る。
「とにかく珊瑚が固いんです。本当に大変でしたよ。それでも毎日、昼夜兼行でチャンカン、チャンカンと少しずつ掘り進めていきました。時にはダイナマイトを使って、特に固い部分を吹っ飛ばしたりしました」
しかし、ダイナマイトは不足しがちで、掘削の大部分は手作業で進められたという。
こうした状況に鑑み、5月24日にはそれまでパラオ本島に駐留していた歩兵第15連隊の第3大隊がペリリュー島に移動。ペリリュー地区隊に編入され、中川の指揮下に入った。尾池隆さんはこう説明する。
「水戸の第2連隊だけでは足りないだろうということで、パラオ本島にいた私たちの連隊の中から1個大隊がペリリュー島に移動となりました」
尾池さんが属する第2大隊は、そのままパラオ本島に残った。
歩兵第15連隊第3大隊のペリリュー島到着と共に、中川はそれまで3つに分けていた区画を、東、西、南、北という四つの区分に改めた。さらに中川は、長い砂浜のある西地区を米軍の上陸地点と予測。飛行場のある南地区と共に、より堅牢な陣地を構築するよう指示を出した。
ペリリュー島に移動となった歩兵第15連隊第3大隊の大隊長であった中村準は、新たに携わるようになった陣地構築の軍務に関して、戦後にこう記している。
〈〈大隊は全力を挙げて陣地構築作業に没頭した。爆薬類は皆無。地質は珊瑚礁のためコンクリート以上の固さだ。灼熱の熱帯の太陽をまともに受ける炎天下、将兵は黙々と作業に従事した〉(『闘魂・ペリリュー島』)〉
進む陣地構築
ペリリュー島の人員はこうして増強されたが、それでも作業は難航した。そこで中川はパラオ本島の集団司令部に対し、さらなる応援部隊の派遣を要請。これを受けて、パラオ本島に駐屯していた歩兵第15連隊の福井義介連隊長は、第2大隊の一部などをペリリュー島に追加派遣し、作業を手伝わせることを決断した。歩兵第15連隊第二大隊の一兵士であった尾池隆さんも、応援部隊の一人となった。
「私もペリリュー島まで出向いて、陣地構築を手伝うようになりました。ペリリュー島までは船で2時間ほど。日帰りだったり、2泊くらいしたこともありました。あの島は固い岩が多いため、鶴嘴がなかなか通らなくて本当に大変でした。蚊もやたらと多くて、兵隊はみんな苦労したんですよ。泊まる時は、木々を切り拓いて、ヤシやビンロウ樹の葉っぱで簡単な屋根をつくり、その下で眠りました」
その間、米軍の散発的な空襲はあったが、作業は続けられた。
ペリリュー島には川がないが、珊瑚で海水が濾過された天然の水場が幾つかあった。完全な真水ではなかったが、兵士たちはそれらを飲んで喉を潤した。その他、この島特有のスコールがきた時には、ドラム缶などに雨水を溜めた。また、陣地構築の合間を縫うようにして、演習も実施された。
「中川大佐は実に細やかな人だった」
中川は島内の各地を精力的に巡り、兵士たちを激励した。時には中川自ら、泥に塗れて作業に参加したこともあった。中川は一切の妥協を許さなかったが、休憩時間には兵士たちと共に談笑することもあったという。
水戸2連隊ペリリュー島慰霊会の事務局長を務める影山幸雄さん(73歳)は、ペリリュー戦からの生還者である元兵士の方々から様々な体験談を聞いた経験を持つ。影山さんはこう語る。
「ペリリュー島からの生還者の中には、中川大佐と直接の接触があった元将校の方々もいました。みなさん、もう亡くなられましたが、そんな方々がよくおっしゃっていたのは、『中川大佐は実に細やかな人だった』ということです」
影山さんの父親は、かつて歩兵第2連隊に所属していた。しかし、同連隊がペリリュー島に派遣される前に除隊となったため、生き残ることができた。こうした縁から慰霊会の活動をするようになった影山さんが、次のような話を伝える。
「ペリリュー島からの帰還兵の一人である山口永さんという元少尉の方がおっしゃっていましたが、中川大佐は将校を定期的に昼食などに呼んで一緒に食事をし、そこで陣地の配備や兵員の動きなどを聞くということを常にやっていたそうです。縦社会である軍隊では、連隊長ともなると自分の側近を通じて下に指示を出していくのが普通なわけですが、中川大佐の場合は末端の将校にまで直接、話をしたと」
山口は歩兵第2連隊の第2大隊第6中隊小隊長を務めた人物である。影山さんが続ける。
「山口さんは『中川大佐は雲の上の存在なので、呼ばれると緊張して困った』ともおっしゃっていました。そして、呼ばれると随分と細かいことまで聞かれたそうです」
〈 ペリリュー島の海岸線一帯は一挙に火の海…わずか1万の日本軍は4万2000人の米軍にどのように戦いを挑んだのか? 〉へ続く
(早坂 隆/文春新書)
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