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ペリリュー島の海岸線一帯は一挙に火の海…わずか1万の日本軍は4万2000人の米軍にどのように戦いを挑んだのか?

文春オンライン / 2024年8月11日 6時0分

ペリリュー島の海岸線一帯は一挙に火の海…わずか1万の日本軍は4万2000人の米軍にどのように戦いを挑んだのか?

写真はイメージ ©︎AFLO

〈 太平洋戦争最大の激戦地・ペリリュー島を死守した中川州男大佐の実像「中川大佐は実に細やかな人だった」 〉から続く

 4万2000人の米軍相手にわずか1万人の日本軍が奮戦し、74日間に及ぶ徹底抗戦を繰り広げたペリリュー島の戦い。守備隊指揮官・中川州男大佐はどのような戦略を練っていたのか。 『ペリリュー玉砕 南洋のサムライ・中川州男の戦い』 (文春新書)より一部抜粋し、上陸時の戦いを振り返る。(全2回の後編/ 前編を読む )

◆◆◆

上陸開始

 運命の朝を迎えた。天気は晴れ。海は穏やかである。

 昭和19年(1944年)9月15日の午前5時30分、いよいよ米軍がペリリュー島への上陸作戦を開始した。

 午前6時15分、海岸線から約13キロ離れた海上において、約50隻もの輸送船の中から、20数隻の大型船艇が卸下された。目指すべき上陸地点とされたのは、日本側が「西浜」と呼んでいた海岸線である。中川の予測は的中した。

 日本軍の守備隊は、この西浜とその近辺に6つの陣地を設け、それぞれモミ、イシマツ、イワマツ、クロマツ、アヤメ、レンゲと命名していた。モミ、イシマツ、イワマツ、クロマツを守るのは、歩兵第2連隊第2大隊の約635名。大隊長は富田保二少佐である。この隊は「西地区隊」とも呼ばれた。同大隊の一員であった永井敬司さんはこう語る。

「私は第2大隊の本部付だったので、富田少佐と一緒に富山にある大隊本部壕にいました。海岸線の陣地が第1線ですが、大隊本部壕はその後ろの第2線に位置していました。富田少佐は茨城県の出身で、旧制の下妻中学から陸軍士官学校に進んだ方です。非常に勇敢で実戦型の軍人という感じの人でしたが、上陸戦の時、まだ新婚2年目という話でした」

 一方、アヤメ、レンゲを守るのは、歩兵第15連隊第三大隊の約750名。大隊長は中村準大尉の後を継いだ千明武久大尉である。こちらは通称「南地区隊」と呼ばれた。

 海岸線には塹壕やタコ壷などが幾つも設けられ、速射砲を備えたトーチカも構築されていた。

 守備隊長である中川は、山岳部に位置する洞窟内の連隊本部(守備隊本部)にいる。

 上陸地点とされた西浜を最初に襲ったのは、艦砲射撃による集中砲火であった。これに艦載機からの爆撃が加えられた。

米軍側は「激しい戦いにはなるが、短期戦で終わる」

 西浜に接近してくる米軍の大型船艇は、海岸線から約2キロの地点で、上陸用船艇や水陸両用車などを卸下した。

 彼らはウィリアム・ヘンリー・ルパータス少将率いる第2海兵師団である。ガダルカナル島やマリアナ諸島の戦いで、日本軍に勝利を収めてきた精鋭部隊であった。

 ルパータスは1889年11月14日の生まれ。ワシントンD.C.の出身である。海兵隊養成学校を卒業した後、第1次世界大戦に従軍。第2次上海事変の際には、第4海兵連隊の大隊長を務めていた。日米戦争勃発後は第1海兵師団副師団長に任命され、ガダルカナル島の戦いに参戦。その後、師団長に昇進し、ペリリュー島の戦いに臨んでいた。

 この上陸作戦に際し、米軍側も厳しい訓練を重ねていた。上陸作戦の主力を担う部隊は、サンディエゴ港を出航した後、ニューカレドニア本島に寄港。同島で上陸演習やジャングル戦の訓練を実施してから、ラッセル諸島のパヴヴ島に移動した。同島でも演習を繰り返し、さらには制圧後のガダルカナル島でも訓練を重ねた。そのような準備に自信もあったのであろう、ルパータスはペリリュー島の攻略に関し、

「2、3日で片付く」

 と口にしたとされる。総じて米軍側は「激しい戦いにはなるが、短期戦で終わる」と認識していた。

 しかし、そこには慢心もあった。米軍はペリリュー島の地形に関して、航空写真から密林や渓谷の位置などは把握していたが、地下に伸びる洞窟の存在についてはほぼ認識していなかった。それどころか最前線の海兵隊員たちの多くは、地図さえほとんど見たことがない状態だったのである。それまで連戦連勝だった米軍側に、過信があった点は否めない。まさかこの戦いが、「アメリカ海兵隊史上、最悪の死傷率」と言われるまでの戦闘になるとは、この時点では誰も予測していなかった。

日本側の作戦はかなりの効果を上げたのだが……

 午前7時30分頃、無数の上陸用船艇や水陸両用車が、西浜の海岸線から約350~700メートル沖の付近にあるリーフ(暗礁)に向かって接近してきた。海上からの艦砲射撃も継続されていたが、日本軍の守備隊は引き続き塹壕などに身を隠してこれに耐えていた。日本軍はまだ反撃に出ない。日本側はなるべく敵を引きつけてから、一気に迎撃する作戦を採っていた。

 海岸線に向かって一挙に迫ってきた上陸部隊の速度は、リーフの付近で緩やかになった。中にはリーフを乗り越えることが難しい船艇もあった。

 日本側はこのリーフの付近に、あらかじめ無数の機雷を敷設していた。やがて、この機雷が大きな爆音を立て始める。機雷に触れた船艇は、次々と大破していった。日本側のこの作戦は、かなりの効果を上げた。

 しかし、午前8時頃、米軍は隊形を整理し、アムトラック(LVT。水陸両用トラクター)といった最新の水陸両用兵器を前面に押し出す布陣をとった。アムトラックは続々とリーフを乗り越えて、海岸線に接近した。天候はにわかに崩れ、この地域特有のスコールが降った。

 上陸部隊の先頭がいよいよ海岸線から100メートルほどにまで近づいてきたその時、待ち構えていた日本軍の速射砲などがついに火を噴いた。充分に敵を引きつけてからの一斉射撃である。さらに、山岳部の天山などに備えられていた野砲や十センチ榴弾砲も、轟音と共に砲火を浴びせ始めた。

米軍は大混乱に。海岸線一帯は一挙に火の海と化した

 米軍側はこれまでの艦砲射撃と空爆の結果、日本軍の守備隊はすでに壊滅的な状況にあると予測していた。しかし、強固な地下壕によって、日本軍はいまだ充分な戦力を維持していたのである。

 上陸部隊は大いに動揺し、そして深刻な混乱に陥った。自慢のアムトラックや上陸用船艇が次々と被弾し、炎上していく。海岸線一帯は一挙に火の海と化した。このような戦況を確認した日本側の通信兵は、

「ウメ、ウメ、ウメ」

 と連送した。「われ敵を撃退せり」の意味である。

(早坂 隆/文春新書)

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