「一人百殺、これ以外にありません」…米一粒の救援もなかった“玉砕の島”指揮官、最後の壮絶な訓示《栗林忠道中将》
文春オンライン / 2024年8月9日 6時0分
![「一人百殺、これ以外にありません」…米一粒の救援もなかった“玉砕の島”指揮官、最後の壮絶な訓示《栗林忠道中将》](https://media.image.infoseek.co.jp/isnews/photos/bunshun/bunshun_72716_0-small.jpg)
栗林忠道中将
〈 「できるだけ長く苦しんで」…腸がとびだしあふれる血の中で破顔、10数時間後に息絶えた“特攻の父”《大西瀧治郎中将》 〉から続く
半藤一利さん『 戦士の遺書 太平洋戦争に散った勇者たちの叫び 』。本書は「語り継ぎたい昭和軍人たちのことば」として、太平洋戦争に散った28人の軍人の遺書や最期の言葉をもとに、各々の人物像、死の歴史的背景である戦争の本質へと迫る名作列伝です。
本書から一部抜粋し、その壮絶あるいは清冽な言葉の数々をご紹介します。第2回は「硫黄島の戦い」で有名な栗林忠道の章を公開します。(全4回の2回目/ 最初から読む )
「大本営から支援の約束がある」
栗林忠道(くりばやし・ただみち)中将(戦死後大将)の指揮下、大隊長として硫黄島で戦った藤原環(ふじわら・たまき)少佐の回想がある。それによると、昭和19年夏のある日、部隊長会同がひらかれ、種々の会議のあったあと、栗林はこう言ったという。
「本島は皇土の一部である。もし本島が敵に占領されることがあったとしたら、皇土決戦は成り立たない。したがって、もし本島への米軍の上陸がはじまったならば、大本営としても陸・海・空の残存戦力を投入して支援し、本島への上陸は断じて食いとめる、との約束をしている。すなわち、われわれは太平洋の防波堤となるのである。本島の防衛は即、本土の防衛であると考えてやらねばならぬ」
事実、小笠原諸島の南西方、硫黄列島の中央にある硫黄島は日本本土の一部であることに間違いない。東京まで約1,200キロ、しかも長い滑走路をもつ飛行場のあるこの島が、米軍に占領されるようなことがあれば、戦闘機P51のまたとない基地となる。となれば、マリアナ基地の爆撃機B29の協同作戦によって、日本本土の制空権は米軍の手ににぎられてしまうことになろう。
もはや生命は存在しえないほどの米軍の猛攻
大本営は当然のことながら硫黄島のもつ緊要性をみとめていた。それゆえ栗林中将指揮の第百九師団を主力に、2万9千あまりの将兵を送りこみ、鉄壁の防衛陣を布(し)かねばならなかった。しかし藤原少佐が記す栗林の言葉にあるように、いざとなったときには「陸・海・空の残存戦力を投入して……」という約束をしたかどうか、いまとなっては確認のしようもない。
結果はいまさら書くまでもない。米軍はこの面積約20平方キロメートルの小さな島の攻略に、圧倒的優勢な兵力を投入してきた。上陸開始前の艦砲射撃、航空機による爆撃で島はまったく緑の見えぬほど焼けただれた。空から叩きこまれた爆弾120トン、ロケット弾2千2百5十発、海からの砲弾3万8千5百発。島にはもはや生物は存在しえないと思われるほどの猛攻のあと、海兵第三、第四、第五師団7万5千人あまりによって上陸が敢行されたのである。
迎え撃った日本軍将兵は善戦力闘した。上陸前に米上陸部隊司令官ポーランド・スミス海軍中将が「作戦は5日間で完了する」と豪語したが、そのような容易なものではなかった。昭和20年2月19日朝の米軍の上陸開始から、栗林中将が最後の突撃を命令した3月26日夜明けまで、戦闘は一瞬の休止もなくつづいた。
米軍の損害は死傷2万5千851名。上陸した海兵隊員の3人に1人が戦死または負傷したことになる。日本軍の死傷者は2万数百人(うち戦死1万9千9百人)。太平洋戦争で、米軍の反攻開始後その損害が日本軍を上まわったのは、この硫黄島の戦いだけであった。
「過去168年間でアメリカ海兵隊が最も苦しんだ戦闘」
スミス中将は言った。
「この戦闘は、過去168年の間に海兵隊が出会ったもっとも苦しい戦闘の一つであった。……太平洋で戦った敵指揮官中、栗林はもっとも勇猛であった」
日本軍の捕虜は1,033人。すべてが負傷して動けなくなったものばかりである。
これほどまで頑強な抵抗を示し時間をかせぎながら、硫黄島防衛の将兵もまた、ついに米一粒すらの本土からの救援もなく、食なく、水なく、弾丸なく、まさに孤軍奮闘に終始したのである。栗林中将の言にある大本営の約束はいったい何であったのか。果たしてあったのか。部下の士気を鼓舞するための栗林の虚言であったとはとても思えない。栗林とはそのような強がりによって部下統率をはかるような軍人ではなかったからである。
なるほど栗林は陸軍きっての文人として名高かった。長野県出身、陸士26期、騎兵科、陸軍大学を2番で卒業した秀才。小説を好んで読み、詩をつくり、文章もうまかった。そして容姿端正、そのダンディな日常挙措は、陸軍将校中でも群をぬいていた。
「我等ハ最後ノ一人トナルモ…」
しかし栗林は貴族的な持ち味や文才だけの、単なる文人派ではなかったのである。むしろ日本陸軍が生んだもっとも勇猛果敢な指揮官のひとりであった。かれは着任と同時に硫黄島に骨を埋める覚悟を決めている。また部下にも同じように決死の日本精神の練成を要求した。死ぬも生きるも一つ心をもって、の方針をうちだした。それはみずからが筆をとった「日本精神練成五誓」および「敢闘ノ誓」であり、これらを全軍に配布し、その徹底化をはかった。そのためには常に率先垂範、部下と苦楽をともにした。「敢闘ノ誓」の全文を引こう。
一 我等ハ全力ヲ奮ツテ本島ヲ守リ抜カン
一 我等ハ爆薬ヲ擁(イダ)キテ敵ノ戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン
一 我等ハ挺身敵中ニ斬込ミ敵ヲ鏖殺(おうさつ)セン
一 我等ハ一発必中ノ射撃ニ依ツテ敵ヲ撃チ斃(タオ)サン
一 我等ハ各自敵十人ヲ殪(タオ)サザレバ死ストモ死セズ
一 我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン
この敢闘精神と綿密周到な全島要塞化とをもって米軍の上陸を待ちうけたのである。そして昭和20年初頭、いよいよ米軍の来攻必至という状況下で、栗林はさらに「戦闘心得」を配布し、島の死守を徹底させた。
「防禦(ぼうぎょ)戦闘」12項のうちのいくつかを引く。
四 爆薬で敵の戦車を打ち壊せ 敵数人を戦車と共に これぞ殊勲の最なるぞ
六 陣内に敵が入つても驚くな 陣地死守して打ち殺せ
八 長斃(ちょうたお)れても一人で陣地を守り抜け 任務第一勲(いさお)を立てよ
十 一人の強さが勝の因 苦戦に砕けて死を急ぐなよ膽(たん)の兵
十一 一人でも多く斃せば遂に勝つ 名誉の戦死は十人斃して死ぬるのだ
十二 負傷しても頑張り戦へ虜となるな 最後は敵と刺し違へ
一人の日本兵を殺すのに21発も弾丸を…
こうして硫黄島防衛の将兵は、栗林の心をおのれの心として、最後の一兵となるまで戦いつづけたのである。
従軍したアメリカの新聞記者が書いている。
「日本兵はなかなか死ななかった。地下要塞にたてこもった兵士を沈黙させるためには、何回も何回も壕を爆破しなければならなかった。重傷をうけながらも日本兵は、つぎつぎに破壊されていく地下壕のなかで頑強な抵抗をつづけた。ある海兵隊の軍曹は、一人の日本兵を殺すのに21発も弾丸を射たねばならなかったのである」
しかし孤島の戦闘は援軍のない日本軍将兵にとって、無残としかいいようのない状態になった。3月15日、日本軍の抵抗線はさすがにバラバラとなり、はじめて星条旗が硫黄島の全土にひるがえった。しかし洞窟に拠る日本軍の反撃はつづいた。翌16日、ついに一兵の救援も送ってこなかった大本営へ、栗林中将は訣別の電文を送った。
「戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来麾下(きか)将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭(なか)シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル物量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然(えんぜん)徒手空拳ヲ以テ克(よ)ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊(いささ)カ悦(よろこ)ヒトスル所ナリ
然レトモ飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次テ斃(たお)レ 為ニ御期待ニ反シ此ノ要地ヲ敵手ニ委(ゆだ)ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼(きょうく)ニ堪(た)ヘサル所ニシテ 幾重ニモ御詫申上ク 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イス 特ニ本島ヲ奪還セサル限リ皇土永遠ニ安カラサルニ思ヒ至リ 縦(たと)ヒ魂魄(こんぱく)トナルモ誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁(さきがけ)タランコトヲ期ス 茲ニ最後ノ関頭ニ立チ重ネテ衷情(ちゅうじょう)ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ永(とこしな)ヘニ御別レ申上ク(以下略)」
洞窟内でコップ1杯の酒と煙草2本で今生の別れを…
そしてその電文の最後に中将は二首の歌を書きそえた。
国の為重きつとめを果し得で
矢弾尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又
七度生れて矛を執らむぞ
さらにその翌17日、階級章・重要書類などを焼却、師団司令部内洞窟の全員はコップ1杯の酒と恩賜の煙草2本で、たがいに今生の別れを告げた。ときに栗林中将は左手に軍刀の柄を握りしめて淡々として訓示した。
「たとえ草を喰み、土を噛り、野に伏するとも断じて戦うところ死中おのずから活あるを信じています。ことここに至っては一人百殺、これ以外にありません。本職は諸君の忠誠を信じている。私の後に最後までつづいてください」
訣別電報を闘将栗林の遺書とみるべきか、あるいはこの訓示を最後の言葉と解すべきか。いずれにせよ、栗林中将以下の硫黄島防衛の将兵は真によく戦った、と賞するほかはない。
栗林中将の命のもと、残存の将兵が最後の突撃を敢行したのは3月26日未明。栗林自身も白だすきをかけ、軍刀をかざし「進め、進め」と先頭に立って、華々しく散っていった。
突進――それが騎兵の戦いの本領である、と栗林は常々語っていたという。
〈 「私の天性が暗愚であったため」…“マレーの英雄”があえて「虜囚の辱め」を受け、自決できない苦しみの中で処刑された理由《山下奉文大将》 〉へ続く
(半藤 一利/文春文庫)
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