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鎌倉武士の起源は“脱税集団”だった。源頼朝が「脱税集団を結束させるため」に使った手法とは

文春オンライン / 2024年8月22日 6時10分

鎌倉武士の起源は“脱税集団”だった。源頼朝が「脱税集団を結束させるため」に使った手法とは

写真:tokiiro/イメージマート

 国家は税によってつくられ、税がつくられると必ず発生する脱税。「大化の改新」「源平合戦」「織田信長の延暦寺焼き討ち」そして現代に至るまで、歴史の大きなターニングポイントの裏には必ずといっていいほど脱税が絡んでいた。思わぬ事実に目からウロコ。脱税の視点で日本史を読み解く『 脱税の日本史 』(宝島社)より一部抜粋して紹介します(全3回の1回目/ 2回目 に続く)

鎌倉幕府は脱税集団だった

 平清盛が強大な勢力を持ち、朝廷を牛耳っているとき、その対抗勢力として、同じく軍事貴族の源頼朝が現れます。

 源頼朝は、鎌倉武士といわれる武家(主に東国)たちを結集し、大きな勢力を得たために、平氏との戦いである「源平合戦」に勝利し、鎌倉幕府を開くことができました。

 実は、源頼朝が率いた武家集団というのは、京都の朝廷や貴族の支配から抜け出そうとした「脱税集団」がその起源となっているのです。

 その経緯を説明しましょう。

 平安時代の後半、荘園は全国各地に広がっていましたが、その名義上の領主はそのほとんどが京都の貴族でした。

 つまり、日本全国の荘園の持ち主は京都に集中していたのです。当然のことながら、京都から地方の田を管理・運営するのは非常に困難です。

 そうなると、京都から有能な者を派遣して経営を任せたり、現地の豪族に管理を委ねるということになっていきます。

 そして、荘園を任せられた者たちが、だんだん荘園内で実権を握っていきます。そういう者たちのことを「在地領主」や「名主」と言います。

「在地領主」や「名主」たちは、最初は、荘園領主の命令に従っているだけでしたが、やがて荘園領主の支配に反発したり、支配から抜け出すようになってきました。決められた租税を払わなかったり、たくさんの中間搾取を行い、貴族や朝廷にはほとんど入ってこないという状況が生まれていたのです。

武家たちに土地の所有権や徴税権を認めた源頼朝

 もともと東国(関東以東)というのは、朝廷にとって統治しにくい場所でした。蝦夷地域と接しており、反乱分子が多いうえに独立心も強かったからです。平安時代には「東国の租税は、他の地域の半分でいい」とさえ言われていました。そのくらい、東国は徴税しにくいとされていたのです。

 そのため、東国では平安時代の末期になると、中央のコントロールが利かない「在地領主」 「名主」が激増してきました。

「在地領主」や「名主」は、平安時代の治安の悪化に伴い、各自が強固に武装するようになりました。「在地領主」「名主」たちの間では、土地の所有権などを巡って、小競りをするようになり、必然的に武力が必要となったのです。

 彼らは、馬や武器を揃え、家人たちに訓練を施しました。

 こうして「武家」が誕生していったのです。

 平氏や源氏などの軍事貴族というのは、この地方の武家たちを統率し、内乱の鎮圧などにあたることで勢力を伸ばしていったのです。

 ただ、平氏と源氏では、武家への対応がまったく違いました。

 平清盛は、この武家たちを朝廷のシステムの中で支配しようとしていました。土地の支配権はあくまで朝廷や中央貴族にあり、各地の武家は朝廷や中央貴族たちから土地の管理を委ねられているにすぎない、という姿勢を崩さなかったのです。

 しかし、源頼朝は武家たちに土地の所有権や徴税権を認め、朝廷や中央貴族たちの支配から解放しようとしたのです。

 源頼朝は武家たちに対してその約束をすることで、武家たちの支持を得ることに成功し、平氏をしのぐ軍勢を率いることができたのです。

〈 なぜ日本だけ世襲議員が多いのか…政治家に悪用されブラックボックス化する「政治団体」の実態とは 〉へ続く

(大村 大次郎/Webオリジナル(外部転載))

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