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ついに夢の判事に昇進したのに…すべてを求められる「働く母」の困難とは? 『虎に翼』寅子が“孤立”しているように見えるワケ

文春オンライン / 2024年8月11日 17時0分

ついに夢の判事に昇進したのに…すべてを求められる「働く母」の困難とは? 『虎に翼』寅子が“孤立”しているように見えるワケ

『虎に翼』公式Xより

 女性として初めての弁護士、判事、裁判所所長の三淵嘉子をモデルとしたNHK連続テレビ小説『虎に翼』は、そのフェミニズム的なテーマから例外的な関心と人気を集めてきた。

 このドラマの素晴らしさは、戦前から戦後にかけて、人権の平等原則を謳った日本国憲法の制定を背景とした、女性弁護士・裁判官の誕生とそれをめぐる社会の諸側面を、考証に基づいて物語りつつ、それが同時に現在の日本社会の物語にもなっている点である。

 つまり、平等な社会の夜明け(それは私たちの現在の社会へと連続している)と、しかしいまだに平等が実現していない現在の私たちの社会を同時に描くという離れ業をなし遂げていることだ。その離れ業によって、私たちの社会が、寅子たちが希望したより平等な社会となるようにという強い祈りが私たちの胸を打ってくるのだ。

 そして、このドラマがじつは現代のことも描いているというのが本当であるなら、戦後に主人公の佐田寅子が家庭裁判所の設立に奔走する「裁判官編」を経て、判事に昇進して新潟地家裁三条支部へと赴任する現在進行中の「新潟編」は、現代の何を描いていると言えるだろうか? 「新潟編」での寅子は、東京でのさまざまなつながりを断たれて孤立しているようにも見える。その様子は何を表現しているのだろうか?

 私は『虎に翼』の男性登場人物たちに注目した こちらの記事 で、非常に簡潔に「ポストフェミニズム」について触れた。裁判官編から新潟編への流れが現代の何を描いているのかという疑問に答えるにあたっては、このポストフェミニズムという言葉が有効ではないかと感じている。

ポストフェミニズムとは何か

 ポストフェミニズムという言葉は、1980年代までの第2波フェミニズム(もしくはウーマンリブ)の後のフェミニズムをめぐる状況を記述するために欧米の学問的フェミニズムで採用されてきた言葉である。

 この言葉が指すものは多面的ではあるが、ここでは、フェミニズムが上記のような「人間の平等」という理念から別のものへと簒奪されてしまうような状況のことだと定義しておく。その別のものとは、簡単に言えば競争的な資本主義やメリトクラシー(実力主義社会)だ。

 女性が「社会進出」することは確かに上記のような「平等」の為には必須のことである。だが、それを押し進めるにあたってそれが現代の資本主義やメリトクラシーに飲み込まれてしまう可能性を、ポストフェミニズムという言葉は考えることを可能にさせる。つまり、現代の競争的な社会の中でキャリア形成する女性たち「こそ」がフェミニズムを代表してしまうような可能性だ。

 じつのところ、『虎に翼』の序盤も、そのような可能性を秘めていた。実際、寅子が高等試験に合格した際に、メディア(新聞記者)は「さすが、日本で一番優秀なご婦人方だ」と言う。この台詞は、「一番になることこそがフェミニズム」であるというポストフェミニズムの落とし穴が待ちかまえていることを明らかにしている。

 だが、それに対する寅子の最大級の「はて?」とそれに続く演説は、この落とし穴を見事に飛び越える。「高等試験に合格しただけで、自分が女性の中で一番なんて、口が裂けても言えません。志半ばであきらめた友、そもそも学ぶことができなかった、その選択肢があることすら知らなかったご婦人方がいることを、私は知っているのですから」という演説だ。

 寅子はこれに続いて、いまだに存在する不平等(女性が判事や裁判官になれないこと)を激しく批判し、そのような不平等のない社会を共に作らないかと呼びかける。個人がメリトクラシーの梯子を登ることをフェミニズムの目的とするのではなく、梯子を登る機会を奪われた人たちと共に平等な社会を作ることを呼びかける。私はこの演説を聞いて、この作品がポストフェミニズムを乗り越えていることに強く感動した。

死んでしまった男たちと共働き社会

 だが、その後の展開は、ポストフェミニズム的なものの力はまだまだ強く、寅子のそれとの格闘は続くであろうことを物語っている。

 上記の記事で私は『虎に翼』の男性たちが独特の存在感を発揮していることを、期待も込めて述べたが、残念ながらその男性たちはほとんど、戦中と戦後に死んで退場してしまった(生き残ったのは、私が上記の記事で最後に注目した桂場等一郎である)。

 とりわけ、夫の佐田優三、兄の直道が戦争で命を落とし、戦後には父の直言も他界して、(母のはるも世を去って)寅子はシングルマザーとなる。当初は同じくシングルマザーとなった花江が家事子育てを担当し、あたかも寅子が「大黒柱」で花江が専業主婦、のような家族の体制が出来上がるように見えるが、新潟への赴任が決まって娘の優未とともに本格的なシングルマザー家庭を形成し、寅子がそのある種の苦境に直面するにいたって、これはやはり非常に現代的な、ポストフェミニズム状況を描いているのではないかという考えが私の頭から離れなくなった。

 そのポストフェミニズム状況とは、女性の(家庭外での賃金労働をするという意味での)社会進出は確かに進んでいるけれども、それが人権の平等のためなのか、それとも新たな資本主義の要請によるものなのか分からない(そして後者かもしれない)という状況である。

 つまり、男たちが主に戦争によって死んでしまうことは、戦争の歴史的な事実であるのとまったく同等に、現代の雇用と労働の状況の比喩のようなものかもしれないということだ。その状況を一言で表現するなら「共働き社会」ということになるだろう。理由はさまざまであるが、かつての「大黒柱」的な男性は減っていき、女性も働ける、もしくは働かざるを得ないような状況が、現在ではスタンダードになっている。そのような共働き社会は、フェミニズムの肯定的な成果にも見えるが、柔軟な労働(これはいいことばかりではない)を要請する新しい資本主義によって生まれたものにも見える。

 男性が死んでいなくなる、それゆえに寅子が大黒柱にならなければならないというのは、そのような状況を極端に表現したものではないか。

「全てを持つ」の幻想

 問題は、そのような状況を表現するにあたって、それが「専門職ミドルクラス女性」を通して表現されることである。例えばアメリカでは、元国務省政策企画本部長で、プリンストン大学の国際法学者アン゠マリー・スローターが、2012年に『アトランティック』誌で 「女性たちはなぜいまだに全てを持つことができないのか?」(邦訳は「女性は仕事と家庭を両立できない!?」)というエッセイ を発表して、大きな論争となった。

「全てを持つ」とは、仕事と家庭を両立させることである。スローターのようなパワーエリートがある種の理想的女性像としてメディアで存在感を得る時に、彼女たちが仕事と家庭の両立という「問題」に直面することが、スローターのこのエッセイを境にこの10年あまり、議論の俎上に載せられるようになった。

 この問題はつまり、共働き時代に家事労働やケア労働を誰が行うのかという問題とも言い換えられる。日本でも、いずれも漫画原作でドラマ化された『逃げるは恥だが役に立つ』や『西園寺さんは家事をしない』は、その問題を検討するものだった。

 もちろん、それ自体はとても重要な問題であるが、それが男性の問題ではなくなぜか女性のみの問題として枠づけられてしまう、そしてそれがもっぱらミドルクラス的な問題であるかのように語られ、描かれてしまうことは、問い直すべき点である。

 それについては最後に考えるとして、とりわけ「裁判官編」の寅子があたかもスローターのような、現代の専門職ミドルクラスの「働く母」の困難を抱えているかのようであることは、非常に興味深い。

 寅子は家庭裁判所の意義を知らしめるためのラジオ出演(第64話)と、とりわけ裁判所主催の「愛のコンサート」で、スター歌手の茨田りつ子(菊地凛子)に称賛された(第65話)のを境に、メディアの寵児で有名人となり、非常に多忙になっていく(この、メディアで可視性を得る女性とフェミニズムという主題もまた、ポストフェミニズム論の重要な論題である。これについては9月に翻訳を刊行予定のサラ・バネット゠ワイザー『そのミソジニーはいかにして生まれたのか』(堀之内出版刊)を参照)。そして、彼女はあたかも家庭を顧みない父親のようになり、家族とのすれ違いが深刻になっていく。

 そのすれ違いがはっきり見えるようになるのが、第71話で寅子がアメリカから帰国した際である。彼女は、花江にはすべて英語で書かれたレシピ本、子供たちには英語の本をお土産として渡し(その中にはその年(1951年)に出版されたサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が入っていて興味深いが)、「たくさん勉強して、世界を広げてちょうだい」と言う。

 ここで寅子は、花江には英語も読める完璧なシェフとしての主婦の役割、子供たちには世界の最先端の知識を勉強するエリートという役割を、まったく悪気なくおしつけている。

 まず、レシピ本については、先に触れた第65話のエピソードを参照すべきだろう。「愛のコンサート」で茨田りつ子に称賛され、弱き者を守る裁判官としての役割を「完璧」に遂行し始める寅子だが、そのラジオ放送を聞いていた花江は、突然家族に土下座しながら、「お願い、手抜きをさせてください」と頼む。彼女は「おばあちゃん」(はる)のような完璧な家事はできないと告白し、手抜きと手伝いを子供たちに頼むのだ。

 この唐突にも見えるシークエンスは、意図的にこのような並びになっている。片方に、「完璧」な職業人への道を歩み始めた寅子、そして「完璧」な家事はできないと告白する花江。だが、ここでこそ寅子は「仕事と家庭」を両立させる道から逸脱し始めていたのだ。このような寅子と花江の分断が、この6話後の第71話のレシピ本のエピソードで改めて表現されるのだ。

 同時にとりわけ、学校の勉強は苦手なのだが「いい子」のふりをするためにテストの点数を改ざんしたりもする娘の優未との溝は深い。それにようやく気づいた寅子は、優未と二人きりで新潟に赴任し、関係の修復に乗り出すことになる。

連帯はあるのか?

 このすべてのいきさつは、最初に述べたように、非常に現代的なポストフェミニズム状況を描いているように見える。ポストフェミニズム状況とは、冒頭で述べたように性の「平等」がキャリア追求に置き換わった状況であり、さらにはスローターのような、仕事と家庭の両立が、家族の幸せや生活の質のためというよりは専門職の働く母としての完成された主体の追求の問題になってしまったような状況である。

 花江は「ほっと一息ついた時に楽しそうに笑うみんなを眺めること」が自分の一番の幸せだと言い、その余裕を生み出すために家事の手抜きをさせてくれと言う。この花江の台詞は、「仕事と家庭のバランス」の追求が本来の目的を見失ってしまったことをあぶり出しているようだ。「ワーク・ライフ・バランス」が結局はワークのためになる限りでのみ追求できること、とでも言えばいいだろうか。

「新潟編」での寅子は、花江との間にできた溝を修復することもできていなければ(執筆時)、再会したかつての仲間たち(よね、涼子、ヒャンスク)との関係も、かつての学生時代のような暖かい連帯を取り戻したとは言えず、とても孤立しているように見える。この孤立感は、本稿で述べたようなポストフェミニズム的な孤立感なのである。

 だとすれば、そこから脱する道は、「仕事と家庭」の問題をミドルクラスの専門職女性という階級限定的なものから解放することだろう。それはおそらく、寅子自身があの演説で言っていた、「志半ばであきらめた友、そもそも学ぶことができなかった、その選択肢があることすら知らなかったご婦人方」と改めて連帯する道を、寅子が見いだす道になるべきだろう。

「新潟編」ではすでにそのような連帯のあり方への模索が始まっている。涼子と玉とのあいだの階級を超えた友情(第84話)、そして第85話で寅子が語る、「拠り所」の問題。寅子は友達がいないらしい優未に友達を作るように言ったが、「拠り所」というものは友達である必要はなく、自分は間違っていたという反省の言である。

 ここでの「拠り所」は、障害学者の熊谷晋一郎の言う「依存先」と響き合う。熊谷によれば、自立とは、依存しなくなることではなく、依存先を増やすことだ。これは、自立した競争的な個人の確立をめざすポストフェミニズムとは違った、主体の弱さや相互依存性を前提とする、連帯と社会への志向であろう。寅子はその道を歩み始めている。

 そしてそれは、よねの事務所の壁に大書された憲法14条の精神の実現への道となるはずだ。これは予想というより、希望である。

(河野 真太郎)

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