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なぜSPEEDは“伝説”になったのか?「子どもながらに理解していた」平均年齢13.5歳のメンバーが“きわどい部分”も歌いこなした本当の理由

文春オンライン / 2024年8月13日 6時0分

なぜSPEEDは“伝説”になったのか?「子どもながらに理解していた」平均年齢13.5歳のメンバーが“きわどい部分”も歌いこなした本当の理由

1998年当時のSPEED。(左から)上原多香子、島袋寛子、新垣仁絵、今井絵理子

 いまから28年前、安室奈美恵が2ndアルバム『SWEET 19 BLUES』をリリースし、8週目で300万枚の売り上げを達成するなど快進撃を続けていた1996年の夏。安室に続けとばかり、彼女と同じ沖縄アクターズスクール出身の少女4人によるダンスボーカルユニット・SPEEDが、シングル「Body & Soul」でCDデビューした。8月5日のことである。

 メンバーの新垣仁絵(1981年4月7日生まれ)、上原多香子(1983年1月14日生まれ)、今井絵理子(1983年9月22日生まれ)、島袋寛子(1984年4月7日生まれ)はすでに前年の10月より、日本テレビの音楽バラエティ『THE夜もヒッパレ』に準レギュラーとして出演していた。SPEEDというグループ名もこの番組で一般公募して決まった。

 CDデビュー時点でのメンバーの平均年齢は13.5歳で、最年少の島袋寛子は小学6年生だった。翌月に19歳になろうとしていた安室より年下で、週刊誌などメディアでも、彼女たちについて「21世紀に入ってもまだ全員が10代」などと、とかく若さが強調されていた。

少女たちが歌うにはきわどい歌詞

 デビュー曲「Body & Soul」の歌詞をいま読むと、「甘い恋のかけひきは 言葉だけじゃ足りないから 痛い事とか恐がらないで もっと奥まで行こうよ いっしょに…」などと何やら意味深で、10代前半の少女たちが歌うには結構きわどい部分もあったりする。

 もっとも、本人たちもまったくわけもわからず歌っていたわけではない。今井とともにボーカルを務めた島袋は、昨年のインタビューで、《子どもながらに歌詞を理解していたと思います。会いたいとか寂しいとか、恋心って年齢関係なくあると思うし》と振り返っている(「CHANTO WEB」2023年6月17日配信)。

 ただ、経験が追いついていないので、大人になってからとくらべると歌詞の捉え方や解釈が浅かったことは否めない。それでも《実体験が伴っていないからこそ、その年齢なりの子のピュアさみたいなものが歌声に出ていたんじゃないかな。本来はもっとウエットになるところが、ウエットになりすぎなかったところもSPEEDのいいところだったんじゃないかなって思います》と島袋は語る(同上)。

 SPEEDのプロデューサーで、楽曲の作詞・作曲を手がけた伊秩弘将も、《歌詞に関しては小学生に書くというよりも、もう少し上のティーンエージャーをイメージして書きました。本人たちにも、“子供っぽい歌詞はやめようね”といっていたんです。(中略)だから2年、3年先に歌っても恥ずかしくないような歌詞にしようと思ったんです》とのちに明かしている(『女性セブン』2012年7月5日号)。

 サウンドは、当初はこのころ流行っていたユーロビートで構成すればいいかなと伊秩は思っていたが、沖縄から届いた本人たちの映像資料で、ボーカルの2人の突出した声質に心動かされるものを感じた。

 ここから燦々と照りつける太陽のもとで砂浜を駆け巡るようなダンスミュージックが頭に浮かび、人工的なユーロビートではなく、もっとプリミティブなサウンドにしようと決めたという。ちょっと大人びているけど、明るく健康的というSPEEDの魅力はこうして生まれたのだった。

沖縄アクターズスクール出身の4人

 SPEEDの4人を世に送り出した沖縄アクターズスクールの創設者で校長のマキノ正幸(2024年6月28日、83歳で死去)はじつは当初、島袋と今井を2人組としてデビューさせるつもりでいた。それというのも、両者はいずれも幼くしてアクターズスクールに入り、早くから秀でた才能を示すとともに、ステージを何度も経験し、ハプニングにも遭遇するうち、何が起こっても自分がどこでどう振る舞えばいいかがちゃんとわかっていたからだ。

 島袋の場合、まだ言葉もうまくしゃべれないときから、歌ったり踊ったりすることが好きだった。そんな彼女を見て周囲の大人たちが、沖縄アクターズスクール(彼女の生まれる前年、1983年に設立)のことを教えてくれた。島袋は見学に行くや「ここに絶対通いたい!」と母親に懇願する。それが、3歳の終わりぐらいというから、まだ物心つくかどうかという頃だろう。

 しかし、母は彼女と互いに正座して向き合うと、絶対にレッスンは休まないことと、10年やって芽が出なければあきらめるということを約束させ、入学を認めたという(前掲、「CHANTO WEB」)。

 一方、今井は小学2年生でアクターズスクールに入った。きっかけは、地元・沖縄のテレビ番組の夏休み企画で行われたカラオケ大会に出場したことだ。このときアクターズスクールから安室奈美恵ら何人かの生徒たちがマキノには内緒で出場し、予選を通過して決勝に進んでいた。

 今井もまた決勝にまで残るが、安室にグランプリをさらわれてしまう。それがよほど悔しかったのか、「絶対にあのお姉ちゃんに勝つんだ!」と島袋と同様に母親に頼み込み、まもなくしてアクターズスクールに入ったのだった(マキノ正幸『沖縄と歌姫』宝島社、2018年)。

新垣と上原は芸能界に入るつもりはなかった

 それ以来、苦労しながらバランス感覚を培ってきた2人をマキノは自信をもって、東京の芸能事務所・ライジングプロダクションに紹介する。同事務所にはすでにアクターズスクール出身の安室やMAXが所属していた。だが、ライジング側からは「2人ではビジュアル的に弱い」と言われてしまう。そこでマキノはさらに自分の生徒から何人か推薦し、そのなかからライジングの平哲夫社長が選んだのが、新垣と上原だった。

 ただ、こちらの2人はもともと芸能界に入るつもりはなかった。CDデビュー直後の4人のインタビューでも、芸能界に入ろうと思ったきっかけを訊かれ、今井が《ひろこと私は初めからプロを目指してた》と答えたのに対し、新垣は《たかこと私は、歌とダンスが好きだったから、四年前にほとんど趣味感覚で》アクターズスクールに入ったと正直に話していた(『サンデー毎日』1996年10月27日号)。

「ファッションを学ぶ予定なので、デビューはできません」

 新垣はもともとファッションデザイナー志望で、アクターズスクールの定期公演で使う衣装は、彼女がすべてデザインしていたほどだった。芸能界デビューに際しても、校長のマキノに「地元でファッションを学ぶ予定なので、デビューはできません」と一旦は断ってきたという(前掲、『沖縄と歌姫』)。

 マキノも彼女の才能は認めており、そこで「将来デザイナーとしてやっていくなら、芸能界ですぐれたファッションやショーをよく見ておくと、すごくいい勉強になる」と説得すると、「そういう方法もあるんですね」と納得してくれたという(マキノ正幸監修『沖縄アクターズスクール公式ガイド』ネスコ、1997年)。

マキノ氏が「何よりの才能」だと思った“美しさ”

 上原も芸能界入りには相当悩み、《SPEEDとしてデビューが決まりかけたとき、もし私が行けなかったら3人で頑張って、とか言ってたんです(笑)》という(『anan』2003年9月10日号)。悩んだあげく、四柱推命で将来を占ってもらったところ、「チャンスは誰にでもあるものじゃない、やらないで後悔するよりは、思い切ってチャレンジしてもいいんじゃない?」と占い師に言われ、背中を押されたらしい。

 マキノとしては、上原の才能は何より美しさだと思い、「いまはすぐに芽が出ないけど、17、18歳になったら、美人女優としてやっていけるはずだ」と言って芸能界に送り出した。もっとも、デビューから数年後には、こうも書いていた。

《ただ、美しさというのは本人の心がけしだいで、いつ消えてしまうかわからない。美しさとは、維持するのに大変な手間のかかる才能だ。多香子の才能は、芸能界以外でのほうが輝くかもしれないとも思っている。結婚すればきっといいお嫁さんになるのではないか》(マキノ正幸『才能』講談社、1998年)

デビューには若すぎるという思いもあったが…

 こうして4人によりグループが結成されると、ライジングプロはプロモーションビデオを制作し、安室たちが出演していた『THE夜もヒッパレ』の渡辺弘プロデューサーに見せた。すると「若い層を取り込むためにぜひ番組にレギュラーでほしい」と熱望される(『週刊朝日』1996年10月4日号)。ただ、社長の平のなかでは、彼女たちをデビューさせるには、まだ年齢的に若すぎるという思いがあった。

 それでも番組側から「月イチでもいいから、何とか」と粘りに粘られる。そこで平は、仮にデビューを1~2年遅らせたとしても、本当に4人が売れる保証はどこにもないと考え直し、彼女たちをとりあえず、スポーツでいえば全国大会にチャレンジさせるような意味合いで、テレビ出演を承諾した(『週刊女性』1999年10月26日号)。

 グループ名は先述のとおり、番組の公募で決まった。さらにレコード会社のトイズファクトリーからオファーを受け、CDデビューも決まる。

「上手く歌えなくてもつまずいても、ヒロは励ましてくれた」

 SPEEDは4人組でありながら、全員が同じ割合で歌うのではなく、島袋と今井だけがボーカルをやり、新垣と上原はバックボーカルとダンスに徹している。レコーディングも、ボーカルが複数いれば歌録りのブースには一人ずつ入るのが一般的とされるが、SPEEDは今井と島袋が一緒にブースに入って録っていた。

 今井は当時を顧みて、《ヒロの歌の呼吸とテンションに合わせ、ときにはリードしながら歌っていました。私が歌詞を間違えたり、うまく歌えなくてつまずいても、ヒロはブースから外に出ることなく隣で励ましてくれましたし、その逆もまた同じです。OKが出るまでふたりで待つ。そしてふたりでブースを出る。そんなレコーディング環境が、SPEEDらしい作品を生んでいたのかもしれません》と著書に書いている(『動かなきゃ、何も始まらない』光文社、2021年)。

 今井は、自分より年は下だがアクターズスクールでは先輩で、会ったときから歌もダンスもトップクラスだった島袋に、追いつこうと必死に頑張った過去を持つ。そんな長いつきあいだからこそ生まれたコンビネーションといえる。

突如として訪れた幕切れ

 SPEEDは「Body & Soul」に続く2枚目のシングル「STEADY」以降、ミリオンを連発する。1997年5月発売の1stアルバム『Starting Over』と同年10月の5thシングル「White Love」は200万枚、さらに翌1998年4月の2ndアルバム『RISE』は300万枚を売り上げ、安室奈美恵と並ぶ人気アーティストになった。98年にはまた4大ドーム公演を含む初の全国ツアーを行い、30万人を動員する。4人の主演映画『アンドロメディア』(三池崇史監督)が公開されたのもこの年である。

 だが、幕切れは突如として訪れる。1999年10月5日、SPEEDはメンバーそろって記者会見を行い、翌年3月の解散を発表したのだ。デビュー当時のインタビューで、これからの目標として《二一世紀を代表するスピードになること!》と全員で宣言していた彼女たちだが(『サンデー毎日』前掲号)、早くも20世紀中にいったんピリオドを打つことになる。


「Body & Soul」(作詞・作曲/伊秩弘将)

〈 解散→再結成→相次ぐ不倫問題に「中身のない子が育っちゃった」と…SPEED“伝説のデビュー”から28年、メンバー4人の“今”は 〉へ続く

(近藤 正高)

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