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解散→再結成→相次ぐ不倫問題に「中身のない子が育っちゃった」と…SPEED“伝説のデビュー”から28年、メンバー4人の“今”は

文春オンライン / 2024年8月13日 6時0分

解散→再結成→相次ぐ不倫問題に「中身のない子が育っちゃった」と…SPEED“伝説のデビュー”から28年、メンバー4人の“今”は

1999年10月、記者会見で翌年3月31日の解散を発表するSPEED。(左から)上原多香子、島袋寛子、今井絵理子、新垣仁絵 ©時事通信社

〈 なぜSPEEDは“伝説”になったのか?「子どもながらに理解していた」平均年齢13.5歳のメンバーが“きわどい部分”も歌いこなした本当の理由 〉から続く

 1996年8月5日、「Body & Soul」で鮮烈なデビューを果たしたSPEED。立て続けにミリオンヒットを飛ばし日本中を熱狂させたのも束の間、わずか4年足らずで解散に至ったのは一体なぜだったのか? そしてその後、4人が歩んできた“道”とは。(全2回の後編/ はじめから 読む)

◇◇◇

4人でとことん話し合い、“解散”という選択に至った

 1999年10月5日、SPEEDの4人がそろって記者会見にのぞみ、翌春の解散を発表した。このとき今井絵理子が、初めて解散の話が出たのは前年(1998年)の8月だったと明かした。

 彼女たちの所属するライジングプロダクションの平哲夫社長も、この会見直後のインタビューで、時期は若干前後するものの前年の7月に彼女たち一人ひとりに話を聞き、それぞれのやりたいことが見えてきたので、4人のタレントとしての方向性、そして今後の人生を考えると解散という選択が一番いいと思ったと語っている(『週刊女性』1999年10月26日号)。

 これは後年、上原多香子が、《4人で集まって、私はこういうことがしたいという話をして、で、社長に相談に行ったら、「そうか。だったら、解散したほうがいい」と言われたんですね》と証言しているのとだいたい一致する(『アサヒ芸能』2011年9月1日号)。

 ただ、社長に相談する前に、まず4人で話し合ったということは重要だろう。今井も著書で、《4人でとことん話し合った結果、「解散」しようという答えを出しました。SPEEDはいつも4人の同意の上で物事を決めてきました》と書いている(『動かなきゃ、何も始まらない』光文社、2021年)。

解散を強く主張したのは島袋寛子だった

 後年のメンバーたちの発言によれば、解散を強く主張したのは島袋寛子だったという。彼女は中学2年のとき、SPEEDと並行してソロで活動を始めたぐらいから、このままでいいのかと自分の人生を考えるようになったらしい。考え込むうち、仕事をしている自分が噓をついているような感じがしてきて、自己嫌悪に陥った。ついには《歌うのが大好きだったのに、それもイヤだと思えてきて。声も出なくなってしまって、ちょっと考えたい、立ち止まりたいと》思いいたったのだという(『週刊文春』2009年11月12日号)。

 島袋と上京以来ずっと仕事も生活もともにしてきた今井は、彼女が「解散したい」と口にするのを聞いて衝撃を受けた。今井の本心では、SPEEDという夢の続きをもっと見たかったし、何よりまだみんなといたいという思いが勝った。そのため島袋から解散したいと言われても反対したが、彼女の意志は変わらなかった。

 2000年の解散後、メンバーはそれぞれの道を進む。それから9年後の2009年、前年に本格的にSPEEDを再結成した4人は、『週刊文春』の阿川佐和子との対談で顔をそろえると、夏休みを終えて久々に登校した子供たちのように、それまでの充実した日々を楽しそうに報告し合った。

「あ、ニューヨークに行ける!」

 メンバー最年長の新垣仁絵は、解散が決まるや「あ、ニューヨークに行ける!」と、かねてよりの願いをかなえるチャンスと捉えた。そして《六年ぐらいニューヨークと日本を行ったり来たりしながら、向こうで絵やダンスを学んだり、日本でCD出したり。再結成の前はアメリカでヨガのインストラクターのライセンスを取得して、日本で教えてました》という(『週刊文春』前掲号)。

 島袋も、解散から6~7年経った頃、新垣にヨガを教わった。当時彼女は解散直前と同様、このときも色々とあって何をしていいかわからず落ち込んでおり、新垣のもとへ匿ってもらうように1年ほど通ううち、だんだん落ち着いていったという。ヨガだけでなく「好きなことやっていいんだよ」と教えてくれた新垣に、島袋は《あれがなかったら私今頃、沖縄に帰ってます(笑)》と感謝している(同上)。

 じつは島袋は10代の頃、新垣が物事をストレートに言い過ぎるため何も言えず、ほとんど口を利いていなかったが、これを機に距離がグッと縮まったようだ。

メンバーを驚かせた上原の変化

 解散後のメンバーの変化でいえば、上原もまた、10代のとき以上にしゃべるようになり、ほかのメンバーを驚かせた。かつては、いつも心ここにあらずという感じだった上原だが、島袋が、再結成後はライブについて彼女の意見で気づかされることも多く、《今は自分があるなって思う》と語ったように(同上)、ほかの3人からすっかり見直されたらしい。

 上原は解散後、歌に自信がなくて俳優に専念するようになっていた。2005年には初めてミュージカルに出演し、《生でやる責任とか、一ヵ月間自分で自分のコンディションを管理することを経験したときに、一人で立つことに責任を持った》という(同上)。

今井はシングルマザーに

 こうしてメンバーたちが互いに変わり、再び集まったSPEEDについて今井は《第一次SPEEDは、4=SPEEDって感じだったけど、今は1+1+1+1=SPEEDという感じがする。自立してて、お互いの意見を尊重し合って、そこが大きく違うかも》と、その変化を表現している(同上)。

 今井自身もこの間は波瀾の連続だった。解散後、ソロになると自ら作詞・作曲も始める。2004年には、ロックバンド・175R(イナゴライダー)のボーカル・SHOGOと結婚、現在、プロレスラーとして活躍する長男・礼夢(らいむ)を儲けた。これを機に事務所を離れる。夫とは2007年に離婚し、以来、シングルマザーとして子供を育ててきた。

 2008年の再結成も、その年8月の日本テレビの『24時間テレビ』に際しての、番組側から今井へのある依頼がきっかけとなっている。その依頼とは、SPEEDを再結成して、その9年前に同番組で出会った難病の少女に歌をもう一度届けるとともに、今井から息子が聴覚障害者であることを公表できないかというものだった。

 さすがに最初打診されたときには即座に断った今井だが、その後、考えに考えた末、《息子が大きくなったとき、息子の見える世界が今より少しでも輝いていたらいいなと思った。そして、「みんな一緒」「障がいは個性だよ」という言葉と想いが、たくさんの人に笑顔とともに届いてくれたらいいなと》の結論に達し、公表を決意したという(今井絵理子『ココロノウタ』祥伝社、2009年)。

 公表にあたってはほかのメンバーにも相談し、賛同を得られた。さらに話し合いを重ね、4人で「気持ちをひとつにしよう」との決意でのぞんだ『24時間テレビ』のステージでは、歌を手話を交えて披露もしている。このときの再結成は一夜限りの予定だったが、これを見たファンからの反響に応える形で本格的な再結成が決まった。

参院選に出馬し当選。一方で不倫問題も…

 SPEEDはその後も数年間、新たにアルバムなどをリリースし、2015年には島袋と今井によるユニット・ERIHIROも結成された。一方で、今井は個人としても息子を連れ、ギター1本で全国各地の特別支援学校や福祉施設を訪問する活動を始めた。2011年の東日本大震災後には、被災地で歌や絵本の読み聞かせも行っている。

 こうした活動が同じく芸能界出身の参院議員・山東昭子の目に留まり、政界入りを熱心に勧められ、2016年、自民党の比例代表として参院選に出馬して当選する。

 参院議員に就任5年目の2020年には、日本の国会で初めて手話を併用した質疑を行った。その後2022年に再選し、現在2期目を務める。この間、最初の当選の翌年には当時神戸市議だった男性(のちに事実婚のパートナーとなる)との不倫疑惑が報じられるなど、たびたび世間を騒がせてもきた。

 上原もまた、2014年に夫でヒップホップグループ・ET-KINGのTENNが自ら命を絶ち、3年後にその原因が彼女の不倫だったとする報道が出て、激しい非難を浴びた。

「中身のない子が育っちゃった」「無責任な商売をやっていた」

 SPEEDを輩出した沖縄アクターズスクール校長のマキノ正幸は、一連の報道を受けて、《SPEEDのメンバーは、若くてまだ何も教育されていない状態で、世間も知らず芸能人としてデビューしてしまった。事務所が何でもお膳立てして、何かあれば守ってくれる。厳しいかもしれないけど、そんな環境だったから中身のない子が育っちゃったんだと思う》と、今井や上原に対し嘆きを隠せなかった(『婦人公論』2017年11月14日号)。

 それと同時に、《もちろん、僕も彼女を東京に送り出して、事務所に預けるだけで、何もできなかった。無責任な商売をやっていたと思う。だから、スクールを卒業してデビューした子たちは、誰一人連絡してこない。いま思えば、僕は安室に対しても今井に対しても、愛がなかったのかもしれないね》と、同じ頃引退を発表した安室を含め、デビューさせた教え子たちに責任をとりきれなかった自身を省みてもいる(同上)。

それぞれの“今”は…

 それでも沖縄アクターズスクールが彼女たちの母校であることには変わりない。一昨年(2022年)10月に沖縄で開催されたイベント「沖縄アクターズスクール大復活祭~本土復帰50周年記念~」には島袋が出演したほか、今井と上原がサプライズゲストとして登場し、3人で「Body & Soul」を熱唱した。このとき、新垣の姿はなかったが、島袋は《それぞれの今があるから。ひっちー(新垣)のポジションは、そのままにして気持ちは4人で1つです》と強調した(「サンスポ」2022年10月2日配信)。

 新垣は2013年に結婚したのを機に事務所を辞めたと伝えられる。それでも2021年には、SPEEDの結成25周年を記念したトリビュートアルバムのジャケットのイラストを手がけるとともに、インスタグラムを開設し、その後も頻度は少ないものの更新を続けている。

 先述のアクターズスクールのイベントに登場した上原は、その直前、2022年8月に美容家への転身を宣言、昨年1月には再婚相手の夫と子供たちとともに沖縄に移住している。地元でエステサロンの経営者として活動する一方で、昨夏には夫とは別の男性との関係も報じられた。

唯一表舞台に立ち続ける島袋が語ったこと

 いまやメンバーで芸能界で表舞台に立ち続けているのは、今年4月に40歳となった島袋だけである。昨年には、hiro名義でのソロ曲や、ジャズスタンダードを歌うプロジェクト「Coco d'Or」、島袋寛子名義での故郷・沖縄をテーマにしたアルバムなど、SPEEDの最初の解散以降の活動を集大成したボックスアルバム『UTAUTAI』をリリースし、今年3月には同タイトルのライブを大阪と横浜で行っている。

「10代の自分には絶対にかなわない」「4人揃うと無敵なんです」

 このほか演技など多岐にわたり活動する彼女だが、一昨年のインタビューでは、《とあるジャズボーカリストの方が「10代のときに最初に録ったテイクが一番いい。そこは超えられない」と話していたんですけど、私もそう思う。それとは戦わないように人生経験を積んで、面白い歌が歌えるようになったら良いなと思います。とにかく面白い人になりたい(笑)》と、10代でSPEEDとして世に出てきたときの自分には絶対にかなわないと認めた上で、その後の人生を歩んできたことを明かしていた(「Real Sound」2022年4月11日配信)。

 同じインタビューでは《4人でやるのはやっぱり楽しいですよ》とも語り、ソロとの圧倒的な違いを次のように語っている。

《私よりも3人の方が魅力的だし、磨きがかかっているはずなので、絶対に楽しいと思うんですよね。やっぱり2人になるとエネルギーがブワッとなるのが分かるんです。3人になるとさらにエネルギーが倍増して、4人揃うと完全体のエネルギーになる、みたいな。もはや無敵なんです。あの感覚はSPEEDじゃないと味わえない》

 ほかの3人のためにも、島袋は場を温めて待っているようにも思える。いまは無理としても、いつかまた、4人全員がそろったSPEEDを見られる日が来るのだろうか。

(近藤 正高)

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