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長崎の原爆投下直後の少年の写真に「私はいま、憤っています」草笛光子90歳が語る戦争のこと「空襲のたびに5歳の妹の骨壺を」

文春オンライン / 2024年8月9日 11時10分

長崎の原爆投下直後の少年の写真に「私はいま、憤っています」草笛光子90歳が語る戦争のこと「空襲のたびに5歳の妹の骨壺を」

©文藝春秋

 90歳を迎えても主演映画『九十歳。何がめでたい』が公開されるなど、女優として活躍する草笛光子さん。1933年生まれの草笛さんは、その子供時代を、戦争の真っ只中で過ごす。いまや数少なくなった戦争を知る者として、最新刊『 きれいに生きましょうね 90歳のお茶飲み話 』で、戦争への思いを、歯に衣着せず語っている。(全3回の1回目/ #2 、 #3 を読む)
◆◆◆

誰がこの子に、こんな思いをさせたのか

 私はいま、憤っています。そして、可哀想で可哀想で涙が止まりません。この写真は、何度見てもダメ。「焼き場に立つ少年」という写真です。小学校中学年くらいの坊主頭の男の子が、死んだ弟を背中におぶって、火葬場で順番を待っている写真。昭和20年、原爆が投下されたあとの長崎で、アメリカの従軍カメラマンが撮影したそうです。

 その写真が、またテレビに映っていました。見るのは辛い。けれども、目を背けてはいけない。

 汚れた裸足で、不動の姿勢でまっすぐ前を向いて、歯を食いしばって口をへの字に結んでいます。いっそ、涙を流してくれていたほうがいい。我慢している顔が、なおさら辛いです。

 こんなに心を揺さぶられる写真があるでしょうか。戦争は絶対にダメだと、如実に語っています。誰がこの子に、こんな思いをさせたのよ。なぜこんな年の子が、火葬場に並んでいるのか。お父さんは、お母さんはどうしたのだろう。戦争のあと、どうやって生きたのか。

 この男の子が誰なのか、多くの人が探しました。撮られたのが長崎のどこで、足元に写っている電線は何の電線か。探したけれど、見つからないそうです。終戦の年に十歳だったとすれば、いま85歳ぐらい。どこかで生きていらっしゃるなら、私もお会いしてみたい。でも名乗り出ると、心の傷が開いてしまうのかもしれませんね。

 私も昭和8年生まれですから、戦争を体験しています。家のあった横浜に父だけ残して、祖母と母、長女の私、弟、二人の妹とで、縁故疎開しました。群馬県の高崎、そこからさらに富岡へ。

「その富岡で、下の妹が死にました」

 その富岡で、下の妹が死にました。食べる物がなくて、どこかでご馳走になった牡丹杏(スモモの一種)か何かに当たってしまったんです。まだ五歳でした。キューピーさんみたいに髪の毛がクルッとしていて、きょうだいで一番可愛い顔をしている子でした。

 私は死んだ妹を背負いはしなかったけれど、空襲警報のたびに骨壺を持ち出す係でした。家の電気を消して、製糸工場の横を通って近くの川辺へ降りて、しゃがんでいるんです。そのときに「アキちゃん」って妹の名を呼ぶと、骨壺の中のお骨がカタコトカタコトいうのよ。敵機が来てビューッと飛んで行くまで、そうやって隠れていました。

 戦争が終わって、横浜へ帰りました。幸い父も、家も無事だったので、焼け出された近所の方々を招き入れ、とにかく一所懸命にただ生きてるだけでした。その頃はわからなかったけれど、いまになってみると、なんて大変な時代を潜り抜けてきたのか。でもあの頃の経験を思い出さなきゃいけないし、通ってきた道を語らなきゃいけない。あんな辛い思いを、日本人に二度とさせてはいけませんからね。

「焼き場に立つ少年」に注目したのは、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇です。令和元年11月に長崎を訪れてスピーチしたときも、大きく印刷したパネルが横に置かれていました。ローマ教皇がこの写真で、戦争や原爆の怖さを世界へ知らしめようとしているのに、日本は何をやっているんでしょう。それが恥ずかしくて、私は憤っているんです。

 日本を守っているつもりになっている方々は、あの少年の写真を見て、絶対に戦争をしないと念じて欲しいと思います。私たちが涙を流すだけでは、どうにもなりませんもの。もしも日本が戦争のほうへ向かいそうになったら、あの写真を持って行って見せればいい。それで気付かないようなら、国を守る立場をやめていただきたい。

歯に衣着せないで、言うだけのことを言って消えて行こう

 私は、旅行ジャーナリストの兼高かおるさんとお友達でした。昭和34年から31年間も放送された『兼高かおる世界の旅』(TBS系)は、まだ海外旅行が自由にできなかった頃の日本人に、世界を教えてくれるテレビ番組でした。5歳年上の彼女とは、夜中によく長電話をしたものです。

 彼女は外国をよく知っているから、私は質問ばかりします。「どうして日本は自立できないの?」「外国に頼らないと食べていけないのよ」最後は政治の話や世界の問題を語って、「あら、もう二時間しゃべっちゃったね」。けれども一昨年(平成31年)、彼女は亡くなってしまいました。

 だからいま、言いたいことを言える友達がいなくて寂しいの。『週刊文春』の編集部から連絡があったとき、「えッ、私、何か悪いことしたかしら?」と身構えましたよ。よくお聞きしたら連載だというのですが、どういう態度で何をお話しすればいいのか。兼高かおるさんと夜中の電話で話してたようなことを、言いたいように言っちゃえばいいのかなと考えて、お引き受けしました。

 この年になって私、自分を規制するタガが外れました。いい顔をしたいとか、カッコよく見せなきゃとか、「世間のことを何も勉強してないな」と言われたら恥ずかしいとか、そういうタガが外れたの。もう、誰に何と思われてもかまいません。偉そうなことは言えないけれど、87歳には87歳の言い分や言い方ってものがあります。ボケてますが、それを書いてみます。

 もともと私は、後ろを振り向くのが嫌いです。首が痛くなりますから。でも最近は、語り部としてインタビューを頼まれる機会も増えました。令和2年で芸能生活70周年を迎えましたから、ご縁のあった映画監督や役者さんの思い出や、身の回りのことなども、お話ししていきたいと思います。

 飾らないこと。それがいまの私にとって、きれいに生きること。女優人生も私の人生も、あともう少しで終わりでしょうから、歯に衣着せないで、言うだけのことを言って消えて行こうと思っています。世間知らずの私ですが、どうか笑ってお付き合いください。
 

〈 「疎開先では母は着物を一枚ずつ…」草笛光子90歳が自身にも問う「戦争が正しいと信じた責任はないのか」 〉へ続く

(草笛 光子/ノンフィクション出版)

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