「疎開先では母は着物を一枚ずつ…」草笛光子90歳が自身にも問う「戦争が正しいと信じた責任はないのか」
文春オンライン / 2024年8月9日 11時10分
![「疎開先では母は着物を一枚ずつ…」草笛光子90歳が自身にも問う「戦争が正しいと信じた責任はないのか」](https://media.image.infoseek.co.jp/isnews/photos/bunshun/bunshun_72819_0-small.jpg)
〈 長崎の原爆投下直後の少年の写真に「私はいま、憤っています」草笛光子90歳が語る戦争のこと「空襲のたびに5歳の妹の骨壺を」 〉から続く
90歳を迎えても主演映画『九十歳。何がめでたい』が公開されるなど、女優として活躍する草笛光子さん。1933年生まれの草笛さんは、その子供時代を、戦争の真っ只中で過ごす。いまや数少なくなった戦争を知る者として、最新刊『 きれいに生きましょうね 90歳のお茶飲み話 』で、戦争への思いを、歯に衣着せず語っている。(全3回の2回目/ #1 、 #3 を読む)
◆◆◆
戦時中、祖母が渡してくれた忘れられない“塩むすび”
ドラマや映画の撮影現場へ行くと、スタッフや役者の人数分のお弁当が積んであります。「おはよう。今日は何?」と訊いて、「これは鶏で、これが魚です。こっちはのり弁」「ああ、のり弁がいいわね」と、先にもらっておきます。
けれども私には量が多いし、「午後から芝居が大変なところだわ」と考えると、全部は食べ切れません。「もったいない、もったいない」と思いながら残してしまいます。
作ってくれた人に申し訳ないし、世界には飢えている子どもがたくさんいることが頭に浮かんで、ますます申し訳ない気持ちになります。戦争中に育った子ですから、食べ物を無駄にすることに罪の意識が強いのです。
昭和19年8月、私が住んでいた横浜でも空襲がひどくなって、学童疎開をしました。といっても行き先は、同じ横浜市内の小机です。我が家のあった斎藤分町から三会寺というお寺まで、国民学校の同級生と歩いて行きました。
祖母が何度か、会長をしていた婦人会の用事があるような顔をして、会いに来てくれました。「光子ちゃん」とこっそり呼ばれてお堂の裏にある墓地へ行くと、「早く食べなさい」と言っておむすびをくれます。
お寺で出された食事はまったく覚えていないのに、あの味は忘れません。満足にお米のない時代で、お腹が空いていますから、お墓の裏に隠れて夢中で食べました。のりも巻いていない塩むすびだったと思いますけれど、美味しくてね。「食べた? 大丈夫? じゃあ行きなさい」と背中を押され、素知らぬ顔してみんなのところへ戻っていました。
私は引っ込み思案な性格で、他人と話したり一緒に生活できる子ではありませんでした。広いお堂にみんなで布団を敷いて雑魚寝するのが、辛くてたまりません。歩けば1時間ほどだし、家へ帰りたい。でも逃げ出して連れ戻された級友を見ていましたから、方法を考えました。先生のところへ行って「体温計を貸してください」と頼み、はあ~って息をかけたり擦ったりして温めて、熱が出たという理由をようやく拵、家へ帰してもらったのです。
疎開先で子ども心にわかった母の苦労
両親は「光子は学童疎開には向かない」と考えて、家族で縁故疎開することになりました。仕事がある父だけ横浜に残り、祖母、母、私、弟、二人の妹とで、群馬の高崎へ。さらに富岡へ移りました。
疎開先では、母が箪笥から着物を一枚ずつ取り出しては出かけていく後ろ姿を見ていました。帰って来ると、わずかなお米や野菜に換わっています。母の苦労が子ども心にもわかって、とても気の毒でした。
母が出かけると、私は祖母を手伝って、家族みんなの食事を作ります。薪でお湯を沸かしてお味噌汁にして、粉から作ったすいとんを入れられる日はまだいいほうです。5歳だった下の妹は、どなたかにご馳走になった牡丹杏(スモモの一種)を食べたら当たったようで、患った末に死んでしまいました。食べ物がないって、そういうことです。
玉音放送を聞いたとき、まず思ったのは「ああ、これでお菓子を食べられるかな」。甘い物などすぐ手に入るはずもないのに、頭に浮かんだのは食べることでした。
マネージャーだった母がやらせたがった“特攻の母”役
いまから数年前のお盆に、祖父母と両親のお墓参りに行った帰り道。横浜市内を車で通っていて、何か感じるものがありました。「学童疎開していたお寺、この辺りじゃなかったかしら」と言うと、一緒に行った人がスマホで検索してくれて、すぐに三会寺が見つかりました。
さらに、戦争中の歴史を記録したサイトに「斎藤分国民学校から、8月13日に165名の児童が疎開してきた」と書いてありました。こんなことがあっていいの? その日は8月13日だったのです。
車を止めて境内に入って、70数年ぶりに、おにぎりを食べたお墓のところへ行ったら、涙が出そうになりました。お墓参りのあとですし、母がここへ呼んだのでしょうね。
私のマネージャーをしていた母が、どうしても私にやらせたいと言っていた役があります。戦争中、鹿児島県の知覧町にあった陸軍飛行場の近くで「富屋食堂」を切り盛りしていた、鳥濱トメさんの役です。トメさんは、若い特攻隊員の身の上話を聞いてあげたり、軍の検閲に通らない手紙や遺書を預かって家族に送ったり、出撃が決まった隊員には、最後に食べたい物を無料でご馳走してあげて、“特攻の母”と慕われた女性です。
そして今年(令和3年)『特攻兵の幸福食堂』というドラマに出演が決まりました(NHKBSプレミアム)。トメさんがモデルで、私はその思い出を語る家族の役。身が引き締まる仕事です。
「特攻隊員を送り出したのは私たち一人ひとりです」
明日死に行く若者に、好きな物をお腹いっぱい食べさせてあげることしかできない。「ご馳走さまでした。思い残すことはありません」と言って去って行く後ろ姿を、見送ることしかできない。それはどんな気持ちでしょう。おいおい泣くわけにもいかないのです。
私の叔父は中国大陸で戦死しましたし、周りには特攻隊員になったものの終戦で助かった人もいます。小学生の私も竹やりの訓練をして、空襲警報が鳴れば防空壕に避難しました。目の前に焼夷弾が落ちたわけではないけれど、戦争は我が身に沁みついています。本物の弾は飛んで来なくたって、いろんなものが飛んで来るのが戦争なのです。
そうした道を歩いて来た私たちの世代は、この幸せの意味を感じなければいけないし、語らなければいけません。軍部が悪かったとか言いますけど、特攻隊員を送り出したのは私たち一人ひとりです。戦争が正しいと信じた責任はないのか。いまの私たちも、何か間違ったことをやらされてはいないか。そんなことを考える季節です。
〈 「負けたっていうのは、こういうことか」草笛光子90歳が1945年敗戦の夏に見た山下公園のフェンスの向こう側 〉へ続く
(草笛 光子/ノンフィクション出版)
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