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「負けたっていうのは、こういうことか」草笛光子90歳が1945年敗戦の夏に見た山下公園のフェンスの向こう側

文春オンライン / 2024年8月9日 11時10分

「負けたっていうのは、こういうことか」草笛光子90歳が1945年敗戦の夏に見た山下公園のフェンスの向こう側

©文藝春秋

〈 「疎開先では母は着物を一枚ずつ…」草笛光子90歳が自身にも問う「戦争が正しいと信じた責任はないのか」 〉から続く

 90歳を迎えても主演映画『九十歳。何がめでたい』が公開されるなど、女優として活躍する草笛光子さん。1933年生まれの草笛さんは、その子供時代を、戦争の真っ只中で過ごす。いまや数少なくなった戦争を知る者として、最新刊『 きれいに生きましょうね 90歳のお茶飲み話 』で、戦争への思いを、歯に衣着せず語っている。(全3回の3回目/ #1 、 #2 を読む)
◆◆◆

三菱重工に勤めていた父は仕事を失った

 終戦の玉音放送は、家族でお世話になっていた疎開先のお家の庭で聞きました。群馬県の富岡です。ラジオの音が悪いし、私はまだ小学校六年生でしたから、正確に聞き取れません。ただ「天皇陛下のお声って、高いんだな」とだけ感じました。

 戦後、横浜へいつ戻って来たのか、はっきり覚えていません。辺りは焼け野原で、我が家も焼けていました。山の上にあった母の実家だけが無事で、広い家でしたから、そこへ住むことになったのです。

 三菱重工の軍需工場に勤めていた父は、仕事を失いました。いろいろと商売を始めては、失敗続き。そこで母が、桜木町に小さな洋裁店を開きました。長女の私は両親の苦労を見ていましたから、かぎ裂きを縫ったりアイロンをかけたりと、小さい仕事はできるだけ手伝いました。

 あの夏、8月30日に厚木飛行場に着いたマッカーサーは、その足で横浜へ来て、ホテルニューグランドに泊まりました。その部屋は「マッカーサーズスイート」と呼ばれて、いまも使われています。ですから進駐軍は最初の拠点に横浜を選び、たくさんの兵隊が来ていました。

 ニューグランドの向かいにある山下公園も接収されて、将校用の住宅が建てられました。フェンスで仕切られた向こうの広い芝生で、アメリカ人の女の子たちが遊んでいました。あんなに綺麗な家に住んで、私たちは着たこともない可愛いピンクの服を着て、キャッキャッと笑いながら飛び跳ねているのです。

 フェンスのこっち側から眺めている同じくらいの年の私たちは、汚いもんぺを穿いて、破れた靴を履いて、お腹を空かせて……。「ああ、負けたっていうのは、こういうことか」。子ども心に抱いた初めての実感を、いまも忘れません。

アメリカ人に対して初めて優しい気持ちを持った瞬間

 その頃のある日、同じ場所を通りかかったら、フェンスの横に大きくて真っ白な外車が海に向かって停まっていました。何をしているのかと見たら、アメリカ人の女性が二人、前の座席に座っていました。偉い将校の奥さん方でしょうか。よく見たら、運転席に座っていた女性が、ハンカチで涙を拭っています。私は「あれっ、アメリカ人でも泣くんだ」と驚きました。「戦争に勝ったのに、どうして車の中でこっそり泣くんだろう?」と。

 山下公園は港の傍ですから、海の向こうのアメリカが恋しくて泣いたのか。それとも、家庭で何かあったのか。理由はわかりませんけれど、私の心は少し安らかになったようでした。「戦争に勝っても、悲しいことはあるんだな」なんて思ったのです。敵だと思っていたアメリカ人に対して少し優しい気持ちをもったのは、あのときが初めてだったかもしれません。

「ここが私の家よ」若い女性兵士が招いてくれた家で……

 PXと言っても、いまの人にはわからないでしょうね。進駐軍の兵隊用の売店のことです。そのPXのひとつが、私の親戚の家の傍に作られました。その親戚はときどき「これ、貰ったから」なんて言いながら、進駐軍の物資を持って来てくれました。

 その家に、一人のアメリカ兵が暮らし始めました。子どもだった私の目には、年の頃60くらいに見えましたね。朝会うと、「グッド・モーニング」と挨拶します。時にはチョコレートやチューインガムをくれるので、「サンキュー」と受け取っていました。

 なぜそんな場所で暮らしていたかというと、ほかの人たちと一緒に暮らせないからだそうです。共同生活が基本の軍隊では、落ちこぼれでしょう。アメリカ軍には、そんな兵隊さんもいたのです。物静かなおじさんでしたけど、何かかわいそうな感じを受けました。

 そののち私は、仕事のため初めての外国旅行をすることになりました。英語の勉強のために、ある人が軍人さんを紹介してくれました。階級は忘れましたけれど、肩書がついているのに、まだ若い女性兵士です。

 彼女は、たくさん並んだカマボコ兵舎のひとつに私を連れて行って、「ここが私の家よ」と招き入れてくれました。クローゼットのカーテンをいきなりシャーッと開けて、中を見せました。そこには、ギラギラなスパンコールのついたドレスが、ワーッと並んでいました。

 軍服姿からは想像できませんが、仕事が終わってナイトクラブなんかへ遊びに行くとき、着たのでしょうか。けれど私は、たくさんの綺麗なドレスを見ても、羨ましいと思いませんでした。なんだか彼女が背伸びをしているような、無理をしている感じが見えて、辛くなってしまったのです。若い女性兵士でしたから、男社会の軍隊では辛い思いもしたはずです。その分、発散が必要だったのかもしれませんね。

「戦争は絶対にダメ。真っ先に泣くのは最も弱い人なのです」

 小学校低学年の頃、校庭で「米英撃滅演練」をやりました。みんなで竹槍を手にして、「ヤーッ」と。ところがアメリカの人たちと実際に接してみたら、あれほど「鬼畜米英」と忌み嫌っていたのに、憎めませんでした。私たちと同じように、それぞれ悩みや苦労を抱えながら生きていることが少しずつわかったからです。

 やがて私は、ミュージカルという初めて巡り合った音楽入りの舞台に大変な興味をもちました。本場のブロードウェイへ、勉強にも行きました。竹槍で突く訓練までした相手と楽しく話をしながら、ふと「ここは敵国だったんだ」と気付いたりもしました。

 けれど、みんな同じ人間なのです。まだ戦争が始まる前、横浜の港にヒタヒタと打ち寄せる波に手を浸し「この水は海を越えて、遠いアメリカやいろんな国を通って来た水だ」と感動したのを思い出しました。

 ウクライナで戦争が始まって、半年が過ぎました。戦争は絶対にダメ。私は疎開先で、下の妹を亡くしています。満足に食べ物がなかったからです。戦争は誰も幸せにしないし、真っ先に泣くのは最も弱い人なのです。
 

(草笛 光子/ノンフィクション出版)

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