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《インパール作戦の裏側で》牟田口廉也中将の第15軍がビルマに建てた「清明荘」の正体とは「将校専用の慰安所であり、下士官の慰安所も昼間から…」

文春オンライン / 2024年8月15日 11時10分

《インパール作戦の裏側で》牟田口廉也中将の第15軍がビルマに建てた「清明荘」の正体とは「将校専用の慰安所であり、下士官の慰安所も昼間から…」

牟田口廉也中将 ©文藝春秋

 権力が集中するところに腐敗もまた集中するのはいつの時代も変わらないことだが、それが中央政府から遠く離れた場所で、大きな権力を持つ組織ならばなおさらのことだ。

 第二次世界大戦において日本軍が占領した地域の中で最も西に位置するビルマ(現・ミャンマー)での醜聞はまさにそうだったかもしれない。「史上最悪の作戦」と呼ばれることの多いインパール作戦の悲惨な結果と相まって、ビルマにおける日本軍上層部の醜聞は今も数多く伝えられている。

 日本人に広く知られたインパール作戦のイメージは、ノンフィクション作家の高木俊朗によるところが大きいだろう。『インパール』、『抗命』、『全滅』、『憤死』、『戦死』(いずれも文春文庫)の「インパール5部作」は高木の代表作として知られている。

前線の将兵の死闘の裏で、司令部は何をしていたのか

 このインパール5部作の中で批判的に言及されているのが牟田口廉也中将だ。第15軍司令官としてインパール作戦を主導したが、インパール作戦への否定的評価に加え、司令部のお膝元に料亭を建てて芸者を集めて遊興に浸った等、「愚将」との表現も残る彼のイメージは、高木の著作によるところも大きいとする意見もある。

 こうした高木の著作における牟田口中将の特異なエピソードや個性について、後年になって高木による創作か誇張ではないかという意見も出ていた。高木の記述には出典が明示されていないことも多いためだ。しかし、高木の著作における牟田口中将や彼が率いた第15軍の醜聞は出典を確認できるものも多い。

 また、牟田口中将の連隊長時代に副官を務めた河野又四郎が、戦後に高木の著作を読んで手紙(立命館大学国際平和ミュージアム所蔵)を書いている。

 筆者がその手紙を確認したところ「牟田口将軍の性格については貴書に散見する各種の場面に於ける言動が盧溝橋事件のときと符節を合す如く感ぜられます」と、高木の著作における牟田口中将の性格は自分の知るものと同じだった事を記していた。よく知る人物からも、高木の著作に牟田口中将像に不自然なところはないという評価だった。

 これを踏まえた上で、高木による牟田口中将や第15軍にまつわる著名な醜聞のうち、出典の確認が取れたものや、補完する情報が存在するもの。つまり、確度が高いものを本稿では紹介したい。前線の将兵の死闘の裏で、司令部は何をしていたのか。

 牟田口中将と第15軍の話に欠かせないのが、第15軍司令部の置かれたメイミョウ(現・ピン・ウー・ルウィン)にあった料亭「清明荘」だ。高木の著作には清明荘で遊興に明け暮れる第十五軍首脳たちが描かれている。おそらく、戦時中に外地にあったもっとも知られている料亭だろう。

「メイミョウの清明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し…」

 現在、料亭は遊興飲食を行う料理店というのが一般的だが、風俗営業法が存在しなかった戦前・戦中は性的なサービスもしばしば伴い、それは清明荘も同じだった。

 ある元軍医は清明荘をこのように紹介している。

〈 高級将校のためには軍司令部お抱えの料亭清明荘があり、内地から芸者が沢山きていた。もちろん我々見習士官などのゆける所でなく、各隊の隊長クラスがかち合わないようにスケジュールを決めて遊びにいっていた。うちの病院でも上級者数名が馴染みをつくっていた。曜日が変れば他隊の何某の女になるわけで、これを称して○○兄弟という。

出典:興野義一『一軍医の見たビルマ敗退戦』〉

 では、清明荘はどのような料亭だったのだろうか。高木も引用している第15軍の報道班員だった朝日新聞の成田利一記者は、次のように記述している。

〈 内地では婦人達がモンペに火叩き装束で女らしい生活をかなぐり捨てている時に、メイミョウの清明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し、絹物の派手な着物に白足袋姿で「お一つどうぞ」と酌に出て来る。鳥肉や乙な吸物、口取り、酒は現地製だが日本酒、ウィスキー、ブランデー、板前の腕は大したこともないが、盛りつけの器類は皆内地から運んだ立派な皿小鉢だ。

出典:成田利一「運命の会戦」『秘録大東亜戦史 第3 改訂縮刷決定版』富士書苑〉

 清明荘は内地以上の贅沢な空間であったようだ。しかし、内地ですら窮乏生活をしている中、なぜビルマの山の中でこれほど豪勢な料亭が営業できたのだろうか。当の第15軍司令部で勤務していた下級将校の中井悟四郎は次のように書いている。

〈高級将校の此等遊興費は、機密費なる魔物で支弁されて居たようである。

出典:中井悟四郎『歩兵第六十七連隊文集 純血の雄叫び』〉

 機密費の問題は近年もたびたび政治問題化しているが、戦時中もさして変わらなかったようだ。

「若い男の群に若い女が必要なことは肯けない訳ではないが…」

 戦時中、日本軍が進出した地域に料亭があったところは珍しくない。しかし、料亭にまつわる醜聞は第15軍をはじめとするビルマ方面軍の管轄のものが多く残っている。それだけ高木の著作の影響が大きかったこともあるのかもしれない。しかし、多くの戦地を見てきた軍人が、メイミョウの空気の異様さを指摘している。

 戦時中から「作戦の神様」と称えられる一方で、虐殺への関与や自決強要など、毀誉褒貶の激しさでは帝国軍人の中でもトップクラスといえる辻政信大佐だが、インパール作戦中止から1週間後の1944年7月10日、メイミョウに第33軍参謀として着任する。この時、メイミョウから第15軍司令部は前進しており、そこに第33軍が来た形だ。メイミョウ周辺地形の確認に出た辻は、その光景に違和感を覚える。

〈 仕事始めに早速その日、メイミョウ周辺の地形を一巡すると、緑滴る林間に色とりどりの和服姿でシャナリシャナリと逍遥する乙女の群が目についた。

 中国でも滅多に見られない風景だ。森の中に一際目立つ建物には翠明荘(引用者注:清明荘の誤認か)と書いた看板がかけられてある。将校専用の慰安所であり、その界隈の下士官の慰安所も昼間から大入満員の盛況を呈している。

 陽が陰を呼ぶのは宇宙の真理である。若い男の群に若い女が必要なことは肯けない訳ではないが、インパールで数万の将兵が餓死しているとき、同じビルマのしかも隣接軍でこのような行状が許されるものであろうか。 

出典:辻政信『十五対一 : ビルマの死闘』原書房(1968年)〉

 上記の初出は1950年の酣灯社版だが、旧字が多用されているので原書房版を引用した。記述自体は変わらない。

 辻は他地域と違うメイミョウの空気を目の当たりにし、空気の一新を決意したという。辻の記述は引用に注意が必要だが、この記述の初出は1950年でメイミョウの異様さを指摘するものとしては最古に属する。辻以外にもメイミョウの浮ついた空気を指摘する記述は多く、またそれに辻が不満を公言していたのも、同時期の軍人の記述で確認できる。

慰安婦調達の作戦は電光石火だった

 こうしたメイミョウの空気を醸成した第15軍について、辻は「敵の反抗もないままに各兵団とも居住、慰安の設備に貴重な二年を空費したらしい」と手厳しい。実際、ビルマを制圧してからインパール作戦までの2年間で、牟田口中将が慰安施設の整備に他の司令官より注力していたことを窺わせる証言があった。

 民間の慰安所経営者が慰安婦を連れてラングーン港に着くと、菊兵団(第18師団の通称。第15軍司令になる前の牟田口中将が師団長を務めていた)の橋本参謀が待ち構えており、「師団司令部に連れていく」と有無を言わせず日本人慰安婦を連れ去っていった証言が残っている(西野瑠美子『従軍慰安婦と十五年戦争』明石書店)。

 当時、慰安婦について不文律のランク付けがあり、一番が日本人、次に朝鮮人、中国人ときて、最後に現地人がくるというものがあった。つまり、はるばるラングーンまでやってきた橋本参謀が、一番価値が高い慰安婦を連れ去ったのだ。橋本参謀は牟田口中将のお気に入りとして知られており、牟田口中将の意志を受けて慰安婦調達にラングーンまでやってきたと見るべきだろう。他の部隊に先んじた電光石火の作戦である。

 ここまで示したように、牟田口中将の醜聞に関しては、複数の証言から裏付けられるものも多い。しかし、彼だけに、そして彼が指揮した第15軍だけに問題があったのだろうか。後編では、第15軍の上位部隊であるビルマ方面軍全体に視野を広げてみよう。

(石動 竜仁)

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