中央線“ナゾの終着駅”「高尾」には何がある? 山までは歩いて1時間かかるけど…
文春オンライン / 2024年8月13日 6時20分
![中央線“ナゾの終着駅”「高尾」には何がある? 山までは歩いて1時間かかるけど…](https://media.image.infoseek.co.jp/isnews/photos/bunshun/bunshun_72845_0-small.jpg)
毎年8月11日は、「山の日」らしい。
旗日なのだから「らしい」などという次元の話ではないのだが、なんだか他の祝日と比べると存在感が薄い気がする。個人的に登山を趣味にしていないから、というのはあまり関係ないだろう。もともと8月11日がお盆時期とかぶっているから、ことさら祝日であることを意識することがない。だから、「山の日」は、地味なのだ。
などといったところで、山の日があろうがなかろうが、夏は登山のシーズンである。猫も杓子も、日本人も外国人も、あちこちの山にやってくる。まとまった休みが取れなかったり、本格的な登山まではご遠慮願いたいという向きも、日帰りで手近な山にハイキング、くらいはするのではなかろうか。
たとえば、東京の人ならば、高尾山。サルもいるしビアガーデンもあるしソバも美味いし、高尾山はいうまでもなく東京都民にとって特別な山だ。
中央線“ナゾの終着駅”「高尾」には何がある?
そういうわけで、中央線の「高尾行き」に乗った。電車の中には、そこそこ張り切ったハイキング姿のお客もちらほらと。東京駅から高尾駅まで、中央特快なら1時間ほど。普通の快速電車でも、1時間15分ほどで高尾駅に着く。
高尾駅は、いわゆる中央線快速電車、オレンジ色の中央線にとっての終着駅だ。他にも豊田行きや武蔵小金井行き、はたまた高尾駅を超えて大月行きなどもあるが、東京の人に「中央線の終点は?」と聞いたらだいたいが高尾駅と答えるに違いない。
そんな高尾駅、2面4線のホームと広々とした構内を持ち、3・4番のりばのホームには、巨大な天狗面が鎮座している。高尾山といったら天狗、天狗といったら高尾山。すでに大正時代の頃には、高尾山の土産物として魔除けの天狗面が人気を集めていたという。ホームの上の天狗面は1978年に設置されたとか。
そして、高尾駅の駅舎はこれがまたまあ実に立派な面構え。寺社建築をイメージさせる風格ある木造の建物で、いかにも高尾山の玄関口らしさを醸している。駅舎の脇にはなんだかオシャレな店舗が並び、駅前広場は大きなバスロータリー。そして、駅前の道を少し北に下りてゆくと国道20号、すなわち甲州街道だ。
と、なんだか登山気分が盛り上がってきますが…
……と、なんだか高尾山気分が盛り上がってきたところではあるけれど、ご存知の通り高尾駅、高尾山の登山口に直結している駅ではない。
高尾山の登山口は、高尾駅から京王線に乗り換えてひとつお隣、高尾山口駅だ。高尾山口駅は、かの隈研吾氏の手がけたデザインの駅舎で、温泉施設も併設されているというなかなかたいそうなもの。駅の周りの雰囲気ともあわせて、だいぶんそちらのほうが“高尾山の玄関口”にふさわしい。
いっぽうで、高尾駅はどうだろう。北口の駅舎は例の通り寺社建築風の立派な設えだし、どことなく「いざ、ハイキング」のムードも漂う。けれど、実際にここから高尾山の登山口へ向かおうとするならば、ざっと1時間近くは歩かねばならぬ。
いくら高尾山、ケーブルカーもあるとはいっても山は山。1時間歩いたあとに登るのは大変そうだ。バスに乗って、という手もあるが、だったら最初から京王線に乗り換えれば済む話。
というわけで、高尾駅。高尾山から名前を頂きつつも、微妙に高尾登山の玄関口とは少し違い、かといってやっぱりこの駅に降りれば高尾山ムードは漂っているわけで、つまりはなんともいえないポジションの駅なのではないか、と思うのである。
駅前の道は甲州に、そして新宿につながっている
さっそく、高尾駅前を歩く。といっても、高尾駅北口正面の道を下れば、すぐに甲州街道である。この道を、ずーっと東に辿っていけば、八王子や府中を経て味の素スタジアムをうかがい、新宿へ。西に辿れば、山を越えて文字通りの甲州へと続いている。
この甲州街道を渡った向こう側には、南浅川という小さな川が流れている。南浅川の向こう側にはもう小高い山が聳える。この山の中腹にあるのが、武蔵陵墓地だ。大正天皇・貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后の陵墓が造営されている皇室墓地。明治天皇陵は京都・伏見桃山にある。関東地方にある天皇・皇后の陵墓はここだけだ。
つまり、高尾駅は武蔵陵墓地の最寄り駅たる役割を持っている、というわけだ。
そういえば駅舎がずいぶん立派でしたが、その理由にも実は…
実は、立派な面構えの駅舎も皇室と深い縁がある。
いまの高尾駅の駅舎は、1927年に建てられた。ただし、その場所は高尾ではなく、新宿御苑の仮停車場だ。大正天皇の大喪の儀に際し、武蔵陵に向けて大喪列車が出発する駅として建設された。
その後、駅舎が武蔵陵に近い高尾駅(当時は浅川駅)に移され、いまに続いている。総ヒノキ造りの立派な駅舎は、こうした経緯で高尾にやってきた。その意味では、高尾山の玄関口というよりは武蔵陵の玄関口というほうがしっくりくるのかもしれない。
駅前に戻って線路際の道を少し東に向かって歩く。すると、普通の道路とは少し違って、妙にくねくねとした遊歩道のような道に出る。小さな住宅がひしめくような中をくねりくねりと進んでゆくと、熊野神社という立派なお社の脇を抜けて甲州街道へ。
甲州街道を渡った向こう側、ちょうど同じ場所には橋の欄干があるから、どうやらこの遊歩道は川にフタをするように設けられたものらしい。甲州街道沿いには「高尾駅への近道」といった案内があったから、まさにそのための遊歩道なのだろう。
甲州街道に出ると、こちらは立派ないちょう並木になっている。さすが天下の国道20号、道幅も広ければ街路樹も荘厳で、交通量も多い。
そして、この甲州街道の脇から北側に、並行するように少し細めの道が分かれてゆく。旧甲州街道ですよ、ということを示す案内板を見つけた。きっと、江戸の昔はこちらの細い道が甲州街道で、甲府と江戸を行き来する人たちが通っていたのだろう。いちょう並木の甲州街道はいわば新道だ。
旧道と新道が合流するあたりに何やら奇妙なオブジェが建っている。これは…
せっかくなので、旧甲州街道を歩いて東に抜けてみる。
旧道だからといって特別なことはほとんどなく、古い建物をセットバックでもしたのか、道幅も旧道というには広めだ。カーブを描くようにして進んでゆき、10分も歩くと再び甲州街道と合流する。この区間だけ、いったいどうして旧道と新道が分かれているのかはよくわからない(むしろ、旧道が直線的でないことが不思議だ)。
旧道と新道が合流するあたりには、何やら奇妙な形をしたオブジェが建っていた。近づいて見ると、なんと1964年の東京オリンピックに縁深いものだった。なんでも、このあたりが自転車のロードレースのコースになり、それをきっかけに住民たちによる環境美化運動が行われたのだとか。
で、その運動の一環として、当時の浅川中学校の生徒たちによって制作されたのがこのオブジェ。なるほど、東京の端っこ、なんていうイメージの高尾の町も、戦後の東京が通ってきた「オリンピック」という一大イベントには深く関わっていたのだ。
かつてあった「皇室専用の駅」と平成の過激派テロ
そんな新旧甲州街道の合流地点から、さらに少し東に向かって甲州街道のいちょう並木を進む。同じような立派ないちょう並木の大通りと交わる交差点の名は「多摩御陵入口」。ここを左に折れると、武蔵陵墓地の参道になっているようだ。実際、交差点の端っこには「武蔵陵墓地参道」と書かれた碑が建っている。
反対に東に曲がると、すぐに行き止まり。鉄の門扉の向こう側には空き地が広がり、その真ん中には1964年の東京オリンピック自転車競技の記念碑がぽつんと建つ。空き地の奥は、もう中央線の線路だ。
この場所は、かつて東浅川駅があった場所だ。東浅川駅は、高尾駅の駅舎と同じ、大正天皇の大喪の儀にあわせて設けられた。高尾駅の駅舎は新宿御苑の仮停車場で、大喪列車の出発駅。反対に、東浅川駅はその終着駅として設置された皇室専用の駅である。
東浅川駅は大喪の儀が終わってからも存続し、天皇皇后両陛下が御陵に親拝する折には原宿駅の宮廷ホームから東浅川駅まで御召列車を使ったのだとか。1960年に東浅川駅は廃止されてしまうのだが、その頃からは自動車を使うケースが多くなったようだ。御召列車を使う場合は高尾駅が御陵の玄関口になっていた。
こうしたことからも、まさに高尾の町は御陵の町といっていい。ちなみに、東浅川駅の駅舎は駅廃止後も八王子市の所有に移って使われていたが、平成のはじめに過激派のテロにあって焼失している。
忘れてはいけない「高尾」の“もうひとつの駅”
まさに歴史的エピソードの宝庫といっていい、高尾駅。ただ、忘れてはいけない。高尾駅という名を持っているのは、中央線ばかりではない。京王線にも高尾駅がある。どちらも隣接していて連絡改札まであるのだから、事実上同じ駅だ。ただし、中央線が地上駅なのに対して、京王線の高尾駅はそれを見下ろす高架駅。中央線のすぐ南側に建っている。
こんどは、京王線の高尾駅の周りを歩いてみよう。こちらは中央線とは違って終着の列車があるわけでもないから、ただの途中駅だ。それでも、中央線と京王線の乗り換え駅だから要衝といえば要衝である。
そんな京王線高尾駅の出入口は、南側だけにある(連絡改札を経て北側のJR駅舎からでることもできる)。
駅の外に出ると、いきなり見えてくるのは高架下のドトールコーヒー、正面には京王ストア。その先にも商業施設が続いていて、グルメシティまで見えてくる。高架をくぐった南側には立派なロータリーがあって、その周りにはサイゼリヤにモスバーガー。あたりを見渡すと、大きなマンションがいくつも建ち並んでいる。
行き交う人々は、近くの高校からの帰宅途中とおぼしき学生さんに、買物に出かけた主婦、はたまた大学生ふうの若者グループ。高尾山ムードむんむんの北口とは、まったく違った雰囲気だ。
少し歩いて東側に向かい、京王線の高架をまたくぐると、こちらにも大きな商業施設が並んでいる。それを除くとあたりはまったく住宅地。駅の近くには比較的一戸建てが目立つが、巨大マンションも圧倒的な存在感を放っている。
つまり、高尾駅のもうひとつの顔は、「住宅地」なのだ。
79年前の夏、この町に悲劇が起きた
京王の高尾駅は、京王高尾線の駅だ。もともと京王電鉄は、戦前に武蔵陵へのアクセスのために御陵線という路線を建設していた。御陵線は1945年1月に営業を休止していたのだが、戦後になって世情が落ち着くと、その復活を求める声があがりはじめる。そして、同時に高尾山の登山口へのアクセスをより強化するための路線建設も求められるようになる。
こうした声の高まりを受け、京王さんは御陵線の一部を再利用しつつ、途中で分かれて高尾山の麓のケーブルカーのりば前までの路線建設を決定。そして、同時に沿線の住宅地開発も進めることになった。京王高尾線が開業したのは1967年のこと。これによって、東京都心から高尾山の登山口までが鉄道で直結することになった。
戦前には、高尾駅(なお、浅川駅から高尾駅に改称したのは1961年)から登山口までの道筋には40軒を越える休憩所や飲食店が建ち並んでいたという。京王高尾線開業によって、そうした町並みも大きく変わったのだろう。そして、都心直結、それも中央線と京王線という二つの交通手段があって、始発駅だから決まって座ることができる高尾駅。ベッドタウンが西へ西へと拡大していく中で、駅周辺が住宅地化するのも必然だったのだろう。
このように、高尾駅は立派な駅舎が意味を持つ、高尾山の玄関口と武蔵陵墓地の玄関口。加えて、京王高尾線の到来によって刺激を受けて広がったベッドタウン。そうしたいくつもの顔を持つ町なのである。
最後に、もういちど北口に戻る。駅前の甲州街道を西に進んでゆくと、15分ほどで中央線を潜る。このあたりで再び新道と旧道は別の道。高尾山を左に見ながら旧甲州街道を歩いて、もう少し西に向かおう。
いかにも旧街道らしい雰囲気に、「小仏関跡」という関所の跡。入鉄砲に出女、などという言葉が頭に浮かぶ。そしてさらに西へ。見えてくるのは、中央自動車道と圏央道が交差する八王子ジャンクションだ。この付近は、79年前の夏の悲劇で、歴史に刻まれている。
写真=鼠入昌史
〈 「車内はまさに凄惨そのものだった」アメリカ軍戦闘機が中央線の満員列車を銃撃…60人が殺された“終戦の10日前” 〉へ続く
(鼠入 昌史)
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