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「車内はまさに凄惨そのものだった」アメリカ軍戦闘機が中央線の満員列車を銃撃…60人が殺された“終戦の10日前”

文春オンライン / 2024年8月13日 6時20分

「車内はまさに凄惨そのものだった」アメリカ軍戦闘機が中央線の満員列車を銃撃…60人が殺された“終戦の10日前”

〈 中央線“ナゾの終着駅”「高尾」には何がある? 山までは歩いて1時間かかるけど… 〉から続く

 まだ京王線の高尾山口駅がなかったころ。高尾山を登ろうとする人たちは、まだ浅川駅といった中央線の高尾駅から歩いた。駅前から甲州街道を辿ってゆく。いまはごく普通の、つまりは特別目に留まるようなものがあるわけでもない道だ。国道20号、天下の国道だから、交通量はそこそこに多い。

 でも、ひと昔前にはたくさんの飲食店や旅館などが建ち並んでいたという。高尾山が東京近郊の行楽地として本格的に注目されはじめたのは、大正から昭和のはじめにかけて。ちょうど、浅川駅の近くで武蔵陵墓地の造営がはじまっていた時期のことだ。高尾山のケーブルカーが開業したのは昭和2年、1927年である。

 ただ、今回は高尾山には向かわずに、甲州街道が中央線の下を潜ってすぐの交差点を右に曲がることにする。この道が、昔の甲州街道だからだ。

甲州街道には日本のいろんな歴史が詰まっている

 旧甲州街道沿いのいまは、言うなれば住宅地だ。駒木野庭園という立派な庭園があったり、その隣に駒木野病院というこれまた立派な病院があったり。住宅地の中を抜けた少し南には南浅川が流れている。何かの抜け道なのか、そこそこの交通量。定期的にバスがやってくるから、バス通りという一面もあるのだろう。

 さらに西に進んでゆくと、小仏関跡の碑。戦国時代、北条氏が関東一円を治めていた時代にはもう少し進んだ先の小仏峠に置かれ、富士見関と呼ばれていたという。たぶん、小仏峠からは富士山が見えるのだろう。

 江戸時代に入ると、徳川幕府が五街道を整備する。甲州街道もそのひとつで、小仏峠の麓の東側に移された関所は、道中奉行の支配のもとで、江戸の出入りを厳しく管理する役割を果たした。

 いまではもちろん手形がなくても関所で足止めされることはない。少しずつ、どことなく歴史風情を増してゆく旧甲州街道を西へ。すぐ北側には並行して中央本線が通り、南側には南浅川。見上げれば、左手の山は高尾山、右手の山にはかつて八王子城が置かれていた。

 八王子城は、小田原城の支城として北条氏によって築かれた。豊臣秀吉による小田原征伐の折には、わずかな武将と農民や婦女子が籠もって籠城戦。前田・上杉・真田といった豊臣諸将による攻撃にはおよそ耐えられず、麓の村では川の水で炊いたら米が赤く染まるほど、凄惨を極めたという。

79年前、この町で悲劇が起きた

 そんな歴史の舞台と、北条氏、ついで徳川氏にも勝手な伐採を禁じられて保護されてきた霊験あらたかな高尾山が、旧甲州街道と中央本線を挟んで向かい合う。いまは、旧道や中央本線とおなじところを、中央自動車道も通っている。

 中央自動車道は、旧甲州街道や中央本線の真上で圏央道と交差している。八王子ジャンクション。旧甲州街道を歩いていると、遥か頭上にそのジャンクションが異様なまでの圧迫感で見えてくる。高尾山と八王子城と甲州街道、中央線。このまま旧甲州街道を進めば、小仏峠を越えて山梨県へと入ってゆく。

 それは中央線とて同じこと。小仏トンネルを抜ければ富士山の入口、大月へ。そして笹子トンネルを抜ければ甲府盆地へとやってくる。けれど、その手前、八王子ジャンクションの真下にも、小さなトンネルがひとつある。湯の花トンネルという。79年前の夏、8月5日。この場所で、悲劇が起きた。

その列車は10時10分に新宿駅を発った

 1945年8月。いまから振り返れば、戦争がもうすぐ終わるということはわかっている。けれど、その時代を生きていた人たちは、いつ戦争が終わるかなど知りようもないことだ。日本中が空襲にさらされ、大都市ならずともその標的になった。高尾山があるいまの八王子市も、8月2日の未明にB29のターゲットになっている。

 そんな中でも、鉄道は走り続けていた。中央本線も1日10往復。1945年6月20日という終戦が押し迫った時期でも、それくらいの運転本数が確保されている。八王子空襲直前の8月1日には、浅川(高尾)~大月間に1往復増発されている。

 当時の新聞には、「中央線通勤者の便を計つて」とあるから、県境を越えた通勤需要も少なからずあったのだろう。甲州方面に疎開している人が多かったという事情も関係しているかもしれない。

 しかし、八王子空襲によってそんな中央本線も寸断されてしまう。それでもすぐに復旧させていたのが、この時代の鉄道マン。空襲からわずか3日後の8月5日には、中央本線は全面復旧している。

 もちろん、いまの安全水準から見れば足許にも及ばない次元だっただろうが、いかなる状況でも列車を走らせ続けようという、当時の鉄道マンたちのプライドが垣間見える。

 その列車は、10時10分に新宿駅を出発、中央本線から篠ノ井線に入り、19時27分に長野駅に到着するダイヤだった。ただ、さすがにいくら誇り高き鉄道マンでも、当時の状況で定時運転をするのは至難の業。実際に新宿駅を出発したのは、10時30分頃だったという。おおよそ20分ほどの遅れだ。

「列車を待ったが、それがなかなか来ない。そのうちに空襲警報が出た」

 遅れを取り戻すことはできず、八王子駅も20分ほどの遅れで出発。浅川駅には、ちょうど正午くらいに到着した。『旋風二十年』など、戦時中から戦後の日本社会をつぶさに書き残した著作で知られる毎日新聞の記者・森正蔵もこの列車に乗っていた。そのときのことを、彼は次のように書く。

〈「浅川駅で江口と話し合いながら列車を待ったが、それがなかなか来ない。そのうちに空襲警報が出た。房総半島方面からB29に誘導されたP51の一編隊が続々関東地区へ侵入してきたのである。ラジオ報道はその編隊が八王子方面へも向かっていることを報じた。そして僕たちとともに浅川駅で列車を待っている旅客たちに待避の要求を駅長が出したのは、それから間もないことであった」(『挙国の体当たり』より)〉

 つい数日前に八王子の市街を焼き尽くした敵機が、またも八王子方面にやってきた。この頃の空襲は、端からみれば手当たり次第といった具合だったから、なぜ浅川駅まで飛んできたのかはわからない。ただ、浅川駅近くには軍需工場の中島飛行機浅川工場があったから、そうした事情も関係しているのかもしれない。

戦争末期でも人の移動は活発だった当時、激混みの列車はトンネルにさしかかった

 戦争末期、一般の人々の旅行は厳しく制限されていたという。ただ、実際には山梨・長野方面に工場ごと疎開していたケースも多く、また疎開先から都心に通勤する人もいるなど、人の移動は活発だった。疎開先の親戚を訪ねたり、また空襲の被害を案じて疎開先から都心に様子を見に来たり、出征する家族を見送りに来たり。森正蔵も、家族が疎開している甲府に向かう途中だった。

 ともあれ、そんなわけで列車は鈴なりの人。その列車は電車ではなく電気機関車、つまり先頭の機関車が後方の客車をひっぱる列車だった。

 ただ、客車だけでは乗り切れないほどで、デッキはもちろん連結器の上に跨がったり、機関車の中に押し込まれたりと、文字通り溢れんばかりの人を乗せていた。ドアから乗り込めずに窓から乗るほどの混みっぷり。いまの時代の満員電車なんてかわいいほどの、激しい混雑だった。

 列車は15分ほど浅川駅に停車してから出発した。防空警報が出ている最中ではあったが、浅川駅を出て少し走れば短いながらも湯の花トンネルがある。さらにその先には長大な小仏トンネルが控える。いつまでも駅に停まっていてP51の標的になるくらいなら、とにかく出発してトンネルに入る方が安全だと考えたのだろう。

 浅川駅を出発し、5分ほど走って列車は湯の花トンネルにさしかかる。しかし、ここで敵機に発見された。4機のP51が上空で旋回しながら急降下。まずは機関車に狙いを定めて機銃掃射を仕掛ける。まったく無防備な列車は、敵機に対抗する術を持たない。襲撃を受けて急ブレーキをかけ、2両目までがトンネル内に入ったところで停車した。

銃撃された客車、50名の犠牲…「中は、まさに凄惨そのものだった」

 ここで走り続けていたら2度目の攻撃はなかったかもしれない。しかし、それは絵に描いた餅といっていい。電気機関車が走るためには架線から電気をもらう。その架線が敵機の機銃掃射で断ち切られれば、どうしたって列車は走れない。

 そして、停まった列車にたいして2度目の攻撃が行われる。1度目の攻撃からは数十秒ほどしか間がなかったという。列車のいわば心臓部である機関車はトンネルの中。P51はむき出しになった満員の客車に集中的に銃撃をする。

 車外に逃げたものの、それが裏目に出た人も少なからずいた。機銃掃射を跳ね返すほどの防御性能を持った客車が走っているわけもなく、すし詰めの車内のお客たちはなすがまま。そうしてわずか数分の間に、50名ほどの乗客が犠牲になった。

 機銃掃射を終えたP51が飛び去ったあとの客車の中は、まさに凄惨そのものだったという。銃撃で即死した人が血を流しながら横たわり、その脇には重傷を負った乗客が倒れている。荷物も散乱し、放心状態のお客も少なくない。ほうほうのていで逃げ出した人たちが列車の周囲に散らばっている。

 ほどなく、地元・浅川の住民や警防団員たちによる救助活動がはじまった。

 ちなみに、客車から逃げ出していた森正蔵は、このときに土産の入ったリュックサックと風呂敷が車内にあることを思い出し、取りに戻っている。このあたりに、日常と非日常の狭間にあった当時の人々の生き様がうかがえる。

終戦まであと10日の夏の日、60人が命を落とした

 重傷者は戸板に乗せて運び出され、旧甲州街道沿いの民家の庭先に並ぶ。たまさか中島飛行機の工場疎開の輸送をしていたトラックがあり、それらによって中島飛行機の病院やいまは駒木野病院になっている当時の小林病院などに運ばれてゆく。

 すぐに遺族や関係者に引き取られなかった遺体は49体に及び、8月6日になってからトラックで近くの日影沢に運ばれ、そこで荼毘に付されている。即死しなかった重傷者でも、数日後までに亡くなった人もいた。彼らを含めれば、実に60名ほどが命を落としたという。終戦まであと10日。真夏の真昼の悲劇であった。

 この銃撃事件によって、とうぜん中央本線は再びの運休になっている。ただ、ここでも鉄道マンの意地なのだろう、すぐに八王子駅からSLが差し向けられて、停車したままの被害列車を浅川駅に牽引。架線などの修繕も終え、夕方の17時15分には運転を再開している。

 いま、この悲劇の舞台となった湯の花トンネル付近を訪れると、何ごともなかったかのように列車が行き交っている。特急「あずさ」が颯爽と駆け抜けたかと思えば、各駅停車がその合間にやってくる。

 小さな踏切が、線路の北と南を結んでいる。その周りは、小さな畑が集まっているようなところ。旧甲州街道沿いまで降りてくると、そこには旧道らしい道が続く。

 線路端の畑も、静かな旧甲州街道も、そのときにはどれだけの悲鳴と慟哭に包まれたのだろうか。

 旧甲州街道を歩いてこの場所までやってくると、「いのはな慰霊碑入口」と書かれた看板が見えてくる。この看板に導かれるように畑の中を歩いて登ってゆくと、線路のすぐ脇に「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」が静かに佇んでいる。

 その場所から後ろを振り向けば、高尾山。慰霊碑に供えられた花が、戦争末期の悲劇をいまでも忘れられていないことを教えてくれる。

写真=鼠入昌史

(鼠入 昌史)

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