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〈史上最後にして最大の海戦〉「レイテ湾海戦におけるふたつの重大な失敗は…」第二次世界大戦で日本軍が犯してしまった“致命的勘違い”の実情

文春オンライン / 2024年8月15日 17時0分

〈史上最後にして最大の海戦〉「レイテ湾海戦におけるふたつの重大な失敗は…」第二次世界大戦で日本軍が犯してしまった“致命的勘違い”の実情

五つ星の海軍元帥への昇進にともなって、終戦後すぐに撮影されたウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督の公式ポートレート(写真=『太平洋の試練 レイテから終戦まで』より)

〈 目に涙があふれ、悲痛な泣き声を漏らし「まるで顔を殴られたように言葉を失った」…米軍提督をギリギリまで追い詰めていた日本軍がアメリカへの攻撃を止めた“意外すぎる理由” 〉から続く

 史上最大の海戦ともいわれ、事実上、日本軍連合艦隊の最後の組織的な戦いとなった「レイテ湾海戦」。1944年10月、栗田提督率いる中央艦隊はサマール島沖で千載一遇の勝機を前にし、ついに大和の主砲が火を噴く。しかし空母群との追撃戦は膠着状態に陥り、栗田はレイテ湾に突入しないまま、反転避退を指示した。

 一方、囮の小沢艦隊に食いついて北方に全部隊を移動させていたハルゼーは急遽反転するが、避退する栗田艦隊の末尾をかろうじて捉えたのみに終わった。ハルゼーの誤算と栗田の失策。どちらかが違う決断を下していれば、その後の太平洋の戦いは違うものになったのだろうか? 

 米国の詳細な資料から、「アメリカ側から見た太平洋戦争」の全てを描き切った巨編ノンフィクション『 太平洋の試練 レイテから終戦まで 』(上下/イアン・トール著、村上和久訳/文藝春秋)より、一部を抜粋してお届けする。〈全3回の3回目/ はじめ から読む〉

◆◆◆

 史上最後にして最大の、もっとも詳細に研究された海戦であるレイテ湾海戦は、独自のサブジャンルである。何世代もの研究者が自分の意見を述べてきたが、新しい先駆的な寄稿論文が毎年登場し、さまざまな論議はいまも活発な討論の対象となっている。これはとくに、ハルゼーと栗田の論議を呼ぶふたつの決断にあてはまる――全部隊を北へ持っていくという10月24日夜のハルゼーの決断と、攻撃を中止するという10月25日朝の栗田の決断に。

 はじめてこの海戦の重要な歴史書を著したC・ヴァン・ウッドワードは、「レイテ湾海戦におけるふたつの重大な失敗は、アメリカの短気者と日本のハムレットのものであると正当に考えられる」と断じている。アメリカ側から見ると、反転するという栗田の決断は幸運にも、サン・ベルナルディノ海峡を守らなかったハルゼーの失敗を帳消しにした。代数方程式の対立項のように、ふたつの失態はおたがいに打ち消しあったのである。

栗田艦隊の混沌とした状況

 午前9時25分に護衛空母の追撃を中止したあと、栗田は各艦を呼び寄せ、輪形陣の戦闘隊形に再集合させた。これは命ずるのはやさしかったが、実施はそう簡単ではなかった。視界は依然として嘆かわしく、無線通信は不安定で、容赦ない航空攻撃は中央部隊を襲いつづけていた。艦隊の隊形を組み直すのにはゆうに2時間かかり、そのあいだにも、新たな触接報告や無線傍受が殺到して、混沌とした印象をいっそう強めた。北方にもう一隊のアメリカ機動部隊がいるという執拗な報告は、自分たちが包囲されているという感覚を日本軍にあたえたが、敵艦はその方角に現われなかった。

 11時20分、栗田は南西に針路をさだめ、一時的にレイテ湾に突入しようとした。その30分後、見張り員が南方の推定距離39キロの水平線にペンシルヴェニア級戦艦とほか4隻のマストが見えると報告した。これはオルデンドーフ艦隊ではありえなかった。オルデンドーフはまだレイテ湾の南方にいて、あたりにはほかに戦艦はいなかった――あきらかに、これはまたしても幻影だったにちがいない(栗田は大和の水上機を調査のために送ったが、どうやら撃墜されたようだ)。

逡巡する栗田提督

 午後1時13分、栗田はまたしても気を変えて、北へ針路を戻した。今回はべつのアメリカ空母群を発見するのを願って、サマール島の沿岸を進むつもりだった。その存在は、キンケイドの平文の送信を傍受することで推測されていた。栗田の中央部隊は、航行中さらに数次の航空攻撃を撃退しながら、数時間、北上した。栗田は2時間以内に敵機動部隊と触接すると予期していたが、マストトップの見張り員があらゆる方角の水平線を見まわしても、敵艦の姿はなかった。燃料の配慮が彼の心に重くのしかかりはじめた。

 じきに燃料がたりなくなって、コロン湾にたどりつくことはおろか、アメリカ軍の航空攻撃にたいして回避運動をすることさえできなくなるだろう。もし引き揚げるなら、いまが最後の機会だ。午後6時30分、夕暮れが迫るなか、栗田は戦闘を切り上げ、サン・ベルナルディノ海峡を目ざすことを決断した。

説明や言い訳は混乱し、矛盾していた

 栗田はレイテ湾に突入してアメリカ輸送艦隊と上陸拠点を攻撃せよと、直接、はっきりと命じられていた。一隻残らず全滅する危険を冒してでも進みつづけるよう明白に指示されていた。彼はなぜそうしないことを選んだのか?

 栗田提督自身と彼の支持者たちがあたえるさまざまな説明や言い訳は、はじめから混乱し、矛盾していた。彼は自分の艦隊にたいする航空攻撃がしだいに激しさと有効性を増していて、「レイテ湾の狭い水域では、艦隊が展開する余地がありません。それと比べて外海では、同じ攻撃を受けるにしても、進退の柔軟性をもった強力な戦闘部隊になることができると思います」と語った。

 彼の通信班は航空支援を要請するアメリカ軍の無線送信を傍受していたので、彼は航空攻撃がもっと激しく、もっと多くなると予期していた。さらに、帰国するための燃料を割り当てていなかった。

「したがって、燃料はもっとも重要な問題でした。基本的な問題でした」

 栗田はアメリカ水陸両用艦隊の大部分がおそらくもう湾から引き揚げていると思っていたので、「だから以前ほど重要ではないと思いました」とつけくわえた。大和はアメリカの機動部隊がスルアン灯台の北方113海里にあるとする謎めいた報告を受け取っていた。栗田は、この触接が第三艦隊のべつの空母群にちがいないと思い、それが自分に向けて航空攻撃隊を発進させる前に砲撃の射程圏内にとらえることを願って、この触接のほうへ向かったほうがいいと考えた。

 おそらくことの顛末がわかることはないだろうが、これだけはあきらかだ。栗田は疲れ切っていた。3日前、ブルネイを発って以来、彼は一睡もしていなかった。旗艦愛宕はパラワン水道で彼が座乗中に撃沈され、55歳の海軍中将を海に浸からせ、命がけで泳がざるを得なくした。彼の麾下の各艦は、艦隊がかつて海上で遭遇したなかでもっともたえまない航空攻撃を受け、味方の航空掩護は皆無だった。

 栗田は、アメリカ人やジャーナリストたち、その他部外者たちに、自分の疲労が、急に向きを変えて逃げるという自分の決断になんらかの役割をはたしたと認めるのをいやがった。同僚たちとの内輪の会話では、彼はもっと率直だった。彼は古参の駆逐艦長、原為一に、「疲労困憊していたせいであの重大な失敗を犯した」と語った。幕僚も同じように疲れていたにちがいない。彼らも長い試練をわかちあい、決断に異議を唱えなかったからだ。

ハルゼーは誤りを認めなかった

 ハルゼーは、自分が1944年10月24日の夜、サン・ベルナルディノ海峡を無防備のままにしたことでまちがいを犯したと認めることなく墓場へ行った。自分の唯一のあやまちは、小沢の空母群がもう少しで射程圏内に入るというときに反転したことだ、と彼は聞く耳を持つ人間には誰にでもそう語った。

 カーニーと第三艦隊幕僚はこの公式見解に立ちつづけたが、事実上すべての空母群および機動部隊指揮官は自分たちの長が大失敗をしたと確信していたし、彼らのささやき声は後方のグアムやウルシー、マヌス、真珠湾、そしてワシントンでたちまち広まった。

(イアン・トール/ノンフィクション出版)

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