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デザイナー→ラジオ出演→“リアクション芸”でブレイク…怪談家・稲川淳二(77)の“異色の経歴”を知っていますか?

文春オンライン / 2024年8月21日 17時0分

デザイナー→ラジオ出演→“リアクション芸”でブレイク…怪談家・稲川淳二(77)の“異色の経歴”を知っていますか?

稲川淳二 ©文藝春秋

 夏といえば怪談、怪談といえばこの人、稲川淳二は今夏も恒例の怪談ツアー「稲川淳二の怪談ナイト」で全国各地をまわっている。ツアーを始めたのは1993年で、すでに30年以上が経つ。今年のツアーには「怪談喜寿」とのサブタイトルがついているとおり、稲川は今年77歳の喜寿を迎えた。きょう8月21日が誕生日である。

怪談の仕事が増えた理由は…

 今年は稲川が芸能界にデビューしてから50年の節目でもある。子供向けのテレビ番組に始まり、ラジオの深夜番組『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)にも後述するようにひょんなことから出演するようになる。怪談はその頃、ニッポン放送の局内で暇なときに話していると、芸能人やそのマネージャーが集まって聞いてくれたので、《放送でも話してみたら、信じられないくらい反響があって、怪談の仕事が増えていった》という(『THE21』2019年9月号)。

 稲川の怪談の原点は、子供の頃、母親から夜寝る前によく怖い話を聞かせてもらったことにある。子供たちを楽しませようと、擬音を交えるなどした母の語り口は、彼にしっかりと引き継がれている。

学生時代についた肩書きは「コンパ屋」

 東京出身の彼は小学校のころから話し好きで、雨で学校の校庭で遊べないときなど、教室でよく友達に頼まれては、怪談ばかりでなく、親に吹き込まれたというバカ話などを得意になってしゃべり、大ウケを取っていたという(『週刊文春』2022年7月7日号)。

 専門学校の桑沢デザイン研究所に在学中も、講師が3時間の講義を1時間ほどで終わらせてしまったので、稲川は残りの時間を自分にくれませんかと頼むと、教壇に上がっていきなりバナナの叩き売りの真似を始めたかと思えば、続けて落語と、次々と芸を披露して同級生たちを楽しませたことがあったという(『BIG tomorrow』1992年6月号)。この時代には毎日のようにコンパを開き、彫刻の先生から「コンパ屋」という不名誉な肩書をもらうほどだった。

 そもそも桑沢デザイン研究所に入ったのも、子供の頃から絵を描くのが得意だったので高校時代に画家を目指して美術大学を受けようとしていたところ、予備校の講師から「おまえのようなおしゃべりなやつは絵描きに向かない。デザイナーがいいぞ」と勧められたのがきっかけだった。

 いざ桑沢に入ると絵がうまい学生がたくさんいたため、稲川は立体のほうに行くと決め、工業デザインの道に進んだ。卒業後は友人から誘われて、グラスファイバーを扱っていた浜松のデザイン会社に入り、浜名湖畔のマリーナやモーターボートなどのデザインを手がけた。しかし、その夏に東京から遊びに来た友人たちが帰ったあとで急に里心がついてしまい、秋には帰京して、知人のデザイン事務所に嘱託として勤め始める。

デザイン事務所では宴会芸を身につけ、場を盛り上げていた

 このころ、宴会芸を身につけ、取引先のメーカーの部長などからお座敷での商談の席に呼ばれるようになる。商談が成立すれば、稲川にもデザインの仕事のチャンスが回ってくるとあって、宴席ではパンツ姿でいろんなポーズを披露して商談の相手を笑わせたり、ヨイショしたりして、場を盛り上げた。そして頃合いを見計らい、事前に用意していた製図を見せると、たいていの相手は気に入ってくれ、仕事が即決したという。

 同時期には、かねてより興味のあった舞台美術に携わるようになる。そこでは演出家から頼まれて、舞台の幕間で小咄をしたり、劇団のマネージャーを務めることもあった。これが芸能界にデビューするきっかけになるのだから人生はわからない。

 マネージャーとして劇団の役者たちに付き添い、日本テレビの子供番組『まんがジョッキー』のオーディションへ行った際、たまたまその番組の担当に「コンパ屋」時代に知り合った放送作家がおり、話しかけてきた。話しているうちに流れで稲川もオーディションを受けることになる。役者たちの結果がどうも芳しくなさそうだったので思わず奮起したところスタッフに大ウケし、さっそく出演がきまったという(『週刊文春』前掲号)。このとき彼は27歳になろうとしていた。

結婚式の司会がきっかけで『オールナイトニッポン』に出演

 それから2年ほどして、友人から結婚式の司会を頼まれた。教会での挙式中、賛美歌を稲川は音痴なのに一人声を張り上げて歌っていると、歌詞に読めない字が出てきて詰まった途端、誰かが思わず吹き出し、それに釣られてみんな笑い出した。おかげで稲川は牧師から「きょうの主役はあなたじゃない」と怒られてしまう。このあとホテルに場を移すと、司会のため彼が前に出ただけでみんな吹き出したらしい。

 その結婚式ではこれ以外にも失敗の連続だったが、出席していたある放送作家が終宴後、稲川に「きょうは楽しかったです」と連絡先を聞いてきた。後日、電話がかかってきてニッポン放送に呼ばれると、その日深夜3時からの『オールナイトニッポン』2部で急遽ピンチヒッターとしてしゃべることになる。その後も毎週呼ばれるようになり、やがて正式にレギュラーのパーソナリティに起用された。

 テレビでも深夜のお色気番組でレポーターを務め、共演者から邪魔者扱いされる被虐的なキャラクターで存在感を示し、タレントとして認知され始める。もっとも、おかげで、それまで専門学校や短大で務めていたデザインの講師の仕事がぱったり来なくなったという。

番組で出会った女性と結婚することに

 10歳下の夫人とも、稲川の出演していた『ミス・ティーン・コンテスト』という番組に高校生だった彼女が東北代表として出場したのが馴れ初めだった。約1年後に結婚しようかとなったとき、デザインか芸能界かどちらか一本に絞ろうと決意し、後者を選んだ。

 この時点でデザインの仕事で月20万円ほどもらっていたのに対し、タレントの仕事では8万円ほど。それでも、デザインの世界には戻ろうと思えば戻れるけれど、芸能界はまだ駆け出しだったので一度やめればもう戻れないと判断し、デザインのほうをやめることにしたという(『週刊文春』1996年9月26日号)。

 おかげで一気に収入はなくなり、生まれたばかりの長男を抱えながら、しばらくカネに苦労することになる。あるときなど、妻が子供のミルクが買えないと言い出したので調べてみたら、貯金通帳を預けていたマネージャーの使い込みが発覚するということもあった。

 そんな生活のなか、怪獣ショーの司会などでしばらく稼いでいたが、それから3年ほどして急に暮らし向きがよくなる。そのころには稲川はテレビのバラエティ番組での身体を張った企画が当たり、すっかり売れっ子になっていた。

〈 「ふいに、殺してしまおうかと」難病を抱えた次男、妻との別居…稲川淳二(77)が“夏以外テレビに出ない”と決めた理由とは 〉へ続く

(近藤 正高)

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