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「ふいに、殺してしまおうかと」難病を抱えた次男、妻との別居…稲川淳二(77)が“夏以外テレビに出ない”と決めた理由とは

文春オンライン / 2024年8月21日 17時0分

「ふいに、殺してしまおうかと」難病を抱えた次男、妻との別居…稲川淳二(77)が“夏以外テレビに出ない”と決めた理由とは

©文藝春秋

〈 デザイナー→ラジオ出演→“リアクション芸”でブレイク…怪談家・稲川淳二(77)の“異色の経歴”を知っていますか? 〉から続く

 本日8月21日に77歳の喜寿を迎えた稲川淳二。かつてリアクション芸で一世を風靡し、グッドデザイン賞の受賞歴も持つという多才な彼は、いかにして“怪談を語る男”になったのか。家族との別居を続ける理由、「夏以外はテレビに出ない」と決めた背景とは……? (全2回の2回目/ はじめから読む )

◇◇◇

熊の檻、マムシが4000匹いるプールにも…リアクション芸で一世を風靡

 稲川といえば、体を張った企画で苦しんだり悶えたりするさまを見せる、いまで言うリアクション芸で一世を風靡した。それも駆け出しのレポーター時代からのことで、観ている人に楽しんでもらおうとするあまり、サーカスのカンガルーの檻に入ってボクシングをしてぶちのめされたり、熊の檻に入って滑り台によじのぼったりしていたらしい。熊のときは、喜んでくれるはずの観客がさすがに青くなっていたという。

 これがだんだんエスカレートしていく。バラエティ番組で、トラの唇に口紅を塗ってキスマークをもらおうとして太ももを噛まれたり、マムシが4000匹いるプールの上を綱渡りして落ちてみせたりと、動物がらみだけでもいろんな企画に挑んだ。

 熱湯風呂もかなり早い時期からやっており、テリー伊藤(当時は本名の伊藤輝夫で活動)がプロデューサーを務める番組では事前に企画の内容を知らないまま、撮影当日、昼間に海で真っ赤に日焼けして現場に来たところ、浴槽が用意されていたという。これには数々の過激な企画で知られた伊藤も《もう、火ぶくれって感じでそれで、ふつうでも入ったとたん逃げ出したくなるような熱い風呂に入ったんだから。/あれはかわいそうだった》と、のちに雑誌での座談会で同情した。これに対し稲川は《私は因幡の白うさぎじゃないっていうの》とツッコんでいる(『微笑』1985年11月30日号)。

「いじめを売り物にするな」と言われると…

 稲川としてみれば人が喜んでくれたら本望であった。それでもいじめられていると言われることもしばしばで、ある男の子からは、いじめは一番卑怯なことだ、それを売り物にするなというはがきが届いた。彼はこれに対し、《わたしは、いじめられていると思ってはいない。それから、わたしはどんなに悲惨なことでも、自分でちゃんとクリアしている。お前たちはやられると、『ああ、いじめられている』とか、『ひどい目に遭っている』と言って何もできないだろう。わたしは相手がワニだろうがヘビだろうが、絶対に逃げたりはしない》と返事を書いたという(『週刊文春』1986年10月30日号)。

できれば見てる人を泣かしてみたい

 ただ、一方で稲川のなかでは、80年代半ばのこの時期、最近のギャグには単に相手を突き飛ばせば面白いと言わんばかりの残酷なものが多すぎるという思いも募っていた。

《笑いというのはそんなものじゃないんじゃないかと思うんです。笑いというのは、意外と何気ない、むしろそうじゃない部分で情けなかったりとか、そういうものだと思うんです。僕自身としては、できれば見てる人を泣かしてみたいという気持ちがあります。温かい涙が一番いいですね。うんと温かいやつをね》(同上)

 稲川のリアクション芸がウケたのも、滑稽でいながら、どこかペーソスがにじみ出ていたからではないだろうか。その人間臭さを買われてか、ドラマにもたびたび出演した。1992年にはNHKの大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』で、ポルトガル人宣教師とともに布教に回る修道士を演じている。このためにトレードマークのヒゲを剃って話題を呼んだ。

デザイナーの活動を再開し、グッドデザイン賞も受賞

 リアクション芸で一番稼いでいた頃には、「身体がガタガタになって動けなくなっても、右手ひとつで線くらい引けるように」と友人のデザイン会社に再就職し、再びタレントと二足のわらじを履くようになっていた。工業デザイナーとしては、列車内で使われる検札機や初期のバーコードリーダーなどを手がけ、1996年には自然石を使った車止めでグッドデザイン賞も受賞した。

 私生活では1986年に次男が生まれたが、その子は難病のため障害があり、生後4ヵ月で大手術を受けることになる。

 その手術直前、一緒にいた妻が一瞬、席を外した。いざ一人だけで次男と向き合い、稲川の胸中には、このまま生きても本人は苦労するだろうし、もしも自分が先に逝ったら誰が面倒を見るのか……などとさまざまな思いがよぎる。ふいに、次男の鼻をつまんで窒息させて殺してしまおうかと、手を伸ばしかけたものの、手が震えて、どうしてもできなかった。手術が終わり、ベッドの上で苦しそうに呼吸をしながらも病気と闘う息子を見て、稲川は殺そうとした自分を最低だと思った。そして、彼が生まれてから一度も名前を呼んでいなかったと気づくと、何度も名前を呼び、「俺はおまえの父ちゃんだぞ!」と叫んだという。

家族と別居生活をする理由

 次男の手術後も仕事に明け暮れ、1991年の元日、3日間ぶっ通しでテレビ出演をこなしたあと、ようやく帰宅したところ家には誰もいなかった。近所の人に聞けば、みんなでスキーに行ったという。しかたがないので、茨城につくった工房や、自宅近くの事務所に寝泊まりするようになり、2ヵ月ほど経って久々に家に戻ったら、鍵が替えられていた。以来、家族とは別居生活を続けている。

 これについて稲川は《私は身体を張って人を笑わせてて、女房は日々、看病しながら息子の人生を背負ってた。そりゃ、関係はおかしくなっていきますよ》と説明している(『AERA』2014年9月29日号)。別居したのは妻の負担を軽減するためでもあり、稲川自身、家で妻のつらい顔を見るのが切なかったからだった。それでも離婚しなかったのは、子供たちを思ってのことだった。

夏以外はテレビに出ないと決めた

 2002年、次男が生まれたときに告げられていた寿命の15歳となったのを機に、稲川はお笑いの仕事をやめ、夏以外はテレビに出ないと決めた。バラエティのタレントはどれだけ苦しくても、楽しそうに振る舞わねばならず、そんなふうに自分を殺してまで仕事をすることに疑問を覚えたからだった。

 自分が良しと思える方向に切り替えたのち、《怪談のほうにのめり込むことができたのは、下の子がいたおかげだよ。あの子がいなければ、適当にテレビに出てラクしながら甘えて生きてたと思う》と感謝の気持ちを述べている(『週刊朝日』2010年9月24日号)。

「要らない人、要らない命なんてないんですよ」

 怪談ばかりでなく、講演や街頭で障害者に対し理解を求める活動も行うようになった。2012年には、自分と次男について先述の手術の際の話も含めて新聞で告白し、反響を呼ぶ。その記事で稲川は、現在の日本の福祉政策や一般の人たちの障害者への態度にも疑問を投げかけ、最後は《世の中に要らない人、要らない命なんてないんですよ。それだけは、分かってください》と訴えた(『朝日新聞』2012年5月24日付朝刊)。

 次男はその翌年、26歳で死去した。このときばかりは夫婦で葬儀を出したが、稲川は《最後のお別れのとき、左目の端から赤く血がにじんでいたのが涙のように見えて、頑張ったなぁ、という気持ちで、思わず「26年も偉かったね」と口にしたら、女房から「26年も、じゃないでしょ!」と怒られてねぇ……》と振り返る(『AERA』前掲号)。

80代の男性から届いた一通の手紙

 この間も稲川は怪談を語り続けてきた。もともと怪談は商売にならないだろうから、あくまで趣味と割り切っていたという。だが、次男が生まれたころに届いた一通の手紙が、その考えを改めさせる。それは80代の高齢の男性が不思議な体験談を原稿用紙にびっしりとつづったものであった。これに稲川は、男性が自らの体験を託してくれたと思い、怪談に本腰を入れるようになったという(『プレジデント』2022年9月2日号)。

 怪談ツアーの常連客のなかには、毎年会場で知り合いができ、気づけばここに来ると田舎に帰ったような気分になると手紙をくれた人もいるという。その人は幼い頃に両親を亡くし、親類の家をたらい回しにされたため、自分には故郷がないとずっと思っていたらしい(『サンデー毎日』2018年8月19・26日号)。そんなふうにさまざまな人の思いを背負いながら、今年の夏も稲川は怪談を語り続ける。

(近藤 正高)

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