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20年前に廃線になった東急東横線の“横浜~桜木町間”は今どうなっているか 住宅街の中心に突如レール、万里の長城と呼ばれた高架、あのトンネルは…

文春オンライン / 2024年8月26日 6時0分

20年前に廃線になった東急東横線の“横浜~桜木町間”は今どうなっているか 住宅街の中心に突如レール、万里の長城と呼ばれた高架、あのトンネルは…

©KAZUHA/イメージマート

 みんな大好き、東横線——。東急には、田園都市線や目黒線などいろいろあるけれど、やっぱり東横線は押しも押されもせぬ中核路線だ。

 いかにもターミナル然とした渋谷駅はいつしか地下に潜り、地下鉄との直通運転がはじまった。おかげで、東横線内だけを走る列車はほぼ消滅してしまったが、そうであっても東急東横線の存在感が薄れることはない。

 と、そんな東横線。その行き先はというと、だいたいが元町・中華街駅だ。

いまではお馴染み「元町・中華街行き」だが...

 渋谷駅を出発した東横線は、目黒川を渡って中目黒、学芸大学や都立大学を経て、自由が丘は大井町線と交差するターミナル。

 田園調布駅では目黒線、多摩川駅では東急多摩川線と接続し、多摩川を渡ると武蔵小杉のタワマン群が見えてくる。日吉はいわずと知れた慶應義塾大学の門前駅だ。

 かつては温泉があった綱島駅を過ぎると鶴見川を渡り、東海道新幹線と交差すると横浜線と接続する菊名駅。以後、横浜市郊外の住宅地の中を走って横浜駅に向かう。

 ここからは地下を走ってみなとみらい地区へ。馬車道や日本大通りといった、幕末以来の港町・横浜の中心だったエリアを東に走り、終点の元町・中華街駅へ。北にはマリンタワーに山下公園、西側には駅名の通りの横浜中華街が広がる終点のターミナルである。

 正しくは横浜〜元町・中華街間は横浜高速鉄道みなとみらい線で、東横線とみなとみらい線の直通運転、というのが正確なところ。

 ただ、実態としては東横線の終点が元町・中華街駅といっても差し支えなかろう。東横線は、最後の最後に横浜のいちばん横浜らしいところを走って終着を迎える。

 でも、終着駅が元町・中華街駅になったのは、だいぶ最近のことだ。2004年2月1日、みなとみらい線の開通と東横線との相互直通運転開始によって、東横線の終点も元町・中華街駅になった。2004年、つまり20年ほど昔。

 すっかり「元町・中華街行き」の東横線が定着したいまとなっては、つい最近といわれてもピンとこないかもしれない。けれど、開業からもう100年近いという東横線の長い歴史からすれば、ほんとうについ最近のことだ。

かつて存在した東横線“ほんとうの終着駅”とは?

 それ以前の東横線の終点は、桜木町駅だった。いまは地下に潜った横浜駅も、そのときまでは高架駅。そのままJR根岸線と平行して高架のまま桜木町駅まで走り抜けて終点を迎えていた。

 それが、20年前に忽然と姿を消して、地下に潜ったというわけだ。ならば、横浜〜桜木町間の消えた東横線はその後どうなっているのか。廃線跡を、歩いてみることにした。

 東急東横線廃線の旅。そのはじまりは、横浜駅よりふたつ手前の東白楽駅だ。東白楽〜横浜間はもちろんいまも東横線で現役バリバリなのだが、いわば廃線跡探索の助走区間である。それがどういうことかは、すぐにわかる。

 高架下の駅を出て目の前の大通りを渡ってしばらく線路沿い。すると、東横線の高架が地下に潜ってゆくのと入れ替わりのように、地上から遊歩道が登ってゆく。

緑豊かな遊歩道にはところどころレールが埋められ...

 この遊歩道の名は、東横フラワー緑道という。東横線はもともと高架を走っていたが、みなとみらい線への直通運転を行うために地下に潜った。それで生まれた地上の空き地が、遊歩道として整備されたのがフラワー緑道だ。

 沿道は木々や草花で彩られ、ところどころに埋められたレールはここが東横線の高架跡だったことを示しているのだろう。周囲はまったくの住宅地。300万都市・横浜の住宅地の中をフラワー緑道が延びてゆく。

 もともとは高架だった東横線。だから、フラワー緑道も国道1号をオーバーパス。高架鉄道時代に使われていた跨道橋がそのまま緑道になっているようだ。国道1号を渡ったところには反町駅の駅舎が見える。かつて高架駅だったところから地下に潜った駅である。

 反町駅を過ぎてもフラワー緑道は続く。緑道の真上を跨いでいる歩道橋があったから脇道から登って見てみると、「昭和四十六年六月しゅん工」と銘打たれていた。

 昭和46年、つまりは1971年。東横線はもちろん地下には潜っていない時代だ。この歩道橋はかつて東横線の線路を跨いでいた跨線橋なのだろう。

 そして、この跨線橋から横浜方面を眺めると、小高い丘を抜けてゆくトンネルが口を開けて待っている。

住宅街の中にぽっかり口を開けて佇む、薄暗いトンネルを目指す

 坑口には「高島山トンネル」とある。トンネルの上部は住宅やお墓が建ち並ぶ密集市街地だ。かつての東横線、そうした住宅地の中をぶち抜くわけにもいかず、またなんだかんだとアップダウンの激しい横浜のこと、起伏を極力回避する目的もあって、トンネルを通したのだろう。

 そのトンネルの中へも、フラワー緑道は続いてゆく。まあるくぽっかりと口を開けたトンネルの中は薄暗く、どことなく不気味な気配も漂っている。

 けれども、まあ真夏の横浜のちっちゃなトンネル、それもよく整備された廃線跡の遊歩道トンネルならば、怖いことは何もない。

 ちゃんと明かりがともっているし、なんだかんだと行き交う人も多い。小さな丘を抜けて横浜駅近くの市街地から反町方面を結んでくれる遊歩道トンネルは、近道として地元の人にも重宝されているようだ。

トンネルを抜けると大ターミナル横浜駅がすぐそこに

 ちなみにこのトンネル、現役時代は複線用のトンネルだった。だから、遊歩道になるにあたって少し幅を縮める改修工事をしたのだとか。保安上の理由からか、通行できる時間は午後9時半までに制限されているのもポイント。

 それはまあ、中に入ると薄暗いトンネル、真夜中も通れると、何が起こるかわかりませんからね……。

 トンネルを抜けて旧東海道を渡ると、すぐに左手からJR線の線路がやってきて、横浜駅は目の前だ。

 東横線の横浜駅は、JR線と西口の駅前広場(と駅ビル)の間にぎゅっと押し込まれていた高架駅。立派な駅ビルが建っているいまの横浜駅には東横線のホームがあった面影はない。

 わずかに残っているのが、横浜駅北側の線路沿いに建つJR東日本系列の商業ビルの中だろうか。この中には、「はまレールウォーク」と名付けられたところがある。ちょうど高架が通っていたのと同じフロアの床面にレールを埋め込んで趣を増している。

 その北側には、古いレールや枕木が展示されている一角もあり、知る人ぞ知る廃線跡駅ビル、といったところだろうか。

 東横線の高架跡は横浜駅の中へと飲み込まれてゆく。再び姿を現すのは、いよいよ本格的に“廃線跡”になる横浜駅の先からだ。JRをオーバーパスした東横線の廃線跡は、帷子川を渡ってJR根岸線の高架と並ぶと、そのまま終点の桜木町駅を目指す。

ビルの谷間を抜けていく高架をたどると見えてきたのは...

 JR線を跨ぐ高架はすでに撤去されているが、その先からは高架のほとんどすべてが残っている。根岸線と仲良く並んでビルの谷間を抜けてゆく。ちょうど国道1号と交差する手前にあったのが、横浜〜桜木町間にあった唯一の途中駅、高島町駅の跡だ。

 部分的に高架が撤去されていたりして、もちろん中には入れない。けれど、どことなく駅があったのだろうということは実感できる。

 そのすぐ脇には、二代目横浜駅の遺構も残されている。実は初代の横浜駅は、今回の旅の目的地である桜木町駅の場所にあった。

 その頃の横浜はいま以上に港湾付近が都市の中心として賑わっており、そこに近づけたターミナルを設けたのも自然のなりゆきだった。

 その後、少し北の旧東横線高島町駅付近に移り、現在の横浜駅は三代目。東横線の廃線跡を辿ってゆくと、そんなターミナルの曲折の歴史に触れることもできる。

 高島町駅跡を見て国道1号を渡ると、ちょうどこのあたりからは北東側から首都高速の高架もやってくる。そのまま桜木町駅の手前までは、旧東横線・JR根岸線・首都高という3つの高架が並んで走る。

 高架の東側は高層ビルがいくつも並ぶみなとみらい地区、反対の西側は戸部や野毛といった市街地が広がっているエリアだ。

 また、高速道路の影に隠れて見えにくいが、この場所には貨物鉄道のための線路も走っている。

 もともと横浜駅から桜木町にかけての海沿い(つまりみなとみらい地区)には貨物線や三菱重工の造船所が広がっていた。そうした面影がかすかに残る、東横線の高架跡。

面影残る高架の途中には...

 東横線の高架は、かつて「万里の長城」などと揶揄されていたという。白壁の古めかしい造りがそう言わせたのか、海沿いと戸部・野毛の市街地を隔てていたことがそう言わせたのか。

 少なくとも、工場や貨物ヤードが並ぶ武骨なエリアと市街地を分かつ役割も持っていたことは間違いない。

 そんな「万里の長城」ならぬ旧東横線の高架の脇を歩いてゆく。道路の向かいには地下鉄の高島町駅の入口が見える。

 ありがたいことに、途中からは高架がそのまま歩道の上にせり出していて、日よけの屋根になっている。途中で高架の上に登ることができ、ほんの短い区間ながらも高架の上の遊歩道。それが途切れた端っこが、かつての東横線の終点、桜木町駅だ。

 JR桜木町駅の下を潜って東側に出れば、ランドマークタワーがシンボルのみなとみらいの行楽地が待ち受けていた。

 この廃線は、どういう経緯で生まれたのだろうか。

なぜ横浜~桜木町は廃止になった?

 そもそものはじまりは、みなとみらい地区の再開発計画だ。貨物ヤードと三菱の造船所跡地に新規埋立地を加えた再開発で、1980年代にはじまった。そのみなとみらい地区へのアクセスを改善するべく計画されたのが、現在のみなとみらい線。

 当初はJR横浜線を延伸する形を考えていたというが、ちょうど国鉄からJRに移行する時代にあって実現せず、東急東横線に白羽の矢が立った。

 東急にも実はこの計画はメリットがあったという。ひとつは、あまり利用者に恵まれていなかった横浜〜桜木町間を切り離すことができる点。

 もうひとつは、駅ビルとJR線に挟まれて手狭なのに拡張ができなかった横浜駅ホームを地下に移すことができる点。そうした事情もあって、東横線とみなとみらい線の直通運転という形で落着したようだ。

 そして、2004年にみなとみらい線の開通と東横線横浜〜桜木町間の廃止、そして東白楽〜横浜間の地下化が実現した。

かつての東横線高架は「落書きの名所」だった

 高島町〜桜木町間の高架下は、かつて落書きが名物になっていた。白壁の高架をキャンバスに、野生のバンクシーが暴れまくっていたのだ。それを逆手にとって、あえて「アートウォール」とする試みが行われたこともあった。

 けれど、せっかくホンモノのアーティストに壁画を設えてもらっても、すぐに落書きで上書きされる始末。結局、耐震補強工事を理由に落書き(アート?)はすべて消され、いまは落書き禁止の注意書きが貼られている。

 もともとこの高架も、東白楽〜横浜間と同じく遊歩道として整備される予定だったという。しかし、横浜市の財政難だとかなんだとか、いろいろな理由で実現したのはほんの数十メートルだけだ。

 将来的に遊歩道となるのかどうかはわからない。ただ、いまも貨物線が現役であり、またみなとみらい地区には港に線路をつないでいた廃線跡が残っている。そんな廃線跡とあわせて、ハマの廃線跡、ヘリテージツアーなんて悪くない。

 せっかく残っている東横線の高架跡。どうにかならないものか、と外野から勝手に期待してしまうのである。

写真=鼠入昌史

(鼠入 昌史)

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