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断筆宣言から半年…テレビと離れた今こそ語る、鈴木おさむの「木村拓哉とSMAP」論

文春オンライン / 2024年8月30日 11時0分

断筆宣言から半年…テレビと離れた今こそ語る、鈴木おさむの「木村拓哉とSMAP」論

木村拓哉 ©時事通信社

 誰もがその名を知る存在なのに、実像はなかなかつかめない。それでよけいに勝手なイメージが増幅し、肥大化した虚像がひとり歩きしていく―― 。それが木村拓哉という存在だ。真の姿を知りたいものだが、それを語れる適任者は思いつかない。いや、ひとりだけいる。放送作家として長年、木村拓哉およびSMAPの面々と苦楽を共にしてきた、鈴木おさむである。

 2024年3月31日に放送作家引退したのを機に、「小説SMAP」をうたった『 もう明日が待っている 』を刊行。SMAPの素顔の一端を明かしたのは記憶に新しい。テレビの世界を離れて約半年。いまだから語れる「木村拓哉論」「SMAP論」を伺おう。(全2回の1回目/ #2に続く )

◆ ◆ ◆

初対面はラジオ番組の仕事で

『もう明日が待っている』にも書きましたが、僕が木村拓哉さんと初めて会ったのは1994年12月のこと。TOKYO FMで新しく始まるラジオ番組「木村拓哉のWhat’s UP SMAP!」に放送作家として加わることとなり、スタジオで顔合わせをしました。

 当時の木村拓哉といえば、前年に出演したテレビドラマ『あすなろ白書』で人気に火が着き、いまのような大スターになる直前の状態です。

 生意気盛りだった僕は、ナメられてなるものかと勝手に思い込み、初対面だというのに彼へ言い放ちます。

「俺、『夢モリ』嫌いなんだよね」

 SMAPが出演していた人気番組「夢がMORI MORI」のことを、いきなりぶった斬ったんです。

 失礼な話だし、ふつうなら怒り出してもおかしくない。でも彼は笑いながら、「俺も」と言って握手をしてくれた。

 そういうこと言うヤツおもしろいじゃん、と受け入れる度量がすでに備わっていたんですね。

 ふたりとも同じ22歳ということもあって、すぐに距離が縮まりました。当時の彼の周りには同年代の仕事仲間が少なかったんじゃないかと思います。

 番組自体にも、FMラジオから世を騒がせたい! という熱気がありました。担当のディレクターともども、おもしろいことは何でもやってやろうと意気込んで、毎週ぶっ飛んだ内容を放送しました。

下ネタ連発で男性ファンも獲得

 話のテーマにも、タブーなんてつくりません。彼が当時付き合っていた彼女のことから下ネタまで、アイドル・木村拓哉にガンガン話を振りました。本人も決してノーを言わず、こっちが渡したものを「わかったよ」と、挑戦状を受けるように向きあってくれました。

 放送は毎週話題となり、女性誌がすぐ後追い記事を載せます。若い僕はどんどん調子に乗って、内容はエスカレートしていきました。

 1995年にSMAPがシングル曲『KANSHAして』をリリースしたとき、ディレクターの栗原(広志)さんと相談して番組内で企画したのは、「大ガンシャ祭」(笑)。

 木村拓哉に思い切り「ガンシャさーい!」と叫ばせたところ、番組が終わってからSMAPのマネージャー・飯島三智さんにメチャクチャ怒られました。やっていいこととやっちゃいけないことがある、と。ごもっともです。

 あれはさすがにやり過ぎだったかもしれませんが、やんちゃな男子校のノリを全力でやりきってくれました。

 彼は当時、糸井重里さんがやっていたTBSの深夜番組「カミングOUT!」にレギュラー出演していて、ある日のテーマが「オナニー」。そこでも彼は、自分のオナニーの話を正面からしていましたね。

 気安く放課後のバカ話みたいなことができるキャラクター。それはまったく新しいアイドル像となって、女性のみならず、同世代の男性にも大いに受け入れられていきます。

 田原俊彦さんや本木雅弘さんなど、旧ジャニーズ事務所で大人気だったタレントは彼以前にもいますが、そのなかで木村拓哉が革命的だったのは、男性ファンをたくさん抱えたことです。

 それまでの旧ジャニーズ事務所のアイドルは、男子にとって嫉妬の対象でした。僕らの世代なら、中学生のころ女子たちは皆、光GENJIや少年隊に夢中だった。グッズの下敷きや雑誌『明星』の切り抜きを持っていて、男子はそれを横目で見ながら、ただただおもしろくない気持ちだった。

 そこへ木村拓哉が出てきて、男子の支持を得ることとなります。男性アイドルが着ている洋服に憧れ、男子たちが真似して同じ服を買う現象なんて、彼以前にはあり得ないことでした。

老若男女に愛されるという資質

 老若男女に愛されるという資質が、その後の木村拓哉の大ブレイクのベースとなったのは間違いありません。

 ふつうアイドルとしてワーキャー言われるようになると、その状況に浸ってしまいがちなものですが、彼は決して呑まれたりしなかった。ルックスがいいだけじゃダメで、それじゃ長続きしないとよくわかっていたんです。

 そこで彼は、自分なりの「カッコいい」の基準を持ち、スタイルを磨き続けようとしました。

 そのために彼がしていたことの中のひとつ。カッコいい大人たちと積極的に交わり、彼らのカッコよさを熱心に摂取し、取り入れようとしていたと思います。

 幸い木村拓哉さんの周りには、カッコいい大人がたくさんいました。名だたるミュージシャンだったり、糸井重里さんのようなクリエイターだったり……。

「カッコいい木村拓哉」をコツコツ築いた

 出会って2年目のこと。ラジオの収録が終わり遊んでいたとき、「すごくいい歌があるんだよ」と彼が言ってきました。実川俊晴さんが「あんしんパパ」名義で発表していた、『はじめてのチュウ』。「キテレツ大百科」のオープニング・エンディング曲として知られ始めていたけれど、まだ知られざる名曲という扱いでした。

 この曲を彼に教えた大人が、きっといたはずです。彼はそれを自分の耳で聴いて、よさを理解し、レパートリーに加えます。いち早くカバーしてライブや番組で歌い、世の中に「これ、いい曲だよね」と知らしめていったのです。

 彼は20代前半のうちからカッコいい大人に倣い、センスのいいものと出逢うことに時間を割き、「カッコいい木村拓哉」をコツコツ築いてきたんだと思います。人としてのセンスを磨き続けるセルフプロデュース力こそ、木村拓哉を国民的な存在へと駆け上がらせていった原動力でした。

 それを考えると、彼が明石家さんまさんと仲がいいのは、すごく納得がいきます。ふたりとも「オン」と「オフ」がなく、24時間ずっと「オン」の人たちだから、気持ちを理解し合えるのでしょう。彼らはいつだって明石家さんまであり、いつも木村拓哉ですから。おそらく木村拓哉は、だれも見ていないときでも、木村拓哉なんだと思います。

 木村拓哉に対するよくある批評として、「彼はいつ見ても、どんな役をしていても、木村拓哉だ。変わり映えしない」というのがありますが、それってスゴいことだし、それでいいんだと思います。いつも本人らしくいることを求められるなんて、俳優でいえば田村正和さんや高倉健さんのような、選ばれしごくわずかな人しかいません。木村拓哉は堂々とそこを登り詰めればいい。

 実際、木村拓哉が演じ切ることによって、これまでにたくさんいい作品が生まれました。『マスカレード・ホテル』の刑事役や『グランメゾン東京』のシェフ役は、主演が木村拓哉であることを存分に利用して成功した例です。

 ことし放送されたドラマ『Believe』も、新境地を見せながらも「らしさ」をしっかり出していました。彼ももう50歳を過ぎたわけですし、木村拓哉であることをもっと全開にしていってほしい。木村拓哉を起用してドラマや番組をつくる側は、恐れることなく、いつも変わらぬ木村拓哉を描き出していってほしいですね。

名物マネージャー飯島三智の功績

 たゆまぬセンス磨きと自己プロデュース力が、スター・木村拓哉をかたちづくってきたと言いました。

 もうひとつ、重要なファクターがあります。ブレーンとして木村拓哉の周りにいる大人たちが超優秀だったことです。とりわけ影響力が大きかったのは、マネージャーの飯島三智さんだと思います。

 飯島さんのスゴさはまず、器が大きいところ。

 ラジオ番組で木村拓哉に「大ガンシャ祭」と叫ばせて、飯島さんから大目玉を食った話は先ほどしました。自分のところのタレントにそんなことを言わせた放送作家なんて、即刻クビにしたっておかしくないのに、飯島さんはそうしない。代わりに、

「おもしろいのはわかるよ、でもこれはやっちゃダメなラインだ」

 と厳しく諭す。「おもしろいのはわかる」と認めてくれるところがポイントです。

 ガツンと怒られるだけではただ臆病になって、次から萎縮してしまうかもしれない。けれど、怒られつつも「おもしろい」と言ってもらえると、臆せず次はもっとおもしろいことやってやろう、となる。飯島さんは人を伸ばす達人です。

 彼女が打ち出す方針は、いつもちゃんと筋が通っているところもスゴい。

 木村拓哉はブレイク前夜、付き合っていた彼女の存在を隠さずにいました。ファンのだれもが彼女の名前まで知っていた。あの時代にそのスタンスはかなり新しかったものです。

 木村拓哉の生来の性格からして、いらぬ隠しごとをしたくなかったのでしょうが、大っぴらにできたのは飯島さんの意向もあったのだと思います。

 飯島さんのマネージング方針は、事実であることを隠さないスタイルでした。どんなことでもタブーをつくらず、決してコソコソせず、認めるところは認める。そう、「男らしさ」ということを、飯島さんはいつも大事にしていたのです。

 2000年に人気絶頂の木村拓哉が電撃結婚したときも、飯島さんの筋の通し方は際立っていました。

結婚をすっぱ抜かれ…会見を躊躇する木村に言ったひとこと

 彼が結婚する事実を、僕は早い段階で知らされたひとりでした。あるときラジオ番組の収録に立ち会っていると、彼がスタジオのブース内に僕を招き入れ、結婚と子どもを授かったことを報告してくれた。

 僕は大いに驚いて、収録が終わるとすぐ飯島さんに電話しました。

「今日聞きました」

 そう告げると飯島さんは、

「あ、聞いた?」

 と冷静な応答。「そうなの、いや困ってんのよ!」といった言葉を想像していたのに、思いのほか落ち着いていた。ああ、もうすでに飯島さんは、結婚と子どもが生まれることをしっかり受け止め、堂々と対応していく覚悟を決めているのだとわかりました。

「木村拓哉、結婚」のニュースは、年内いっぱい続くSMAPのライブツアーが最終日を迎えたあと、会見を開き発表する予定でいました。ところが先んじて、あるスポーツ新聞に「入籍」「妊娠」とすっぱ抜かれてしまった。

 そのときの飯島さんの対応は素早かった。その日のライブ終了後に、急遽会見をすると決断したのです。木村拓哉本人が珍しく躊躇するのを見て、飯島さんは言いました。

「男らしくない!」

 事実は事実と認め、覚悟を決めて向き合うんだという飯島さんの信念が、このひとことに凝縮されていました。

 飯島さんの筋の通った立ち居振る舞いが、木村拓哉のイメージづくりに大きく寄与してきたことは、間違いないところでしょう。

〈 「あの謝罪放送で、放送作家としての僕は死んだ」SMAP“公開謝罪番組”で見たことを書き記した本当の理由 〉へ続く

(山内 宏泰)

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