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その棋風は「千駄ヶ谷の我慢流」…中年プロが27歳の天才将棋棋士に挑む“盤上の物語”を木村一基九段が監修したワケ

文春オンライン / 2024年8月24日 17時0分

その棋風は「千駄ヶ谷の我慢流」…中年プロが27歳の天才将棋棋士に挑む“盤上の物語”を木村一基九段が監修したワケ

七月隆文『天使の跳躍』(文藝春秋)

 一局の将棋は、よく人生に例えられる。対戦相手と対話するように戦いが始まり、対局ひとつひとつにドラマがあるからだろう。盤上の景色はどんどん変化し、対局中は様々な感情を味わう。期待、勇気、興奮、油断、迷い、恐怖、驚き……。

「角換わりは無趣味の独身が有利」といわれるほどAIによる研究が過熱しても、メンタルが勝負に占める割合は大きい。地力に加えて体力や気力など、そのときの自分がすべて試される。同じ相手とタイトルを懸けて、数か月にわたり何度も対戦するならば、よりその物語は濃くなる。

この物語のモデルは…

 七月隆文『 天使の跳躍 』は、27歳の天才棋士に46歳の中年プロが挑む話だ。タイトル八冠を独占する源大我(みなもと・たいが)聖王に挑戦するのは、実力派の田中一義(たなか・かずよし)八段。これまでにタイトルに5回挑戦するも獲得はならず、相手の攻めを受け続ける棋風は「千駄ヶ谷の我慢流」と呼ばれる……。

 そう、この物語は「千駄ヶ谷の受け師」こと木村一基九段がモデルになっている。木村九段は2019年、タイトル7回目の挑戦で初めて「王位」を獲得し、史上最年長の初戴冠46歳の記録を樹立した。最年少記録が「早熟」の証だとすれば、最長年記録からは長年にわたって第一線に踏みとどまってチャンスを実らせる「執念」が伝わってくる。

本音をさらけ出しながらも、笑いを取る

 タイトル獲得直後のインタビューで誰よりも喜んでいるであろう家族への思いを問われると、目を潤ませて涙をぬぐい、いたずらっぽい笑みを浮かべながらかすれた声で「家に帰ってからいいます」と答えた。後日に行われた文藝春秋の主催イベント「観る将ナイト2019」では、その真相を次のように語っている。

「王位戦のインタビューで家族のことを聞かれて泣いちゃったのは、(対局中に食べる)この弁当を(奥さんが)作ってくれている姿を思い出したからなんですよ。私を置いて行ったトルコ旅行のことを思い出せば、泣かずに済んだのに。このへんが、まだまだ私の未熟なところで。(中略)しかも、宅急便が届くというので、家で待っていたんですよ。今度、家族のことを聞かれたら、この旅行のことを思い出して、泣かないようにしたいと思います」

 本音をさらけ出しながらも笑いを取りにいくのが、「ウケ」を得意にする木村流。当日のイベントは涙あり、笑いありで大盛り上がりだった。

本書には、木村九段がいかにも飛ばしそうな冗談も

 本書も木村九段がいかにも飛ばしそうな冗談が散りばめられている。棋譜制作は木村九段が務め、渡辺明九段と飯塚祐紀八段が取材に協力した。タイトル戦でおなじみの名宿や呉服店に話を聞いたとあって、将棋界のしきたりやエピソード、ファンの盛り上がる様子が事細かに再現されている。

 芸術と美を愛することから「男爵」と呼ばれる青年。飛車を4筋に回るだけでファンを沸かせる振り飛車の大家。将棋ファンの方なら思わずモデルになっている棋士を思い浮かべてクスりとしてしまうだろう。

 ライトノベルを中心に発表してきた作家だけあって、甘酸っぱい話も展開される。とはいっても、対局の前の晩に奥さんと電話するなんてことはさすがに現実では……いや、あったのかもしれない。名人戦の大舞台で「勝ったと思って早く恋人に電話したいと考えていたら、集中できずに大逆転負けした」という棋士もいたぐらいだ。

プロの世界は厳しい。「天使の跳躍」は、その答え

 藤井聡太は、17歳の史上最年少で初タイトルを獲得した際に、AIが棋士の実力を超えた中で人間が将棋を指す意味を問われると、次のように答えた。

「いまの時代においても、将棋界の盤上の物語は不変だと思います。その価値を自分自身、伝えられればと思っています」

 本書は小説でその言葉に共鳴している。棋士は現役期間が長く、多くは20代でプロになって60代で引退する。筆者の感覚では、30代半ばからクラスが落ちるイメージだ。衰えは誰もが避けられない試練である。自分が自分でなくなっていく感覚を覚えながらも、自分を見つめなければ戦略を練ることはできない。

 戦いを職業にするさだめとはいえ、プロの世界は厳しい。そして、人は夢に触れてしまう。希望と絶望の平均台を歩いていくかのような緊張に充ちた日々は、ドラマティックでありながらも夢に甘噛みされる苦しさがあるだろう。だが、それを生ききったときにしか見えない世界がある。タイトルにもなった将棋用語「天使の跳躍」は、その答えだ。

(小島 渉)

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