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笑いの絶えなかった定子サロンvs「陰気だ」と評された彰子サロン 彰子サロンを盛り立てるために後から投入された紫式部

文春オンライン / 2024年8月28日 6時0分

笑いの絶えなかった定子サロンvs「陰気だ」と評された彰子サロン 彰子サロンを盛り立てるために後から投入された紫式部

『紫式部と男たち』(文春新書)

〈 藤原行成、紫式部のスカウト。藤原道長は時代を作った名キュレーター《『光る君へ』をもっと楽しむためのブックガイド+α》 〉から続く

 物語のひとつの折り返し地点を迎えたNHK大河ドラマ『光る君へ』。作品の中では、いよいよまひろ(紫式部)が『源氏物語』を書き始めた。娘である中宮(ちゅうぐう)彰子(しょうし)のもとに帝(一条天皇)の渡りがないことを重く見て、道長は帝のお気持ちを彰子に振り向けるためにまひろに物語の執筆を頼み込む。作品の骨格にも道長が関与しているという筋立てだ。今後、まひろは女房として宮仕えを始め、彰子サロンを盛り立てる大事な役割を担うようになるはずだ。では、このサロンとはどのようなものだったのか?『源氏物語』はいかに書かれていくのか? 木村朗子さん『 紫式部と男たち 』(文春新書)より一部抜粋してお届けする。

中宮彰子サロンと女房たち

『栄花(えいが)物語』によると、長保(ちょうほう)元(九九九)年十一月一日の彰子入内(じゅだい)に際して、道長は、女房四十人、童女(わらわめ)六人、下仕(しもづかへ)六人を選びに選び抜いた。単に容姿や人柄の良いというだけでなく、四位(しい)、五位の家の娘のなかでもとりわけ「ものきよらかに、成出(なりいで)よき」ものばかりを選んだとある。要するに育ちのよいお嬢様ばかりを揃えたわけである。ところが、これがまったくの戦略ミスで、彰子サロンはすこぶるさえなかったのである。

 彰子が十二歳を迎えるとすぐに成人の儀である裳着(もぎ)を終え、入内する。女御(にょうご)となり、中宮となるが、十二歳では身体はいまだ出産できる状態にはない。一条天皇が氏の長者となった道長をはばかって彰子サロンにやってきたきたとしても男女の仲らいにはならない。

 そこで一条天皇を彰子サロンに惹きつけるために用意されたのは豪華歌絵本だった。当時の宮廷おかかえ絵師であった巨勢弘高(こせのひろたか)が絵を描き、能書家(のうしょか)の行成が和歌を書いた歌絵の冊子をあつらえたのだという。道長は、行成の達筆に頼ってなんとか文化的に一条天皇を惹きつけようとしたのである。せめてそこに魅力的な大人の女房がいれば、召人(めしうど)として夜を過ごしていくこともあったろう。ところが集められたのは名家のお嬢様であるから、彰子とどっこいどっこいの幼く気の利かない女たちばかりだったのである。

 その一年後に、中宮定子(ていし)は第三子の女宮(おんなみや)出産ののち、はかなく亡くなってしまった。あんなにも評判だった中宮定子サロンは彰子入内ののち、すぐさま消え去った。それがよけいに定子への思慕をかき立てただろう。中宮定子がいらしたころはよかった、と。なにしろ彰子サロンはつまらないのである。

 このさえない彰子サロンを盛り立てるために紫式部はあとから投入されたらしい。紫式部が彰子サロンに加わったのは、すでに定子サロンが失われたあとで清少納言とは入れ違いだった。

 紫式部を見出したのは、漢学者の紫式部の父為時(ためとき)を知る、行成(ゆきなり)だったかもしれない。藤原為時は、一条天皇を即位させるために兼家によって退位に追い込まれた花山天皇に学問の師として仕え、一条天皇代には、散位(さんい)となって長く位を解かれたままだった。長徳二(九九六)年に為時は越前守(えちぜんのかみ)に任じられ、これに紫式部も同行したといわれている。

彰子と紫式部――彰子サロンをめぐる感想を『紫式部日記』に書きつけた

 紫式部は『源氏物語』のほかに、『紫式部日記』を残している。『紫式部日記』は、寛弘(かんこう)五(一〇〇八)年の中宮彰子の第一子出産とその後の誕生の儀の記録の他、女房批評があったり、道長との交流が描かれたりなど種々雑多な内容をもった文章が混じっている書き物である。

『蜻蛉(かげろう)日記』や『更級日記』とは異なって、『紫式部日記』は自身の人生を書き記したものではないので読み物としての一貫性がない。彰子を讃(たた)えるという目論見で、『枕草子』のような断章的な書き物をめざしていたようにもみえない。大部を占めるのは彰子の皇子(おうじ)出産記事だから、これを記録することが求められていたとおぼしい。

 ところがこの出産記事は微に入り細を穿(おうじ)ちすぎていて、まるで次第書(しだいがき)[i]のよう。それこそ資料的に興味深いものの、せっかく物語作者に書かせたというのに読み物としての面白みには欠ける。この出産記事は、のちに道長の栄華の極みを頂点とした歴史物語である『栄花物語』が書かれるにあたって、そっくり取り込まれている。とすると『紫式部日記』の出産記事は道長の依頼で書かれ、道長に提出されたということになるだろう。

『紫式部日記』には、誰かに書き送った手紙文のような文体で書かれた箇所が含まれている。そこには、つまらないと評判の彰子サロンを客観的に観察しての率直な感想が書かれている。

 定子亡き後、すぐれた女房たちが集っているともっぱら評判だったのは選子(せんし)[ii]斎院(さいいん)のサロンである。この消息文(しょうそくぶん)(手紙の文章)には、選子斎院のサロンと比較して彰子サロンを評するところがある。

 あるとき紫式部は、選子斎院のもとで女房出仕している中将(ちゅうじょう)の君(きみ)という人の書いた文(ふみ)をこっそり見せてもらったのである。すると、それは優美な筆致で、我のほかに、この世の物の道理をわきまえていて思慮深い人はいない、およそ世の人というのは心も肝(きも)もなく無分別だとでもいう書きぶりで、読んでいてむしょうに腹が立ってきたというのである。そこには「和歌などの情趣をわきまえている人はいまどき我が主人の斎院さまをおいて他にだれがいるでしょうか。いまどきの世に情趣をわきまえたような人が出(いでくるとしたら、我が斎院さまがそれを正しく判断することでしょう」と書かれていた。

 紫式部は、実際、斎院サロンは評判だが、だからといって斎院方から出てきた和歌にとりわけすぐれて良いとみえるものはない、ちっともたいしたことはないではないか、と手厳しい。実際、斎院サロンは、風流、風情がある女房たちが集まっているところだとはいうが、そこに仕えている女房を比べてみても、こちらの彰子サロンの女房たちに必ずしもまさっているというわけではない。ただ斎院というのは、常に人が出入りするようなところではなくて、趣き深い夕月夜やら、有明方(ありあけかた)(夜明けの時分)、花盛りの頃、ホトトギスのやってくる頃などに集いがあるわけなのだから、それで趣き深い所にみえているだけなのだ。自分だって斎院のもとに仕えていたら、どんなにか優雅な女房にみえることだろう、と書いている。道長から評判の選子サロンからすぐれた女房を彰子サロンにハンティングするのはどうかという問い合わせでもあったらしい。その上、道長は選子斎院に仕える女房にもだれか紹介してくれないかと問い合わせたのだろう。その返事が、紫式部がこっそり見せてもらったという中将の君の手紙なのだろう。

笑いの絶えなかった定子サロンvs「陰気だ」と評された彰子サロン

 定子が亡くなって、いま後宮(こうきゅうには彰子に張り合う勢力はない。後宮のサロンというのは、天皇や中宮に仕える男性官人が頻繁に出入りするような場所で、その点で宮中の外にある選子斎院のサロンでは比較対象にならない。出入りの男性官人に「彰子付きの女房は陰気だ(中宮の人、埋もれたり)」、「気遣いがない(用意なし)」と言われてしまっているのだから、やはり笑いのたえなかった亡き定子サロンと比べられてしまっているのである。

 中宮(ちゅうぐう)大夫(だいぶ)として供奉(ぐぶ)する(仕える)かの美男の斉信(ただのぶ)がやってきたときの応対にも、彰子付きの女房は失敗をおそれてまごまごするばかり。斉信はあまりにつまらなくて早々に引き上げてしまうのだった。斉信は定子サロンに馴染み、清少納言をよく知っている人である。その斉信に愛想を尽かされるのでは困るのである。

 そんなこんなで男たちは彰子サロンを「埋もれたり」(陰気だ)と評して、そんな評判が高くなっているころだった。紫式部の観察によると彰子の幼さはいかんともしがたいとしても、周りの女房たちも幼くてなってないのである。そもそも彰子が男出入りの激しい軽薄な女房を嫌っていて、それを粋だとは考えない気風なのである。しかもとくに道長が集めた上臈(じょうろう)中臈(ちゅうろう)の女房たちは、身分の高い男の娘たちで、よりすぐりの姫君たちである。この姫君たちは、まったくもってお嬢様然としていてサロンを盛り立てるのに一向役に立たないと紫式部はやきもきしている。かといっていまさらお嬢様たちをけしかけて男に軽口をたたかせるのは無理な話。

 ただこのサロンをこんなふうに地味で、色気も素っ気もないままにしておいてはならないと思うし、中宮彰子もだんだん大人になって、これではまずいと思い始めているのだ、と書く。そこで新しく気の利いたことの言える女房を投入する必要がある。新規に雇い入れる女房についてもさまざま候補が上がっていたのだろう。有名な清少納言をこき下ろす文章は、ここに接続しているのである。

[i] 次第書 事物の由来、行事の順序を書いた文書。
[ii] 斎院 賀茂神社に仕える人で、未婚の皇女から選ばれる。

〈 和泉式部、赤染衛門、清少納言を紫式部はどう評した? ライバルたちをめぐる辛口批評と評判を呼んだ『源氏物語』 〉へ続く

(木村 朗子/文春新書)

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