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和泉式部、赤染衛門、清少納言を紫式部はどう評した? ライバルたちをめぐる辛口批評と評判を呼んだ『源氏物語』

文春オンライン / 2024年8月28日 6時0分

和泉式部、赤染衛門、清少納言を紫式部はどう評した? ライバルたちをめぐる辛口批評と評判を呼んだ『源氏物語』

和泉式部 Hannah, Public domain, via Wikimedia Commons

〈 笑いの絶えなかった定子サロンvs「陰気だ」と評された彰子サロン 彰子サロンを盛り立てるために後から投入された紫式部 〉から続く

 物語のひとつの折り返し地点を迎えたNHK大河ドラマ『光る君へ』。作品の中では、いよいよまひろ(紫式部)が『源氏物語』を書き始めた。娘である中宮(ちゅうぐう)彰子(しょうし)のもとに帝(一条天皇)の渡りがないことを重く見て、道長は帝のお気持ちを彰子に振り向けるためにまひろに物語の執筆を頼み込む。作品の骨格にも道長が関与しているという筋立てだ。今後、まひろは女房として宮仕えを始め、彰子サロンを盛り立てる大事な役割を担うようになるはずだ。『源氏物語』はいかに書かれ、評判を呼んだのか? 紫式部は同時代の女性の書き手をどう見ていたのか? 木村朗子さん『 紫式部と男たち 』(文春新書)より『紫式部日記』を読み解く箇所を一部抜粋してお届けする。

紫式部の辛口女房評――和泉式部、赤染衛門、清少納言について

 紫式部が我がサロンについて述べた箇所につづくのが、かの有名な和泉式部(いずみしきぶ)、赤染衛門(あかぞめえもん)、清少納言についての辛口批評である。まず、筆頭候補であったのか、和泉式部評が書かれている。

 和泉式部という人とは、趣きのあるやりとりをしたことがあります。けれど、和泉式部はけしからんところのある人です。気軽に走り書きしたような手紙にも文才があるし、ちょっとした言葉づかいが美しいのです。和歌はたいそうすばらしい。古歌を暗記して、歌ことばの決まりなどがよくわかっている、いわゆる職業歌人というふうではないが、口からふとでてくることばに必ず魅力のある一節があって、目をひく詠みぶり。ただし人の詠んだ歌を批評したりする心得があるわけではない。理屈抜きに自然と歌が詠めてしまう人なのでしょう。立派な歌詠みというわけではありません。

 和泉式部の和歌は素直な詠みぶりで実にいいのである。『和泉式部日記』は恋人だった敦道(あつみち)親王との恋のはじまりから、邸(やしき)に引き取られ召人の女房となるまでを歌のやりとりでつづった恋愛歌物語で、和泉式部の才能を十二分に発揮した魅力的な一書である。ただし、体系だった学問としての和歌に詳しいわけではないので、おそらく人に教えるような役には向いてはいなかっただろう。

 次に赤染衛門評があるが、道長の栄華をたたえるために書かれた歴史書『栄花物語』を書いたと言われている人で、もともと道長の正妻倫子(りんし)のもとで女房をしていたらしく、紫式部の大先輩。大江匡衡(おおえのまさひら)の北の方なので官中で、あるいは道長の邸で匡衡衛門と呼ばれている。歌詠みとしては何かにつけて詠み散らかしたりはしないが、知られているものにはすぐれたものがあると讃えている。それに続くのが清少納言評である。

 清少納言こそ、したり顔で大袈裟にしている人です。あれほど利口ぶって漢字を書き散らしていますけれども、よく見ればまだたいそう至らないことが多い。こう、私は人とは違うと見せたがる人は、きっと見劣りして化けの皮がはがれるでしょう。たいしたこともないことにも、もののあわれを言い立てて、美しいことを見過ごさないでいようとするので、自然とむやみに浮ついたようになるのでしょう。その浮ついた人の成れの果てにどうしてよいことがありましょうか。

定子亡きあとの清少納言

 清少納言が定子亡き後、どうしたのかはわかっていない。そのまま定子出生の子をひきとった定子の妹、御匣殿(みぐしげどの)のもとに仕えたかもしれない。ただし御匣殿も定子亡き後、一条天皇の寵愛を得て懐妊したものの、定子の死の翌年に亡くなってしまった。あるいは定子出生の敦康(あつやす)親王付きの女房となったとしたら、敦康親王は定子の死後には彰子のもとで育てられるので、清少納言は存外、紫式部の近くにいたことになる。清少納言が漢籍に詳しく、漢詩をふまえたやりとりをして、男たちを楽しませたことはよく知られていただろうから、いま男たちが彰子サロンはつまらないと言っているなかでもっとも必要な人材だったはずだ。しかし、漢籍に詳しいという意味では学者筋の父を持つ紫式部にも自負がある。漢籍のことなら、なにも清少納言を呼び出さずとも私で十分です、と主張したいところだろう。

紫式部の自負と『源氏物語』

 このあとに続けて、紫式部は自らの生い立ち遍歴を述べ、いかに漢籍に親しんできたかを書きつけていく。亡くなった夫の宣孝(のぶたか)が残していった漢籍があって、それをつれづれ読んでいたら、女房たちが集まってきて、ご主人さまはあんなものを読んでいるから女の幸せをつかみそこねるのです。なぜ女が真名(まな)書き(漢字)を読むことがありましょう。昔はお経さえ読むなと注意したものです、などと陰口を言っているのを聞いたこと。一条天皇が源氏の物語を人に朗読させてきいていたとき「この人は日本(にほん)紀(ぎ)をこそ読みたるべけれ。まことに才(ざえ)あるべし」(この人は歴史書を読んでいるらしいね。本当に学識がある)と言ったので、一条天皇に仕える女房の左衛門(さいも)の内侍(ないし)という人が、「日本紀の御局(みつぼね)」にあだ名をつけられたこと。

 弟の式部丞(しきぶのじょう)、藤原惟規(のぶのり)が子どものころ、漢文の勉強をはじめたとき、隣で聞いていた自分の方が見る間に上達して、弟が忘れているところも覚えていたりなどしたので父親が「残念だ。この子が男の子でなかったのは運がなかったということだな」と嘆いていたこと。さらに、中宮彰子が『白氏文集(はくしもんじゅう)』を読めるようになりたがっていて、紫式部が人目のないときにこっそりと「新楽府(しんがふ)」と呼ばれる二巻を教えていることが書かれている。おまけに女房仲間たちにも、もっと付き合いにくい人かと思ったら、おっとりしていて意外だったと言われているし、中宮彰子にも「あなたとはうちとけられないと思っていたけれど、人よりずっと仲良くなったわね」と言われたと書かれていて、彰子の信頼も得た。彰子は『枕草子』に書かれているような漢籍の引用で冗談を言い合うような知性を求めていたが、紫式部は、これだけの証拠を並べて、それを補う役目は自らが十分に果たせることを示している。

 しかし結局のところ、漢文の素養が表立って求められていたわけではない。一条天皇をはじめとして彰子サロンへの関心をかきたてたのは、なんといっても紫式部の書いた『源氏物語』なのだった。

『源氏物語』の政治利用――次代の天皇の后となるべき次の娘を輝かせるために

『紫式部日記』の中宮彰子の敦成(あつひら)親王出産記事には、里邸(さとやしき)で出産した彰子が宮中に戻るにあたって持たせるための豪華本が用意されたことが書かれている。とっておきの紙を選び出し、物語の元原稿を添えて方々に書写の依頼を出して真新しい一冊を整えるのである。

 ところが自分の部屋に元原稿を隠しておいたのを、中宮のもとに控えているあいだに道長が部屋をあさってみな内侍の督(かん)のほうへやってしまった。きれいに書き直したものはみな失ってしまった、と書かれている。したがってこれは紫式部が書いた『源氏物語』の決定版をつくる作業なのである。しかしあらかじめ清書してあった分は、道長の判断で彰子の同母妹の妍子(けんし)の手に渡ってしまった。妍子はのちに次代の天皇、三条天皇の妃となる人で、入内前に内侍として宮中に参っているのだった。

 三条天皇(居貞(おきさだ)親王)は、冷泉(れいぜい)天皇の子、花山天皇の弟で、一条天皇が即位すると東宮(とうぐう)(皇太子)についたが、彰子出生の皇子を即位させたい道長にとっては傍流の中継ぎではある。そうはいっても三条天皇の即位を見越して手を打っておかねばなるまい。寛弘七(一〇一〇)年に妍子は東宮に入内するのだが、その前の寛弘元(一〇〇四)年には内侍としてすでに宮中にいた。彰子を盛り立てたはずの『源氏物語』は、早くも次代の天皇の后となるべき次の娘を輝かせるために利用されたのである。

(木村 朗子/文春新書)

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